凪の生活
第1章:凪の生活
四月の柔らかな日差しが、リビングの古びた木目調のテーブルに細長い影を落としている。 波多野香織は、手元のマグカップから立ち上る湯気をぼんやりと眺めていた。中身は、少し奮発して買ったシングルオリジンのコーヒー。娘の美月が高校二年生に進級し、部活動に励むようになってから、こうして一人で静かに朝の余韻を味わう時間が、香織にとっての何よりの贅沢になっていた。
「ママ、またボーッとしてる。遅刻しても知らないよ?」
背後から飛んできた弾むような声に、香織はハッとして時計を見上げた。七時四十五分。 「……もうそんな時間。美月こそ、忘れ物はないの? 今日は小テストだって言ってたじゃない」 「もう、とっくに準備万端だってば。はい、これ」
美月が差し出したのは、香織が昨夜のうちに用意しておいたお弁当包みだ。高校生になってから、美月は急に大人びた。かつて、離婚直後の嵐のような日々の中で、私のスカートの裾を掴んで泣きじゃくっていたあの小さな女の子は、もうどこにもいない。今の美月は、香織の背を追い越しそうなほど背筋が伸び、自分の意見をしっかり持つ一人の女性になりつつあった。
「じゃあ、行ってきます!」 玄関のドアが勢いよく閉まり、バタバタという足音が遠ざかっていく。 再び訪れた静寂。香織は最後の一口を飲み干し、流し台に立った。
鏡に映る自分を見る。 四十三歳。目尻には年齢相応の小皺があり、髪も二十代の頃のような艶はない。けれど、六年前、あの地獄のような結婚生活に終止符を打った時に比べれば、今の表情はずっと穏やかだ。元夫の怒鳴り声に怯えることも、深夜まで帰らない彼を疑って胃を焼くこともない。 仕事をして、娘を育て、二人で笑って夕飯を食べる。 これで十分だ。これ以上、何を望む必要があるだろうか。
……そう、自分に言い聞かせ続けてきた。
けれど、最近。 夜、美月が自分の部屋に引きこもり、ヘッドホンをして勉強や動画に没頭している時、ふと、家の空気が薄くなったように感じることがある。 美月には、美月の人生がある。あと数年もすれば、彼女はこの家を出ていくだろう。その時、このテーブルの向かい側に座るのは誰なのだろうか。
「……バカね、私」
香織は独り言をこぼし、慌てて身支度を始めた。
勤務先は、都内にある中堅の食品メーカーだ。香織は営業事務として、もう十年近くこの会社に勤めている。離婚した当初、不安定なパート勤めから正社員として雇ってくれたこの会社には、恩義を感じていた。
「香織さん、お疲れさまです。今日も忙しい?」
昼休み、給湯室で声をかけてきたのは、同期の真由美だった。彼女は独身を貫いており、いつも最新の美容情報や流行のレストランに詳しい。 「お疲れさま。明日の会議資料のチェックが終われば、少し落ち着くかな。真由美は?」 「私は相変わらず。あ、そうそう、今日のランチ、いつものメンバーで『アプリのその後』の報告会やるんだけど、香織さんも来ない?」
香織は一瞬、足を止めた。 「アプリ……マッチングアプリのこと?」 「そう! ほら、この前言ってたでしょ。先輩の佐藤さん、ついに彼氏できたんだって。それも三歳年下の公務員!」
社員食堂の隅のテーブルには、すでに数人の女性社員が集まっていた。 四十五歳の佐藤先輩、三十八歳の後輩・梨沙。そして真由美。 香織がトレイを置いて座るなり、話題は沸騰していた。
「見てよ、これ。昨日マッチングした人」 佐藤先輩が誇らしげにスマートフォンを差し出す。そこには、清潔感のある短髪の男性が微笑んでいる写真があった。 「わあ、優しそうですね」と梨沙が身を乗り出す。 「でしょ? 昨日の夜、三時間もメッセージのやり取りしちゃった。なんか、女子高生に戻ったみたいで自分でも笑っちゃうんだけど。でも、誰かに『おやすみ』って言ってもらえるだけで、こんなに生活がキラキラするんだって、久しぶりに思い出したわ」
香織は黙ってパスタを口に運んだ。 キラキラ。そんな言葉、自分の辞書から消え去って久しい。 「でも、大変じゃないですか? 変な人とか、身体目当ての人とか……」 香織が控えめに口を挟むと、真由美が肩をすくめた。
「そりゃあ、いっぱい来るよ。っていうか、半分以上はそれかも。でもさ、香織さん。分母を増やせば、中には本物も混じってるわけ。私たちくらいの年齢って、待ってても王子様なんて来ないじゃない? 自分で網を投げに行かなきゃ」 「網、か……」 「そうよ。香織さんだって、まだ四十代前半。バツイチなんて今どき普通だし、何より香織さん、ちゃんと綺麗にしてるんだから、登録したらすごい通知来ると思うよ」
佐藤先輩が優しく微笑んだ。 「香織さん、無理にとは言わないけど、一度覗いてみるだけでも世界が変わるわよ。誰かに『会いたい』って言われること自体が、サプリメントより健康にいいんだから」
その日の午後、香織の頭の中は、仕事の数字よりも「網を投げる」という言葉に支配されていた。 網を投げた結果、元夫という粗大ゴミを引き当ててしまった過去がある。 けれど、今の自分なら、もう少し賢く選べるのではないか。
夕食の時間。 美月が楽しそうにスマートフォンの画面を眺めている。 「ねえ、ママ。聞いて」 「何?」 「あのね、同じクラスの陽太くんから、今度の日曜日に映画に誘われちゃった」
美月の頬が、ほんのりとピンク色に染まっている。 「陽太くん……この前言ってた、バスケ部の子?」 「うん。……初めてなんだ、こういうの。どうしよう、何着ていけばいいかな?」 「そうね。美月は青が似合うから、この前買ったブラウスがいいんじゃない?」
娘の初めての恋。その眩しさに、香織の胸の奥がチリりと痛んだ。 それは嫉妬ではない。ただ、あまりにも遠い場所に来てしまった自分への、寂寥感に似た何かだった。
「ママもさ」 美月が不意に、真剣な目で香織を見た。 「いい人いたら、付き合ったらいいのに。私、もう子供じゃないし。ママがずっと一人で私のために頑張ってくれたの、分かってるから。ママも自分の幸せ、考えていいんだよ?」
箸が止まった。 娘に気を遣わせている。その事実に驚くと同時に、彼女の優しさが、香織の中にあった最後のためらいを溶かしていった。
その夜。 お風呂上がりのリビングで、香織はソファに深く腰掛けた。 手元にはスマートフォン。 昼間、真由美にこっそり教えてもらったアプリのアイコンが、画面の片隅で光っている。
震える指で、インストールボタンを押した。
プロフィール作成。 名前は、本名ではなく「カオリ」。 年齢、居住地、職業。そして、「離婚歴あり。子供一人」。 隠すつもりはなかった。これが私の人生の全てだから。
自己紹介文を考える。 『仕事と育児に追われる毎日でしたが、娘も大きくなり、自分の時間を大切にしたいと思うようになりました。誠実な方とお話しできれば嬉しいです』
当たり障りのない、けれど本心からの言葉を綴る。 最後に、写真。 自撮りなんてしたことがない。カメラロールを遡り、去年の秋に美月と旅行に行った時の写真を見つけた。少し遠目だが、風景の中で笑っている自分がいた。
「よし……」
投稿ボタンを押すと、画面には「審査中」の文字が出た。 香織は逃げるようにスマートフォンを伏せ、布団に潜り込んだ。 心臓の音がうるさくて、なかなか眠りにつけなかった。 自分は、一体何を開けてしまったのだろう。 後悔と、わずかな高揚。 それが、凪いでいた彼女の海に投げ込まれた、最初の石だった。
翌朝。 いつものようにアラームが鳴る前に目が覚めた。 体が、昨日までの自分とは違う緊張を帯びている。
朝ご飯を出し、美月の寝癖を指摘し、お弁当を渡す。 すべてがルーティン。けれど、玄関で美月を見送った後、香織は吸い寄せられるようにスマートフォンを手に取った。
画面を点灯させた瞬間、香織は息を呑んだ。
――通知件数、九十九プラス。
「……え?」
メッセージ、いいね、足あと。 赤い数字が、画面上で暴れている。
慌ててアプリを開くと、そこには溢れんばかりの男性たちの顔写真とプロフィールが並んでいた。 二十代の若者から、自分より一回り以上年上の男性まで。 『はじめまして。笑顔が素敵ですね』 『お話ししてみたいです。よろしくお願いします』 『バツイチ同士、気が合うかもしれません』
何年も、何年も、誰からも向けられなかった「興味」という光が、網膜を焼く。 香織は呆然としたまま、身支度を済ませて家を出た。
通勤電車の吊り革を握りながら、再びスマートフォンを開く。 次から次へと流れてくる通知。 それはまるで、止まっていた時計の針が、狂ったような速度で回り始めたかのようだった。
駅に着き、オフィスビルへと向かう道すがら、香織は不意にショーウィンドウに映る自分を見た。 昨日と同じ、地味な紺色のスーツ。 けれど、その頬は、昨日よりも少しだけ赤みを帯びているように見えた。
波多野香織、四十三歳。 彼女の二度目の春への物語は、こうして静かに、けれど激しく幕を開けた。




