内緒だから言えない
「ありがとな、シオン」
「?」
「オレだけだったら、お粥を作って持ってくなんて発想は浮かばなかったから」
「……いや」
部屋を出たあと、シオンとフィルは並んで廊下を歩いていた。
夜の宿屋は静かで、遠くの食堂からかすかに食器の触れ合う音が聞こえてくる。
二人は足音を揃えるでもなく、ゆるやかな調子で他愛のない会話を続けていた。
ルーンの様子や、明日の予定。
取り留めのない話題が巡る。
それらの会話がひととおり終わると、不意にシオンの視線が横へと流れた。
「…………」
トレイを握る、フィルの右手。
そこに巻かれた、銀色の輪。
「…で、さっきから気になっていたんだが、それは何だ?」
「ん?」
表情ひとつ動かさず、シオンが問う。
フィルは一瞬、何を指しているのかわからず、きょとんとした。
だが、シオンの視線の先が自分の右手に向けられていることに気づいた瞬間、言葉が喉で詰まる。
「(……あっと)」
思わず、まずい、と胸の奥で呟いた。
シオンに刻印のことは言えない。
ほんのわずかな逡巡ののち、フィルは視線を逸らして曖昧に口を開いた。
「……オ、オシャレ?」
自分でも苦しいと思う言い訳だった。
シオンは無言のまま、銀色の輪をじっと見つめ続ける。
「…………」
短い沈黙。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……オシャレか。…だとしたら、似合っていないぞ」
あまりにも率直な一言だった。
「そうかな……」
フィルは眉尻を下げ、自分の右手を見下ろす。
掌と手の甲を覆うように巻かれた銀色の輪。
確かに、装飾品と呼ぶには無骨すぎる形状だ。
言い訳としては、かなり無理があったらしい。
「……………」
シオンはもう一度、フィルの右手を見つめる。
トレイに隠れて掌そのものは見えないが、
「(……妙な気配だ)」
彼は、わずかに眉をひそめた。
気配の正体は掴めない。
だがその気配は、どこか危うい感じがしていた。
おそらく銀の輪は、その気配を“抑える”ためのものだ。
フィル自身が施したのか、あるいは別の誰かの手によるものか。
「…………」
ほんの一瞬だけ、思考が踏み込みかけたが——シオンは、そこで止めた。
「(……いや。俺には関係ないな)」
これは自分が足を踏み入れていい領域ではない。
自分は、他人の事情に口を出せる人間ではないのだ。
彼はそれ以上追及することなく、視線を前へ戻す。
「それで、明日の出発だが——」
そして彼は、何事もなかったかのように別の話題を投げた。
その変化に、フィルは内心で大きく息を吐く。
「(……よかった)」
表情には出さず、彼は自然に会話を受け取った。
「うん、準備は——」
二人の足音が、静かな廊下に規則正しく響く。
フィルの右手の掌に浮かぶ刻印は——誰にも気づかれぬまま、変わらずそこで小刻みに震え続けていた。




