偏食の原因
窓から差し込む柔らかな光に、フィルはゆっくりと目を覚ました。
まぶたをこすりながら体を起こし、小さく欠伸をひとつ。
寝ぼけ眼のまま部屋を見渡すと、そこにいるはずのルーンの姿が見当たらなかった。
「……るーん?」
どこに行ったんだろう――そう思いながら、フィルはベッドを降りて部屋を出る。
廊下に出た瞬間、ふわりとパンの香りが鼻先を掠めた。
導かれるように足を進めていくと、リビングのテーブルに一人、リースレッドが腰掛けていた。彼は無言で、小さな丸いパンを口に運んでいる。
「っ、…」
その姿を見た途端、フィルの肩がぴくりと震えた。
気配に気づいたのか、リースレッドがゆっくりとこちらを向く。
「お、おはようございます」
フィルは少し震えた声で挨拶した。
「……ああ」
短い返事だけを残し、リースレッドは手にしていたパンを口へ放り込む。
「お、お兄さんひとりで?」
恐る恐る尋ねると、リースレッドはテーブルのバスケットから新しいパンを取り上げ、やはり短く答えた。
「えと、ル…ルーンは?」
「ルーンは出掛けている」
「あ、……そうですか」
どうやら、ルーンは外出中らしい。
フィルはほっと息をつき、リースレッドの向かいの席に腰を下ろした。
視線を落とすと、バスケットには小さな丸いパンがぎっしりと詰まっている。
それ以外の料理は見当たらなかった。
「あの、パンだけですか?」
再び問いかける。
しかしリースレッドは答えない。
まるで聞こえていないかのように、黙々とパンを食べ続けていた。
「(そういえば、昨日の夕食もパンだったな……)」
フィルは手に取ったパンをかじりながら思った。
しばらく食べ進めるうちに、口の中の水分が奪われていく。自然と、温かいスープのことが頭に浮かんだ。
「あの…スープ、ないんですか?」
「ない」
淡々とした即答だった。
「パンだけじゃ飽きませんか?」
「スープがないんだったら、飲み物でもいいですよ」
「水でも構いませんから」
次々と言葉を投げかけるが、リースレッドはそれ以上何も答えない。
視線すら寄越さず、ただ機械のようにパンを食べ続けていた。
そして何個目かのパンに手を伸ばしたところで、ようやく彼は口を開く。
「……何故、そこまでパン以外を食べたがる」
低く落ち着いた声だった。
フィルは一瞬きょとんとしたが、すぐに答える。
「何故って、そりゃ……パンだけじゃ物足りないからです」
その言葉を聞いたリースレッドは、わずかに眉をひそめた。
「……食べられるものなんて、一種類あれば十分だろう」
「……おぅ」
淡白すぎる返答に、フィルは目を丸くする。
「(もしかして……)」
そこで、ふとした考えが頭をよぎった。
――もしかして、ルーンがパンしか食べなくなったのって、この人が原因なんじゃないだろうか。
そんな疑念が浮かびかけた、そのとき。
玄関の扉が開く音がした。
振り向くと、朝の光を背にルーンが立っている。
「あ、おかえり。……と、おはよう。何処行ってたんだ?」
フィルが声をかけると、ルーンは穏やかに微笑んだ。
「ただいま。それと、おはようフィル。……近くにある湖へ行っていたのよ」
「湖?」
「ええ。あそこで水浴びをするのが日課なの」
そう言って、彼女はフィルの隣に腰を下ろし、バスケットからパンをひとつ取る。
肩に乗っていたブルーテイルが、ひょいと彼女の肩から降りた。
ルーンがちぎったパンを差し出すと、小さな体で器用に咥えて食べ始める。
静かな咀嚼音だけが、しばらく部屋に満ちた。
やがて、椅子の脚が床をこする音が響き、リースレッドが立ち上がる。
「俺はもう出る」
それだけ言い残し、彼は扉を開けて外へ出ていった。
ぱたん、と扉が閉まる。
その背を見送りながら、ルーンが口を開いた。
「これを食べたら、私たちも出発しましょうか」
「もう出発か……」
フィルは小さく呟いた。
緑に囲まれたこの集落は、思っていた以上に居心地がよかった。
静かで、空気が澄んでいて、どこか落ち着く場所だったのだ。
名残惜しさをそのまま口にすると、ルーンは口元をやわらかく緩める。
「気に入ってくれたみたいでよかった」
その微笑みは、どこか嬉しそうだった。
「長さんのところには行かなくていいのか?」
「ええ。今日は長様は忙しいらしくて、謁見は難しそうだから…」
「そっか」
やがて二人はパンを食べ終え、手早く荷物をまとめる。
家を離れ、集落の出入り口に立ったフィルは一度だけ振り返り、緑に包まれた集落の景色を目に焼き付けた。
そして、そっと自分の掌を見つめる。
そこには、銀色の輪と――苦しみもがく刻印。
――銀色の輪は万能じゃない。
あの赤い髪の男性の言葉が蘇る。
フィルは掌をぎゅっと握りしめ、眉をひそめた。
「(気を抜けば、また暴走するかもしれない……か)」
胸の奥に小さな緊張が走る。
「(……強くならなきゃな)」
その決意を胸に、フィルは前を向いた。




