攫われたフィラーラ
二階。別室。
壊れた家具の影に身を潜め、オルカとフィラーラは息をひそめていた。
部屋の中央では、牙を剥き出しにした魔獣が低く唸りながら歩き回っている。
床板がその重みに軋み、赤い瞳がぎらぎらと闇を舐めた。
「……まったく、ついてないね」
オルカは肩を竦め、小さく舌打ちした。
負傷した肩を押さえる指先には、じわりと血が滲んでいる。
隣では、フィラーラが不安そうに眉尻を下げていた。
「あの魔獣……どこから来たの?」
微かな声で問う。
オルカは視線を魔獣から外さず答えた。
「この街の近くに森があるんだ。たぶん、そっから来たんだろうね。街に侵入してくる魔獣は、そんな珍しくもないよ」
軽く言ってはいるが、状況は最悪に近い。
魔獣は部屋から出ていく気配がない。
まるで、ここに二人がいると知っているかのようだ。
オルカは小さく舌打ちし、懐からナイフを取り出した。
そして、それをフィラーラの手に押し込む。
「戦うすべがないと逃げられないからね。あたしが隙を作る。あんたはそれ持って逃げろ」
「! オルカは?」
「……あたしは戻るよ。男どもが心配だ」
そう言って、オルカは物陰からそっと顔を覗かせた。
魔獣は、こちらに背を向けている。
――今だ。
腰を低く落とし、音を殺して歩き出す。
鞘から短剣を抜き、呼吸を整えながら距離を詰める。
射程圏内。
次の瞬間、オルカは一気に踏み込み、短剣を振り抜いた。
刃が魔獣の背に深く食い込む。
「ガアアアッ!!」
凄まじい咆哮が室内を震わせた。
魔獣は狂ったように腕を振り回し、周囲の家具を叩き壊す。
破片が飛び散る中、オルカは身を翻してかわし、再び刃を突き立てた。
どっと血が噴き出す。
床に赤が飛び散り、オルカの体にもべっとりと付着した。
だが――。
魔獣の目がぎらりと光る。
次の瞬間、太い腕がオルカの体を掴み上げた。
「……っ!」
そのまま、容赦なく投げ飛ばされる。
壁に全身を強打し、オルカは床へ崩れ落ちた。
「オルカ!」
フィラーラが目を見開く。
魔獣はゆっくりとオルカへ近づいていく。
オルカは歯を食いしばり、起き上がろうとした。だが、腕に力が入らない。
打ちどころが悪かったのか、体が思うように動かない。
「はっ、こりゃ…まずいね」
魔獣の影が覆いかぶさる。
このままでは、オルカが殺される。
「っ、」
フィラーラはナイフを握りしめ、駆け出した。
魔獣とオルカの間に飛び込み、小さな体で立ちはだかる。
震える手で、ナイフを構えた。
「! あんた、何やって……!」
オルカが掠れた声を漏らす。
フィラーラは必死に魔獣を睨みつけた。
「オルカ、やらせない!」
震えているのに、その瞳だけは逸れない。
魔獣が咆哮し、赤い瞳を鋭く細めた。
巨大な爪が振り下ろされる。
ナイフで受け止めるには、あまりに重い。
金属音が弾け、ナイフはあっさりと弾き飛ばされた。
フィラーラの手から離れ、床を転がる。
鋭い爪がかすめ、腹部に熱い痛みが走った。
「……っ!」
血が滲む。
フィラーラは思わずそこを押さえた。
「逃げろ!」
オルカの叫び。
「いや!」
フィラーラは首を強く振った。
魔獣の腕が、再び持ち上がる。
次は、腹部だけの怪我では済まない――。
逃げたい。
怖い。
足が震える。
でも、オルカを置いて逃げるなんてできない。
「…………」
フィラーラは魔獣を見上げた。
――私が、戦えたら。
――シオンたちみたいに、力があれば。
爪が振り下ろされる。
フィラーラはぎゅっと目を閉じた。
だが――。
次の瞬間、耳に届いたのは自分の体が裂ける音ではなかった。
「グルァアアアッ!」
魔獣の苦鳴。
はっとして目を開く。
視界いっぱいに広がったのは――大きな背中だった。
フィラーラは息を呑む。
「……無事か」
低く、静かな声が耳元に落ちる。
その声を聞いた瞬間。
フィラーラの瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。




