予兆
岩壁を背に、フィルは荒い息を吐いていた。
狼型の魔獣たちが、低く唸りながら円を描く。
逃げ場はない。
「そんなに怖い顔をしないで」
シエルはゆっくりと歩み寄る。
「私は貴方を傷付けに来たわけじゃないのよ」
「……………」
何も言わず、フィルは睨む。
掌の刻印が脈打つ。
赤黒い光が滲み、鼓動のように明滅していた。
「それ、痛いでしょう?」
シエルの視線が、まっすぐ右手へ落ちる。
「我慢しなくてもいいのよ」
「っ、」
後ずさるが、すぐに岩壁に背が当たる。
「ねえ、フィル」
シエルは狼たちに合図を送り、距離を保たせた。
「それはね、貴方を選んだの。貴方の“奥”にあるものに反応している」
「……何を言って」
「教えてあげる」
そう言って、彼女は一歩踏み込んだ。
フィルが右腕を抱え込むより早く――
シエルの指先が、刻印に触れた。
瞬間。
「――っ、ぁ゛ああああああッ!!」
森に絶叫が響く。
刻印が、弾けた。
赤黒い光が爆発的に広がり、フィルの右腕を這い上がる。
「ぐ、う…あ゛ぁあっ!!」
「……ふふっ」
シエルは一歩退きながら、恍惚と呟く。
「いいわ。いい声よ、フィル。もっと鳴いて、もっと私にその声を聞かせて」
刻印は、彼女の魔力に強く反応していた。
抑え込まれていた何かが、無理やり引きずり出される。
「――が、…ぁ……あ゛あっ!!」
フィルの視界が歪む。
頭の中に、無数の声が流れ込む。
――“解き放て”
――“壊せ”
――“奪え”
「や、めろ……っ!」
左手で右腕を掴む。
だが、もう抑えきれない。
赤黒い紋様が、腕から肩へ、首へと広がっていく。
足元の地面が震え、魔獣たちが一斉に後退した。
──その時。
「フィル!!」
森を裂くような声。
ルーンが駆け込んできた。
息を切らし、目を見開き、彼を見つめる。
「……ルー、ン……ッ」
フィルの声は掠れていた。
だが、刻印は止まらない。
振り向いて、シエルは目を細めた。
「あら。来ちゃったのね、ダークエルフのお嬢さん」
ルーンはシエルを睨みつけた。
足元に魔法陣を展開しようとする。
「フィルから離れて!」
しかし、その瞬間。
刻印が、完全に脈打った。
「っ!?」
ドクン――
森の空気が、一瞬で重くなる。
フィルの背後に、黒い影のようなものが立ち上る。
「……がっ、――ぁ、……!!」
彼の瞳から、色が抜けていく。
赤黒い光が爆ぜ、衝撃波が走った。
「きゃあ…っ…!」
ルーンが吹き飛ばされ、地面に転がる。
展開していた魔法陣がかき消えた。
「……さぁ、踊りなさい。フィル」
シエルが小さく呟く。
フィルの身体がゆっくりと宙に浮く。
刻印は、もはや紋様ではない。
それは“開いた門”のように、禍々しい光を放っていた。
「フィル!」
起き上がって、ルーンが叫ぶ。
だが、少年の瞳は彼女を映していなかった。
森の奥地に、異様な圧が満ちる。




