危険
「……っ」
次の瞬間、フィルは迷わなかった。
集落に迷惑はかけられない。
その一心で、彼は窓へと駆け寄る。
背後でシエルが何か言いかけたが、振り返らない。
窓枠に足をかけ、そのまま外へ飛び出した。
地面に転がるように着地し、すぐさま立ち上がる。
「(──走れ!)」
ただそれだけを考えて、フィルは駆け出した。
遠くへ。遠くへ。遠くへ。
息が切れても、足がもつれても、止まらない。
木々の間を抜け、根を飛び越え、枝が頬を掠める。
胸の奥で心臓が暴れ狂っていた。
「(とにかく、集落から離れないと……!)」
背後から、低い咆哮が響く。
「――っ!」
振り返らなくてもわかった。
草木を掻き分ける音。
複数の足音。
シエルが召喚した狼型の魔獣たちが、一直線に追ってきている。
獣の唸り声が森に反響し、恐怖を増幅させる。
その瞬間、右の掌が灼けるように痛んだ。
「う、ぁ……!」
刻印が赤黒く光り出す。
まるで“彼ら”に呼応するかのように。
「(やめろっ……反応するな……!)」
歯を食いしばり、左手で右腕を強く掴む。
痛みを押し潰すように、力任せに握り締めた。
それでも、刻印は脈打つ。
戦え、戦えと、頭の中で声が響いていた。
+
「はぁ、はぁ……っ」
どれだけ走ったのか、わからない。
やがて視界が開け、森が途切れる。
その先に聳えていたのは、巨大な岩壁だった。
フィルは足を止める。
「……はぁ……っ、は……」
荒い呼吸のまま、崖を見上げる。
高い。
登れるような足場はない。
行き止まりだ。
「嘘だろ…っ」
眉尻が、力なく下がる。
「どうやら、ここまでのようね」
「!」
その時、背後から柔らかな声が落ちた。
フィルの肩がびくりと震える。
振り返ると、そこには灰色の長い髪を揺らす女性――シエル。
その周囲には、狼型の魔獣たちが唸り声を上げながら取り囲んでいる。
岩壁に背をつけ、フィルは眉をひそめた。
「……っ」
「逃げ場はもうないわよ、フィル」
シエルは穏やかに告げる。
その瞳は、獲物を追い詰めた捕食者のものだった。
刻印の痛みが、さらに増す。
赤黒い光が掌から滲み出し、脈動する。
「ぐ……ぁ……!」
左手で右腕を掴み、さらに強く握る。
爪が食い込むほどに。
「(駄目だ……飲まれるな……!)」
だが、魔獣たちの気配とシエルの存在が刻印を刺激していた。
森の奥地に、緊迫した空気が張り詰める。
+
その頃――
湖で水浴びを終えたルーンは、夕闇の中を歩き、自宅へ戻ってきた。
扉を開け、静かに中へ入る。
「……(フィル、まだ眠ってるかしら)」
そう思いながら、彼がいるであろう自室に足を踏み入れた瞬間、ルーンは違和感に眉をひそめた。
フィルがいるはずのベッドは空。
出掛ける前には開いていなかった窓が、今は開いている。
「……?」
首を傾げる。
目を覚ましたフィルが、窓を開けたのだろうか。
それなら、他の部屋にいるかもしれない。
そう思い、家の中を歩き回る。
「フィル?」
台所。物置。裏口。
しかし、探してもフィルは何処にもいなかった。
「何処に行ったのかしら…?」
再び寝室に戻り、頭を悩ませながら開いたままの窓に近づく。
窓の縁に手を置いた、その瞬間。
「……っ」
妙な気配を感じ取った。
フィルのものではなく、冷たい、よそ者の気配。
彼以外の“誰か”が、先程までここにいた――?
「………」
もしかしたら、フィルがいなくなった事と関係があるかもしれない。
ルーンの表情が変わる。
足元に淡い光が走り、魔法陣が静かに展開する。
「…………」
目を閉じ、意識を集中させる。
森全体に、微かな糸のような感覚を張り巡らせた。
「(フィル、何処行ったの?)」
不安が胸を締めつける。
やがて――脳裏に、ひとつの光景が浮かんだ。
森の奥。複数の魔獣。
そして、杖を持つ灰色の髪の女。
「……!」
ルーンは目を見開く。
「フィル……!」
魔法陣が消える。
次の瞬間、彼女は家を飛び出していた。




