不穏な気配
夕刻。
集落の木々が、橙色の光に染まり始める頃。部屋の中では、ベッドに腰掛けたままフィルが眠っていた。
刻印の話をしている途中、緊張と疲労が一気に出たのだろう。それに加えて、ルーンの兄の来訪。彼の負担は膨れ上がったはずだ。
気がつけば、彼はリースレッドが家を出て行った直後、そのまま倒れるように静かに寝息を立てた。
「(……少し疲れたわね)」
小さく息を吐いたルーンは、フィルを起こさないように部屋を離れ、自分の家をそっと出る。
彼女が向かったのは、集落の近くにある湖だった。湖は、夕焼けを映して静かに揺れている。
水面に近づくと、涼しい空気が肌を撫でる。ルーンは周囲に誰もいないことを確認してから、服を脱いで水の中へ足を踏み入れた。
「……ふぅ」
冷たい水が、疲れを洗い流していく。
彼女は岩に腰を下ろし、腕や顔に水をかけた。
今日一日だけで、凄く疲れた。
「……(シオンたちは、今頃何をしているのかしら)」
考えるのは、ここにはいないシオンたちのこと。
フィルの右手に浮かんだ刻印のこと。そして、兄・リースレッドのフィルに対する態度。
あの態度は本当に失礼だったと、思い出した途端、ルーンは眉をひそめた。
「(兄さんも、もう少しだけ人間を信用してもいいのに……)」
パシャンと音を立てて、もう一度ルーンは顔に水をかける。
「(ホワイトのことも考えないといけないし、これじゃ、頭の方は休まらないわね。…この先、大丈夫かしら)」
その時に水面に映った自分の顔は、思っていたよりも不安そうだった。
+
一方、その頃。
ルーンの家の中では、フィルがひとり、浅い眠りから目を覚ましていた。
「……ん……?」
薄暗い部屋。
外は、もう夕方の色だ。
「……ルーン?」
返事はない。
ベッドから起き上がり、部屋を見回す。
テーブルの上には、本が閉じられたまま置いてあった。
「(……出かけたのかな?)」
そう思って、フィルは彼女を探しに行こうと体を動かした。
床に足を付けたその時、
「っ、」
――ぞくり
背中を、冷たい何かが撫でる。
「……?」
胸の奥が、嫌な音を立てる。
静かなはずの部屋なのに、まるでそこに自分以外の何かがいるみたいな妙な気配が襲う。
「……なんだ?」
そう呟いた瞬間だった。
――コツ
部屋の向こうで、微かな足音がした。
カチャ、と扉がゆっくりと開かれる。
「っ、」
フィルは息を止めた。
「(……ルーン?帰ってきたのか?)」
扉の方を見る。
半分ほど扉が開かれれば、そこに立っている人物の姿がはっきりと目に映った。
そこにいたのは、ルーンではなく、杖を持った女性だった。
部屋の中に足を踏み入れ、その女性は、長い灰色の髪を揺らし、薄く笑みを浮かべたままフィルを見つめている。
「……こんばんは、フィル」
低く、柔らかい声。
フィルの全身が、強張った。
喉が、ひくりと鳴る。
「……なんで、ここに……」
絞り出した声は、自分でも驚くほどに震えていた。
「言ったでしょ?"今度は二人きりで会いましょう"って」
一歩、また一歩と女性は近付いてくる。
「っ、」
刻印のある右手が、じわりと熱を持つ。
フィルは、思わずその手を胸に引き寄せた。
「……どうして、ここにいるって……」
「さあ?」
女性…シエルは首を傾げる。
「貴方が凄く目立つからとか?…特に…そこが、ね」
その瞳が、フィルの掌を捉える。
不穏な空気が、部屋を満たしていく。
外では、夕焼けがすっかり沈みかけていた。




