痛い!
その夜。
宿屋の一室で、フィルはひとりベッドに腰掛けていた。
シオンとジェイクは、部屋にはいない。「酒飲みに行くぞ!」とジェイクがシオンを半ば引きずるようにして、町の酒場へ連れて行ってしまったのだ。
「…………」
静まり返った部屋の中で、フィルは自分の左手を見つめる。
小指に巻かれた白い包帯。
痛みは、もうほとんどなかった。
けれど、嫌な感覚だけがまだ少しだけ指に残っている気がした。
「はぁ…」
フィルは眉尻を下げ、小指をそっと動かす。
もう、指輪は外れたから大丈夫。
大丈夫になった。はずなのに。
どうしてこんなに不安になっているのか。
「…………」
指輪を嵌められた時と、去り際に囁かれた時のダリアンの言葉を思い出す。
思い出したくはないけど、それはまるで呪いのようにフィルの脳裏にこびり付いていた。
そのとき、コンコンと部屋の扉が叩かれる。
「……誰かいる?」
聞き慣れた声に、フィルは思考を止め、顔を上げた。
「ルーン……?」
「あ、よかった。フィルがいるのね。入ってもいいかしら?」
「う、うん…!」
返事をすると、扉が開いてルーンが中へ入ってくる。
キョロキョロと周囲を見渡し、彼女は首を傾げた。
「シオンたちは?」
聞かれて、フィルは少し困ったように笑う。
「酒場に行ったよ。ジェイクさんが無理やりシオンを連れてった」
「……そう」
ルーンは小さく息を吐き、フィルの隣に腰を下ろす。
そしてすぐにフィルの小指に巻かれた包帯に視線を落とし、口を開いた。
「……指、大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ」
「……必要なら、魔法で治療するからね」
「……ありがとう」
フィルは静かに頷く。
開いた窓から吹いてくる風がルーンの髪を靡かせ、それを見て、フィルは胸を鳴らした。
「…………」
それきり、二人の間に言葉はなくなった。
部屋の中を、夜の静寂が包む。
「(何か話さなきゃ――)」
そう思うフィルだったが、何を話せばいいのかわからない。
それはルーンも同じだった。視線を彷徨わせ、どこかぎこちない。
「えと…」
何か、ルーンが楽しくなるような話ってないかな。
「あ」
しぱらく考えていると、ふと、フィルは声を漏らした。
「どうしたの?」
首を傾げたルーンに、自分の小指を見つめてフィルは言う。
「……小さい頃、場所は違うんだけどさ、怪我したことがあったのを思い出した」
「怪我?」
「うん。……まだ、10歳にもなってない頃の話で」
フィルの視線は、少しだけ遠くを見るようになる。
あれは、まだ幼かった頃。
フィルはメイド見習いの女の子と一緒に、家の庭で遊んでいた。
その頃のフィルは今よりずっとやんちゃで、家の中や庭を走り回っては、毎日のように転んで怪我をしていた。
でも、それらはすべてすぐ治るような小さな傷ばかりだったが、その日は違った。
その日、いつものように庭を駆け回りながら遊んでいると、どこからともなく小さな犬がそこに現れた。
その時、少しだけ警戒していればよかったとフィルは思ったが、今さら言ったところで当時の彼には届かない。
幼いフィルは犬に近付き、可愛いと思ったのか、撫でようとして手を伸ばした。だがその瞬間、犬は突然、フィルの足に噛みついたのだ。
悲鳴を上げる間もなく、足に走る激痛。
そばにいたメイド見習いの女の子が必死に犬を追い払ってくれたが、フィルの足は血だらけで、彼はその場で泣きじゃくった。
「あの時の痛みは、今にして思えば何ともない痛みだったんだけどさ。その頃はまだ子供だったから、とても痛く感じてたんだよ」
あとから聞いた話では、その犬は野良犬で、父親が騎士団に連絡して保護してもらったらしい。
「……ただ、それだけの話」
足に巻かれた包帯と、今、小指に巻かれた包帯。
何の関係もないのに、少しだけ懐かしくなった。
「……ごめん。こんな話、つまんないよね」
眉尻を下げて、フィルは言う。
しかしルーンは、彼の方を見て、ゆっくりと首を振った。
「…ううん。思い出話、好きよ」
そう言って、眉尻を下げて微笑む。
その顔は、どこか寂しそうだった。
──どうして、そんな顔をするのだろう。
フィルは思い、首を傾げる。
「……そういえば、あの指輪は捨てたの?」
そして、思い出したかのようにルーンは言った。
彼女の言葉に、フィルはポケットに手を入れ、黒く光る指輪を取り出す。
「いや、ここにあるよ」
それを受け取り、ルーンはまじまじと見つめた。
指輪の内側に、小さな穴。
その奥に、刃物のようなものが見える。
「……変な指輪ね」
眉をひそめながらも、ルーンは深くは追及せず、指輪をフィルに返した。
「それ、捨てないの?」
「捨てようにも……どこに捨てたらいいかわからなくて」
「……そう」
ルーンはそれ以上何も言わなかった。
そして、ベッドから立ち上がる。
「そろそろ寝るわ」
「あ、うん…」
フィルに背を向けて歩き、扉のドアノブに手をかけた。
「…お、おやすみ!」
フィルが慌てて言うと、ルーンは振り返って小さく笑う。
「ええ。おやすみ」
そう言って、部屋を出た。
廊下に出たルーンは、静かに扉を閉めて小さく息を吐く。
「ルーン」
「!」
ちょうどそこで、酒場から戻ってきたシオンとジェイクに出くわした。
シオンはいつも通りだが、ジェイクは顔が真っ赤だった。足取りもおぼつかなく、シオンの肩に手を回して、半ば寄りかかっている。聞かなくてもわかる。彼は泥酔していた。
「ひっく…、ここで何してんだぁ、ルーン……」
ジェイクが呂律の怪しい声で言う。
「フィルと楽しくお話していたのよ」
「おはなし。…あー、おはなし。そりゃあ、いい……ひっく」
「…どれだけ飲んだらそうなるの?」
「酒瓶一升とウイスキー三杯だ」
「………お疲れ様ね」
ルーンはそれだけ言うと、二人に背を向け、自分の部屋へ向かった。
背後で扉の開閉音が聞こえる。
ルーンは、その音を聞いて、足を止めた。
「…………」
胸に、手を当てる。
トクトクと鼓動が伝わってくる。
「(どうして、さっき――)」
どうしてさっき、フィルと話していた時。
胸が、少しだけ痛んだのか。
昔の話を聞いただけなのに。
楽しそうに話すフィルを見ていたら、ほんの少しだけ――
「……羨ましい、なんて」
そんな気持ちが芽生えた。
自分には、人に語れるような思い出がないからそんな気持ちが生まれたのかもしれない。
「………」
そう思いながら再び歩き出すも、初めて感じたその痛みと感情に、彼女は、どう向き合えばいいのかわからなかった。




