第四章
私は一瞬、差し出されたライアンの手を見つめた。視界の端では、叔父が憤怒に顔を歪めているのが見える。ミレイユも信じられないといった表情で、私たちを睨んでいた。
だが、まさにその悔しそうな顔を見たことで、私の迷いは消えた。十年間、彼らの支配下で息を潜めて生きてきた。けれど今夜だけは――今夜だけは、私も自由に振る舞う権利がある。
私は深呼吸をひとつして、ライアンの手を取った。その手は温かく、力強かった。
「喜んで」
言葉と共に、周囲からまた小さなざわめきが起こる。羨望と好奇心が入り混じった視線を背中に感じながら、ライアンに導かれて、シャンデリアの光が最も華やかに降り注ぐダンスフロアの中央へと歩を進めた。大理石の床が、磨き上げられた鏡のように私たちの姿を映している。
楽団が新しい曲を奏で始めた。優雅なワルツの調べが、広間いっぱいに響き渡る。ヴァイオリンの音色が空気を震わせ、その旋律に導かれるように、私たちは踊り始めた。
ライアンのエスコートは完璧だった。一歩一歩、確実に私をリードしてくれる。私も母から教わった記憶を辿りながら、慎重にステップを踏む。久しぶりの舞踏だったが、不思議と体が自然に動いた。
「お見事です。まるで宮廷舞踊の教師に習ったかのような優雅さですね」
ライアンが感心したように言った。その緑の瞳には、純粋な賞賛の色が浮かんでいる。
「......実は、本の挿絵を見て覚えました」
正直に答えると、ライアンが驚いたように目を見開いた。回転の動作の中で、彼の表情がはっきりと見える。
「独学で?信じられない」
彼の声には、本当に驚いている様子が滲んでいた。
実際は、母が生きていた頃に基礎を教わっていた。暖炉の火が揺れる広間で、母が優しく手を取って教えてくれたステップ。あの温かな記憶が、今も私の体に染み付いている。でも、この十年間は確かに本だけが頼りだった。狭い物置部屋で、ぼろぼろになった舞踏の手引書を何度も読み返した日々。
「セレスティーナ様、失礼ですが......」
ライアンの声のトーンが変わった。少し躊躇いがちに、彼は続けた。
「貴女のことを、ジェラルド子爵は『病弱で人前に出られない』と社交界で説明していました」
「ご覧の通り、健康そのものです」
私は微笑んだ。その笑顔を作るのに、どれだけの努力が必要だったか、彼には分からないだろう。ライアンの顔が僅かに曇る。彼の緑の瞳が、私の顔を心配そうに見つめていた。
「なるほど......事情は察しました。お辛かったでしょう」
その優しい言葉に、思わず涙が込み上げそうになった。胸の奥が熱くなり、視界が滲む。十年間、誰も私に同情の言葉をかけてくれなかった。エマ以外は。この優しさが、どれほど心に染みるか。
でも、ここで泣くわけにはいかない。私はぐっと唇を噛み、感情を抑え込んだ。涙を見せれば、叔父に弱みを握られる。今夜は、強くあらねばならない。
ワルツの旋律が最後のクレッシェンドを迎え、やがて優雅に終わりを告げた。音楽が止むと同時に、私たちは互いに礼をした。周囲から拍手が起こる。
すると、私たちが離れる間もなく、今度は別の貴族の男性が踊りを申し込んできた。金髪の若い伯爵だった。彼の後ろには、また別の男性が待ち構えている。
「セレスティーナ様、次は私に」
「いや、私が先に」
続いて、また別の人が手を差し伸べてくる。
気がつけば、私の周りには多くの男性貴族が集まっていた。まるで花に群がる蝶のように、彼らが私を取り囲んでいる。十年ぶりに社交界に現れた『幻の令嬢』として、注目の的になっているようだ。それは決して私の美貌だけではなく、謎に包まれた存在への好奇心もあるのだろう。
視線を巡らせると、広間の隅でミレイユが悔しそうに唇を噛んでいるのが見えた。彼女の手に持つレースの扇が、小刻みに震えている。いつもなら、彼女が舞踏会の華として、多くの男性に囲まれていたはずだった。私が仕立てたあの青いドレスを纏い、社交界の寵児として振る舞っていたはずだった。
けれど今夜は、完全に私に注目が集まっている。
二曲目、三曲目と、私は次々に申し込まれたダンスを踊った。気づけば足が少し痛み始めている。久しぶりの舞踏で、体力も消耗していた。
三曲目を踊り終えた頃、喉の渇きを感じてテラスへと向かった。大きなガラス扉を開けると、春の夜風が優しく頬を撫でた。外の空気は冷たく、火照った体を心地よく冷やしてくれる。
テラスからは、王宮の庭園が見渡せた。月光に照らされた噴水が、銀色に輝いている。遠くでは夜鳥の鳴き声が聞こえ、風に乗って薔薇の香りが漂ってきた。
私は手すりに手を置き、深く息をついた。胸いっぱいに夜気を吸い込む。広間の喧騒から離れ、ようやく一人になれた。
「疲れたか」
突然の低い声に、私は驚いて振り返った。
いつの間にか、ヴィルフォール公爵が立っていた。月光を背にした彼の姿は、まるで影そのもののようだ。音もなく現れた彼の存在に、心臓が跳ね上がる。
「公爵様......」
慌てて礼をしようとすると、彼は片手を軽く上げて制した。その仕草は洗練されていて、無駄がない。
「構わない。それより、ローレンス家の真の令嬢というのは、君のことか」
彼の灰色の瞳が、月明かりの中で私を見つめている。その視線は、広間で感じたものと同じ――何か、私の内側まで見透かすような深さを持っていた。
「はい」
私は短く答えた。彼の前では、嘘をつくことができないような気がした。
「十年前、君の両親の葬儀で一度会っている。まだ幼かったから、覚えていないだろうが」
そう言われて、心の奥底に沈んでいた朧気な記憶が蘇ってきた。雨の降る寒い日、黒い喪服に包まれた人々。悲しみに暮れた私の前を、多くの貴族が通り過ぎていった。その中に、確かに若い貴族の姿があった。当時はまだ少年に近かったかもしれない。それが、この男性だったのか。
「なぜ、今まで社交界に姿を見せなかった?」




