瓶猫
―1―
その日も雨が降っていた。
大きな傘を差して道を歩いていると、道端の草むらから、何かのか細い鳴き声が聞こえてきた。
ガサガサとビニール袋がこすれるような音がする。
草むらを覗き込むと、白いビニール袋が蠢いていた。袋の中に、何か生き物が入っているようだ。
私は袋を持ち上げた。
袋の中には、一匹の仔猫がいた。
目が開いたばかりの、大人の手のひらサイズの小さな仔猫。
生後一週間くらいだろうか? おそらくはアメリカンショートヘアーの仔猫だ。
雨に濡れて、その仔猫はひどく衰弱していた。今にも消えてなくなってしまいそうなほど、小さく儚く震えている。それでも仔猫は生きようと、懸命にみゃあみゃあと鳴いていた。
私は辺りを見回した。仔猫を捨てた人間は、とうにいなくなっている。
私は仔猫をハンカチで包み、その体を撫でて温めながら来た道を引き返した。
その足で動物病院に向う。
動物病院についた後も、仔猫は震え続けていた。息も荒い。
獣医曰く、「かなり衰弱している。もう少し発見が遅かったら危なかった」との事だった。
私は仔猫を見下ろした。
注射を打たれて布にくるまれた仔猫は大分落ち着きを取り戻し、小さな寝息を立てて眠っていた。
「もう心配いりませんよ」
医者の言葉に私は安堵した。
「……どうしますか?」
医者が私の事を探るような目付きで見詰めた。
一瞬何のことかと思ったが、「この仔猫をどうしますか?」という事だろう。
私が引き取るか、あるいは、里親を探すか……。引き取り手がなければ、せっかく生き永らえたというのに、このまま保健所行きという事もあり得る。
仔猫はそんな未来など露知らず、毛布に包まり暖かな夢を見ていた。
人の手助けがなければ生きてはいけないだろう、小さな命。
私は医者の目を見詰めながら言った。
「私が飼います」
そうとなればすぐにでも家に連れて帰りたかったが、仔猫は弱っているので、一週間ばかり入院して様子を見ることになった。
仔猫の体力が戻る間、私は毎日仕事帰りに動物病院に寄り、ガラス越しに仔猫と対面し続けた。顔を覚えてもらい、出来るだけ早く懐いてもらいたい。
医者から仔猫の育て方や注意点などを指導してもらった。
熱心に仔猫の許に通う私を見て、医者は微笑みながら言った。
「あなたのような人に拾われて、この子も幸せでしょう」
そして一週間後、私は仔猫を引き取った。
この一週間でだいぶ体力を取り戻したのだろう、ずぶ濡れになって震えていた時とは別の猫のように元気になっていた。私の腕の中でもぞもぞと活発に動き、元気に鳴いている。
「目一杯かわいがってやってください」
医者に見送られながら、私は段ボールに入った仔猫を受け取り、動物病院を後にした。
仔猫を自宅のテーブルの上に下ろす。猫は見慣れぬ景色に戸惑い、母親を探すようにみゃあみゃあと鳴いていた。
私はホームセンターである瓶を購入していた。
口が小さくすぼまった、本来ならジャムや蜂蜜などを保管しておくための瓶だ。
私は仔猫を持ち上げ、瓶の中に差し入れた。
猫は狭いところが好きな生き物だと聞く。仔猫は何の抵抗もなく、瓶の中に入って行った。
瓶の口は小さいので入る時に顔が引っ張られて狐のような変な顔になったが、中に入ってしまうと、割と余裕があった。瓶の中でくるりと器用に反転し、出てこようとする。
私はその小さな頭を押し返し、瓶に蓋を閉めた。
瓶を目の高さに持ち上げる。
私は瓶の中で仔猫を育て始めた。
―2―
私は瓶の中に古いセーターの切れ端や小さなタオルなどを敷き、出来るだけ仔猫が快適に過ごせるようにと工夫した。
瓶の蓋には無数の空気穴を開けているので、窒息することはないだろう。湿気がこもらないように乾燥剤も入れておいた。
仔猫というものは、六時間おきにミルクを与えなければいけないものらしい。人間の子供と一緒で、赤ん坊の時は何かと気をつけなければならない。
私は高校で数学の教師をしていた。
幸い学校と家は近かったので、私は昼休みになると学校を抜け出し、家に戻っては仔猫にミルクをやった。
猫は瓶の中で丸くなっていた。
蓋を開けて猫用の哺乳瓶の吸い口を差し出すと、仔猫は小さな鼻をひくひくさせて、吸い口にむしゃぶりついてきた。目を細めて、幸福そうな顔をしてミルクを飲みだす。
母性本能をくすぐられるというのか、こうしていると、男ながらに本物の母親になったような気分になる。
ミルクを飲ませ終わると、私は瓶の蓋を締め直した。
瓶越しに子猫を撫でる。
早く大きくなれよ。
学校での仕事を終えて帰りの支度をしていると、同僚たちに飲みに誘われた。
私はそれを丁寧に断った。
元々付き合いのいい方ではなかったが、ここ最近はずっと仔猫に付きっきりで、彼らとの交流を疎かにしていた。
「最近はお忙しいようですね。恋人でも出来ましたか?」
世界史の先生が皮肉交じりに絡んできた。
「捨てられた仔猫を拾いまして。まだ小さいので、目が離せないのです」
「まあ、仔猫!」
私が答えると、隣に立っていた英語の女先生が手を打って目を輝かせた。
「私、猫大好きなんですよ! 家でも二匹飼っているんです」
「そうなんですか」
「ぜひ見たいわ。今度写真を撮って来てくださいな」
私と女先生が親しげに話をしているのを、世界史の先生は面白くなさそうな顔をして見詰めていた。
私は適当に話を切り上げ、帰路についた。
初めのうちは仔猫は私に警戒し、狭い瓶の中の暮らしに閉口しているようだったが、次第に慣れてきたらしい。この透明なガラスの瓶こそが自分の家だと悟り、今ではすっかり馴染んでいた。
私が蓋を開けて指を差し出すと、瓶の口から小さな前足をのぞかせて、ちょろちょろとじゃれてくる。
仔猫は一人ではトイレをすることも出来ないらしい。ティッシュなどでトントンと刺激を与えることで排尿を促す。
仔猫がおしっこをする時も、私は猫を瓶から出さなかった。
瓶をひっくり返してごろんと猫を仰向けに寝かせ、長いめん棒を差し入れて、猫の局部を刺激した。排尿が終わると、尿を吸った布を引っ張り出し、ピンセットに除菌シートを挟んで猫や瓶の中を拭いて綺麗にする。
猫はそれを遊びと勘違いしたのか、よく除菌シートにじゃれついてきた。
掃除が終わると、また布を敷いて猫の家を整える。
食事もトイレも、もちろん寝る時も瓶の中。
私の家に来て以来、猫は二十四時間、ずっと瓶の中で時を過ごしていた。
じきに生後三週間になる。
雨の中、ビニール袋で震えていたころに比べ、少し大きくなった。
はかりに乗せると、体重は360グラムだった。平均的な猫の成長と比べると多少軽めだったが、元々体の小さな衰弱した捨て猫だし、まずまずの成長具合と言えるだろう。
私は猫好きな女先生や生徒に頼まれて、仔猫の写真を撮って学校に持って行った。
写真を見た彼女たちは、顔をほころばせて口々にかわいいと言った。
「かわいい、瓶に入ってる!」
「猫は狭いところが好きだから、自分からこういう所に入って行っちゃうんですよねー」
写真をめくっては、ころころと楽しげに笑っている。
彼女たちは気付かない。
猫の頭と瓶の口の大きさでは、猫の頭の方が、少しばかり大きいという事に。
私は猫のためにミルクを用意した。
もう哺乳瓶を卒業し、皿から直接飲めるくらいに成長したはずだ。
私は瓶の蓋を開け、そのすぐ前にミルクを注いだ皿を置いた。
仔猫はミルクの匂いに気付き懸命に瓶から出ようとしたが、顔が引っかかって外に出る事が出来なかった。
前足を出して無理やり体を通そうとしたり、頭をひねったり色々と工夫したが、どうやっても通れない。前足がむなしくミルク皿の縁をカリカリと引っかくだけだった。
その姿を見詰めながら、私は思わず微笑んでいた。
一生懸命よちよちと何かをなそうとしている仔猫の姿は愛くるしかったし、何より、私の目標に一歩近付いたからだ
もうこの子猫は、自力で瓶から脱出することは出来ない。瓶の底をくり抜くか、割るしかない。
成長期である仔猫が今以上に小さくなることはないだろう。これから先は、大きく、重くなるばかりだ。
しかし、瓶はそれほどに大きくなかった。
いずれ近いうちに、容量オーバーとなってしまうだろう。
その時は……。
そして、その後は……。
私は瓶の中の仔猫を見詰め、瓶越しにその頭を撫でた。
早く大きくなれよ。
―3―
生後五週間目。
体重は500グラムに増えた。
その頃には小さな歯も生え、私はすり潰した仔猫用の猫缶とミルクを混ぜて、スプーンで少しずつ餌を与えるようになっていた。
猫はだいぶ大きくなっていた。
もう瓶の中はぎゅうぎゅう詰めである。
寝返りを打つどころか、身動き一つ取れない状態になっていた。瓶の側面に押し付けられて顔が歪み、毛が全部寝てしまっていた。
食事や体調管理には気を使っていたのだが、さすがにまったく運動もさせていないし、息苦しい瓶の中で育てているせいもあってか、仔猫は日に日に衰えていった。
それでも私は猫を瓶から出そうとはしなかった。
餌を与え続ける。
これ以上物を食べれば体はさらに大きくなり、自分で自分の首を絞めるだけなのだけど、それでも腹は減る。餌の乗ったスプーンを口元に持っていくと、仔猫は肉を舐めてぼそぼそと頬張った。
おもちゃを差し出すと、力なくではあるが前足を瓶の口から伸ばして、じゃれつこうとした。
甘えるように、小さな声で私を呼ぶ。
さらに一週間後。
仔猫は瓶の中で尻尾を動かすことさえ出来なくなっていた。
瓶の入り口から除菌シートを挟んだピンセットを差し入れることも困難になった。
体を拭いてやることも、瓶の中を掃除してやる事も出来なくなった。うんちやおしっこは垂れ流し状態で、瓶の底にたまり、嫌な匂いがするようになった。
少しずつ少しずつ、仔猫の目には光がなくなっていった。目元に目ヤニが溜まっている。
仔猫はまるで、老猫のような顔をしていた。
瓶の中では全く身動きが出来ないので、床ずれのように後ろ足が鬱血し、紫色に変色していた。
徐々に反応が鈍くなっていった。
目をつぶり、じっとしている時間が多くなった。その姿は雪山で吹雪かれ、吹雪が止むのを待っている登山者のようにも見えた。あるいは、険しい修行に耐える僧侶のようにも。
仔猫は一切鳴かなくなった。
静かなのに、鼻息ばかりが荒くなっていった。
瓶の中が、仔猫の吐く息で白く曇る。
私は台所で餌の用意をしていた。
猫缶を開けて、フォークで身をほぐす。
私は細かくなった肉をスプーンですくい、猫の口元に差し出した。
しかし、仔猫は全くの無反応だった。
口を開こうとしない。
無理矢理餌を押し込もうとしても、上唇が持ち上がって小さな歯が覗くだけで、全然食べようとしなかった。
呼びかけてみたが、返事がない。
ブーンと私の耳元でハエが飛んでいた。
仔猫を飼い始めてから四十六日目。
仔猫は死んだ。
―4―
私は温めた炭酸ナトリウムの水溶液を用意し、猫の亡骸が眠る瓶の中に少しずつ流し込んでいった。
中の液体が冷めないように、お湯の張った鍋に瓶を入れてぐつぐつと煮た。
少しずつ少しずつ、仔猫の体は形を失って崩れていき、水の中に溶けていった。
ボロボロと、肉や皮が解けていく。
三日後、猫は瓶の中で完全に白骨化した。
水溶液を捨てて背骨や大腿骨などの白骨を瓶から取り出し、新聞紙の上に並べて天日干しにした。
頭蓋骨は瓶の口よりも大きく取り出せなかったので、ピンセットを差し込んで、丁寧に布で拭いていった。
そして私は、数ヵ月の時間をかけて、ピンセットや針金を使って、瓶の中で仔猫の体を復元させた。一体の骨格標本を組み立てた。
ボトルシップならぬ、ボトルキャット。
絶対に外に出る事が出来ない、瓶詰めの猫。
私は押入れから封のされた段ボールを取り出した。
段ボールの中には、いくつかの瓶が収まっている。
ある瓶の中にはネズミの骨格標本が、また別の瓶の中には、鶏の骨格標本が入っていた。
どの骨格標本も、瓶の口より動物の頭の方が大きかった。
私はそれらを机の上に並べ、飽きることなく眺め続けた。
そういえばと、私は気付く。
そういえば、未だ仔猫に名前をつけていなかった。
――ボーンズ。
私は骨になった猫に名前をつけた。
私は夢想する。
人間の子供が入るような大きな瓶は、どこかに売っているだろうか?