第三話:石ころカエルと戦士の横顔
自由都市リューンでの準備を終え、俺とアストリッドの本格的な旅が始まった。目的地は、西の
ツェルバルク公爵領にそびえるダンジョン「鉄壁の迷宮」。その麓にある宿場町まで、数日間の道程だ。
「おいリオン、なんで空っぽの瓶や革袋ばっかり買い込んでるんだ。重くなるだけだろうが」
「アストリッドさん、これらが俺の武器であり、最高の宝物を入れる器になるんです」
出発前、市場で準備を整えていた時のことだ。アストリッドは武具屋で砥石や手入れ用の油を真剣な目つきで選んでいた。その姿はまさにプロの戦士。一方の俺は、香辛料や保存食の他に、用途不明のガラクタばかり集めているように見えたらしい。
「ふん、まあいいさ。お前さんの荷物くらい、私がまとめて持ってやる」
呆れたように言いながらも、彼女は俺が買った大量の瓶が割れないよう、丁寧に布で包んでくれる。その無骨な手の、意外なほどの繊細さに、俺は少し驚いた。
リューンの活気ある平野を抜け、街道が次第に山がちになってきた頃、事件は起きた。
森を抜ける小道で、突如、木々の間から巨大な影が飛び出してきたのだ。熊のような体に、カラスの如き漆黒の頭と翼を持つ魔獣。
「ちっ、レイヴン・ベアか! 厄介なのに出くわしたな!」
アストリッドが即座に戦斧を構える。レイヴン・ベアは甲高い威嚇の声を上げ、鋭い爪を振りかざして突進してきた。激しい金属音が響き、アストリッドは猛攻をなんとか受け止めるが、相手の圧倒的な膂力にじりじりと押し込まれていく。
俺に戦闘能力はない。だが、その時、俺の【霊脈味覚】が、近くの岩陰に潜む、別の存在を捉えていた。
(なんだ、この味は…? 強烈な苦味と、鼻が曲がるほどの悪臭。でも、そのエーテルに、レイヴン・ベアが嫌う成分が…!)
俺は岩陰に駆け寄った。そこには、石ころに擬態した、握りこぶしほどのカエルが数十匹、身を寄せ合っていた。『石ころカエル』。冒険者からは「何の役にも立たない、ただ臭いだけの魔物」として知られている。
「アストリッドさん! そいつ、このカエルの匂いが弱点です!」
俺は一番大きな石ころカエルを掴むと、レイヴン・ベアに向かって放り投げた。驚いたカエルは、空中で身を守るため、胃の中の液体を勢いよく噴出する。
強烈な悪臭が当たりに立ち込め、液体をわずかに浴びたレイヴン・ベアが、苦悶の声を上げて大きく後退した。
「でかした、リオン!」
その好機を、アストリッドが見逃すはずもなかった。彼女の戦斧が深々と、魔獣の首筋に食い込んでいた。
「しかし、お前さん、よくあんな臭いカエルを素手で掴めるな」
「いえいえ、とんでもない。これは宝の山ですよ」
戦闘後、俺は冒険者たちが眉をひそめて避ける防御液を、革袋に集め始めた。
「この強烈な苦味と香りは、蒸留酒に加えれば、最高のビターズ(苦味酒)になります。味に圧倒的な深みと複雑さを与えてくれるんです」
アストリッドは「お前さんの頭の中は、どうなってるんだか」と、呆れと感心が入り混じった顔で俺を見ていた。
その夜、俺たちは森の中で野営した。
アストリッドが手際よく薪を集め、火を起こす。その力強くも無駄のない動きに、俺は思わず見とれてしまう。
夕食は、昼間仕留めたレイヴン・ベアの肉だ。俺は持参したハーブと、試作の果実酒で肉をじっくり煮込み、臭みを消して驚くほど柔らかく仕上げた。
「……美味い」
無言でシチューをかき込んでいたアストリッドが、ぽつりと呟いた。
「故郷の祭りでも、こんな美味い肉は食ったことがねえ。…師匠にも、食わせてやりたかったな」
焚き火の赤い光が、彼女の横顔を照らし出す。赤銅色の編み込み髪、汗が光る健康的な首筋、そして、ふとした瞬間に見せる、少し寂しげな眼差し。
戦士として見ていたはずなのに、なぜか、心臓が妙な音を立てた。
「なんだ小僧、私の顔に何かついてるか?」
俺の視線に気づいたアストリッドが、ぶっきらぼうに言う。だが、その耳が、火の光のせいだけではない赤みを帯びているように見えた。
「い、いえ! 何でもありません!」
俺は慌てて顔を背け、心臓の音を誤魔化すように、シチューを口に運んだ。
数日後、俺たちはついに「鉄壁の迷宮」の麓の宿場町にたどり着いた。
見上げる先には、天を突くような黒い岩壁がそそり立っている。
「さあ、リオン。準備はいいか?」
アストリッドが、悪戯っぽく笑いかける。
「ええ、最高の酒を造るために」
俺も、笑い返した。俺たちの本当の冒険は、ここから始まる。