第十話:穢れの王と浄化の一滴 投稿
俺たちの眼前に、森の「病」の根源がその姿を現した。
黒い樹脂を流し、禍々しい瘴気を放つ巨大な古木。その根元に、かつてこの森の守り神だったであろう、巨大な鹿の姿をした精霊獣が横たわっていた。その気高い角は半分が黒く蝕まれ、美しい毛皮は抜け落ち、瞳からは苦痛と憎悪を宿した紫の光が漏れ出ている。
「あれは…この森の主、古き鹿王アルセオス…」
エルウィンの声が、絶望に震えていた。守るべき対象が、最大の脅威と化している。これ以上の悲劇があるだろうか。
俺たちの存在に気づき、穢れた鹿王アルセオスはゆっくりと身を起こす。そして、天を震わすほどの、悲痛な咆哮を上げた。それは助けを求めるような、それでいて、全てを拒絶するような、絶望の叫びだった。
次の瞬間、アルセオスは地面を蹴り、凄まじい速度で突進してきた。
「散開しろ!」
エルウィンの叫びと同時に、レンジャーたちが散り、矢を放つ。アストリッドが前に出て、その巨体を受け止めようとするが、相手の力はグリフォン以上だった。戦斧の一撃は、穢れた体表に弾かれ、逆に強烈な体当たりを受けて、アストリッドの巨体が吹き飛ばされる。
「アストリッドさん!」
「ぐ…、平気だ! こいつ、とんでもねえ馬鹿力だぜ!」
状況は絶望的だった。エルウィンたちレンジャーは、かつての守り神に、本気で矢を射ることができない。ただ防戦一方だ。
俺は、激しい頭痛と吐き気に耐えながら、【霊脈味覚】を極限まで研ぎ澄ませていた。
(違う、この穢れた王は、悪じゃない…! 悲鳴を上げている! 必死に、助けを求めている味だ!)
その体内に渦巻くエーテルは、憎悪ではなく、激しい苦痛と悲しみの味がした。そして、その中心。心臓に絡みつくように、全く別の、寄生虫のような、酸っぱくて不快な「味」の根源があった。
こいつが本体だ。アルセオスを内側から食い破り、操っている元凶。
殺してはダメだ。救わなければ。アルセオスごと、この森を。
「エルウィンさん、アストリッドさん! 本体は、鹿王の心臓に巣食った『寄生体』です! 王を殺さず、その寄生体だけを叩く!」
「無茶を言うな! どうやって!」
.
俺は、一つの賭けに出た。懐から、道中で手に入れた**「石ころカエル」**の防御液を詰めた革袋を取り出す。この強烈な苦味と悪臭。この「味」の不協和音こそが、寄生体の「味」を中和する、唯一のカウンターになるはずだ。
俺は、エルウィンに叫んだ。
「エルウィンさん! あなたの矢に、これを塗ってください!」
革袋を彼女に投げ渡す。
「そして、鹿王が咆哮した瞬間、その口の中に、この矢を撃ち込むんです! この液体が、奴のマナの流れに乗って、直接、心臓の寄生体を焼くはずです!」
それは、常軌を逸した作戦だった。だが、エルウィンは一瞬の逡巡の後、静かに頷いた。彼女もまた、守り神を救う、僅かな可能性に賭けたのだ。
問題は、どうやって、あの巨体に口を開けさせるか。
答えは一つしかなかった。
「アストリッドさん、派手に注意を引きます! 合わせろ!」
「言われずとも!」
俺は、隠し持っていた高濃度の蒸留酒の瓶を取り出すと、アルセオスの足元めがけて全力で投げつけた。瓶が砕け、アルコールが飛び散る。そこに、アストリッドが火口を投げ込んだ。
轟音と共に、青い炎の柱が立ち上る!
「グルオオオオオオオオッ!」
驚いたアルセオスが、天に向かって大きく口を開け、咆哮した。
その瞬間を、エルウィンは見逃さなかった。
放たれた矢は、祈りを乗せて、吸い込まれるように、穢れた王の口の中へと消えていく。
一瞬の静寂。
アルセオスの巨体が、けいれんするように、激しく震えた。その全身から、黒い瘴気が霧のように噴き出す。そして、最後の力を振り絞るように、今までで最も大きく、しかし、どこか安らかな咆哮を上げると、その場にゆっくりと崩れ落ちた。
紫色の光が、その瞳から、すうっと消えていく。
穢れの王は倒れた。だが、死んではいない。穏やかな寝息を立てている。
森を覆っていた、あの不快な瘴気が、嘘のように晴れていく。
「…助かったのか。アルセオスは…」
レンジャーたちが、呆然と呟く。
だが、俺は分かっていた。脅威は去ったが、根本的な解決には至っていないことを。
穢れの発生源である、あの巨大な古木は、今も黒い涙を流し続けている。
その時、眠っているアルセオスの意識が、俺の脳内に、直接語りかけてきた。
『…感謝する、人の子よ。…だが、我が魂を蝕んだ穢れの根は、まだ、あの古木に残っている。森を完全に救うには、あの木の心を、浄化せねばならぬ…。その力は、この森の最奥…星屑の泉に…』
鹿王の言葉は、俺たちに進むべき道を示していた。
俺は、安堵と新たな決意を胸に、静かに眠る森の王と、その向こうにそびえる古木を見つめた。
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