第一話:腐った麦汁と自由の味
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「これが、貴様の数ヶ月の成果か」
俺の雇い主であるバルト卿が、俺の差し出したワインを一口飲み、汚物でも見たかのように顔を盛大にしかめた。
「酸っぱい! 薄い! なぜこんな女子供が飲むような水っぽい味になるのだ! 俺が求めているのは、蜂蜜のように甘く、喉が焼けるほど強い、戦士のための酒だと言ったはずだ!」
ここは剣と魔法の世界。俺はリオン。前世でソムリエだった知識と「神の舌」を持って転生したはいいが、この世界には、まともな「酒」が存在しなかった。発酵も熟成も、全てが神頼み。貴族ですら、甘ったるくてアルコール度数が高いだけの液体を、ありがたがって飲んでいる。
そんな世界で、俺は「醸造家見習い」として、この単純な味覚を持つ騎士爵に仕えている。俺が目指す、繊細で複雑な芸術品のようなワインは、彼にとってただの「失敗作」でしかなかった。
「言い訳は聞けん! これが最後通告だ。次の満月までに俺を満足させる一本を造れねば、お前は追放だ!」
一人、薄暗い醸造蔵に取り残される。壁際に並ぶ、未熟なワインが眠る樽。その一つに、俺は絶望のまま、そっと手を触れた。
(もう、ダメだ…。この世界では、俺の求める「調和」は、誰にも理解されないのか…)
前世で追い求めた、あの、魂が震えるほどの完璧な一杯。その記憶が、脳裏をよぎった瞬間だった。
――ガツン!
頭を内側から殴られたような衝撃と共に、天啓のように声が響いた。
――ギフトが発現しました。
【霊脈味覚】
【時酵】
何かが変わった。触れている樽の中のワインに、無数の情報が「味」として流れ込んでくる。
(ブドウ品種:不明。改善案:4種の酵母菌を追加、16度で二次発酵後、3年間の樽熟成を推奨。予測される完成品:黒スグリと腐葉土の香りを纏い、シルクのようなタンニンを持つ、極上のフルボディワイン)
これが【霊脈味覚】。あらゆる物質の、最高の未来を「味わう」力。
レシピは分かった。だが、熟成に3年も待てない。
俺がそう思った瞬間、もう一つのギフト、【時酵】が、俺の魂核からマナを奔流のように吸い上げ、勝手に牙を剥いた。
「う、わっ…!」
目の前の樽が、カタカタと震え、中の時間が、ありえない速度で加速していく。禁忌とされる失伝魔法、**「律章術」**を想起させる、人知を超えた現象。
俺のマナが尽きる寸前で、樽の震えが止まり、栓の隙間から、神々しいまでの芳香が、蔵中に満ち溢れた。
その香りに誘われ、バルト卿が戻ってくる。彼は、樽から滴る一滴を指ですくい、口に含んだ。
そして――彼の表情が、期待から困惑へ、困惑から不審へと変わっていく。
「……なんだ、この味は。甘くもなければ、強くもない。ただ、舌がピリピリして、よく分からん花や土のような匂いがするだけではないか!」
彼の単純な味覚では、複雑に絡み合った繊細な風味は「よく分からない不味い味」としか認識できなかったのだ。
「こんなものが、あの神々しい香りの正体だと? 馬鹿な!」
理解不能な奇跡は、彼の頑なな価値観の前では、ただの「インチキ」でしかなかった。
「貴様、妖術か何かで俺の舌を狂わせたな! これは酒ではない! まがい物だ!」
彼は、俺を「不吉な男」として、その日のうちに追放した。
.
王都から追い出され、夕暮れの街道に一人、立ち尽くす。
懐には、あの樽から、こっそり汲み出しておいた、一滴のワインが入った小瓶だけ。
俺は、その一滴を、舌の上に落とした。
「……ああ」
声が漏れた。完璧な調和。魂が焦がれた、本物の味。
涙が、頬を伝った。だが、それは絶望の涙ではなかった。
そうだ。俺は、もう、あの石頭のために酒を造る必要はないんだ。
俺は、自由だ。
この広大な世界には、俺がまだ知らない、無数の「味」が眠っている。
俺の【霊脈味覚】が、それを教えてくれる。北のヴァイスハルト領から吹く、悲しくて甘美な風の味。南のドルヴァーンの森が奏でる、生命の味。西のツェルバルクの鉱脈に眠る、鋼鉄の味。
だが、今の俺には、金も、仲間も、力もない。
まずは、腰を落ち着け、自分の腕で日銭を稼げる場所が必要だ。
目的地は、一つしかない。
「行こう。自由都市リューンへ」
どの領主の支配も受けず、腕さえあれば、誰でも成り上がれるという、あの街へ。
こうして、追放されたソムリエの、本当の意味での、神の酒を求める壮大な美食紀行が、この一滴の「自由の味」と共に、静かに幕を開けた。
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次話は07:00&不定期公開予定。
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