獄宙に囚われる
鉄平との思い出なんて、実はそう多くはない。同じクラスだった時もあったが、俺は教室内で騒がしくしている方の人間だったし、鉄平は静かに本を読んでいる方が好きなタイプだった。小学校でも中学でも学校じゃロクに話しもしなかった。それこそ漫画か小説読みたくなったら呼び出して、読ませたいものがありゃ呼び出される。そんな関係で、その日もそうだった。
中学の夏休み、それも夜の十時も過ぎたような夜更けだった。俺は公園のベンチでスマホを弄っている。元々昼間でもあまり人がいない小さな公園だ。こんな時間なら猶更人は寄り着かない。中坊同士の待ち合わせ場所としちゃこれ以上ない。
そろそろスマホも飽きてきた。一向に来る気配のない待ち人に苛立ち貧乏揺すりを始める。いい加減遅いと電話かけようと思っていた時だった。
ざりりと地面を靴で踏みしめる音。視線を向けると俺の待ち人、有馬鉄平が不機嫌そうな顔でこっちに歩いて来ていた。
「おせーぞ」
「何時だと思ってるよ。こんな時間に呼び出すなっての」
ドカリと鉄平にしては乱暴な動きで俺の隣に座る。この距離になってようやく気が付いたが、少し髪が濡れている。大方風呂から上がってすぐに来たんだろう。流石の俺もちょいと悪いなとは思う。まあ思うだけだが。
「で、例のブツは、持ってきたんだろうな?」
「持ってきたよ、ほら」
差し出された紙袋を受け取り、俺も持ってきていた紙袋を鉄平に返す。鉄平の紙袋も俺の紙袋も中身は漫画本。まあ俺たちの関係ならこれ以外ない。
いつも通り鉄平からのこれ読んでみろ。渡されたのはラブコメ漫画だった。あまり好きなジャンルじゃないから正直興味が薄かった。しばらく放置していて、暇すぎて気まぐれに読み始めたのが数時間前。面白さに止まらなくなって、早く続きを読ませろと鉄平に連絡して今に至る。
「まああの展開じゃ、続き気になってしょうがないよな。わかるわかる」
「まさかお前、わざとあの巻で止めたのか?」
「悪かったって。だからこうしてちょっと無理して来てるじゃん」
悪戯が成功したようにケラケラ笑う鉄平に、思わずイラっとくる。コイツの手の平でコロコロされているようで癪に障るが、実のところそう悪い気はしていなかった。ただそれを鉄平に悟られるのは嫌で、誤魔化すように最近になって吸い始めた煙草を取り出し一本咥える。
「……。一応言う。やめなそれ」
「うるへー」
本当に嫌そうな、しかめっ面での鉄平の忠告。それを俺は笑って軽く流して火を付ける。オトナになった今になって思えば、この忠告は鉄平の俺に対する義理や友情といったものだったのだろう。けれども当時の俺はそんなこと気が付きもしなかった。
「それにしてもお前って珍しいよな」
「なにが?」
「俺が煙草吸ってるのセンコーにチクるわけでもなけりゃ、俺から一本貰って自分も吸うわけでもねえ。普通どっちかだろ?」
「別に先生に言ったところでおれにメリットなんてないだろ。それに煙草なんて大人になったら普通に吸えるしね」
鉄平のあまりに至極真っ当な言葉。当時の思春期反抗期真っ盛りの俺からすればガチで面白くない。とはいえその不満を口にするのはダサい気がして、代わりに煙を吐き出した。
「まあそれに多分おれじゃ吸ったの隠し通せないから。やったらバレるなバレたら責任取れ。煙草吸っての停学反省文コンボなんかごめんだよ」
「なんだよその、やったらバレるなって。随分面白え感じの言葉じゃねぇか」
「まあおれのモットーみたいなものかな」
「へぇ……」
やっぱ鉄平の奴は面白い。俺らくらいの年でモットーなんて持ってるやついねぇぞ。さっきまでの不満はどこへやら。ついでに俺もと、考えてみることにした。
「……。だったら俺はやるならバレるな絶対に、だな」
「なんだよそれ。完全犯罪じゃん」
そう言って鉄平は楽しそうに笑う。即興で考えたにしてはよく出来たと思っている俺のモットー。その本質を一発で言い当てられ、思わず口元が綻ぶ。
勿論俺は煙草を教師や親から隠し通す気満々だ。服用の消臭スプレーを小さな容器に移し替えてポケットに忍ばせてある。オマケにガムもあるから匂い対策は完璧だ。絶対にバレやしない。悪さってのはいかにバレないように工夫するのかってのも面白さの一つだ。
「嫌だよ。完全犯罪失敗して新聞で高戸の顔見るの」
「ばーか。俺がそんなヘマするかよ。それにバレないって確実に言えなきゃやらないしな」
「そうだね。高戸はそういう奴だよね」
鉄平は愉快そうにカラカラ笑っている。何がそんなに面白いのかわからんが、こっちも妙に楽しくなってくる。お互い冗談だとわかっている上での言葉による小競り合い。フッと鉄平は真剣な眼差しに変わる。
「まあ冗談はさておき高戸は新聞に載るようなことはしないだろうけどね」
「なんでそんなこと言えるんだよ」
「ほら、高戸ってクズじゃん? 自分が続き読みたいからっておれをこんな時間に呼び出すし、煙草まで吸ってる。まごうことなきクズだよ。だけどおれは高戸のプライドの高さだけは信用している。だからお前は人の道から外れるようなダサいことはしないし、出来ないよ」
顔が赤くなってる気がする。こういう、人が恥ずかしくなっちまうようなことをさらりと言ってのけるのが鉄平という奴だった。短くなった煙草を踏んで消火し、照れ隠しのヘッドロックをかます。
今の今まで忘れていた、なんでもない鉄平との日常の記憶。
*
「高戸聞いてるの?」
佳蘭のその言葉にハッと我に返った。ゆっくりと息を吐き出す。落ち着いて自分の現状を再確認する。今俺がいるのが佳蘭の泊まっているホテルで、いつもの報告会だ。大丈夫わかっている。
「……。悪い。聞いてなかった。で、何話してたんだ?」
「まだなにも話してないわよ。明らかに心ここにあらずといった様子だし、なにを話しても無駄だと思ってね。大丈夫? もう落ち着いた?」
「ああ、多分な」
佳蘭が心配そうに覗きこんでくる。落ち着けるために、もう一度大きく息を吐き出した。
桃生緋沙子から鉄平のことを聞かされた後の自分が曖昧だ。喫茶店とかその辺の公園でボーっとしていたのかもしれない。パチ屋で適当な台を脳死で打っていたのかもしれない。それだけ俺にとってダメージが大きかったということだ。
「高戸がそれだけ参るって少し想像出来ないわね。一体何があったの?」
一瞬口を噤む。果たしてこれを話していいものかわからない。自分の思考が回っていないことを自覚出来ているだけに余計にだ。とはいえ佳蘭に話さなければ始まらないのはわかっている。悩みに悩んで最終的に話すことにした。
「鉄平が、どうやら麻薬に関わっているらしい。桃生緋沙子の話によるとだけどな」
「それは……。なるほどね、納得したわ。高戸がそうなるのも無理はないわね」
冷静に俺を気遣うような佳蘭の言葉と視線。たったそれだけ。それだけのことで頭に血が上った。
「あり得ない。あり得ねぇンだよ! アイツが、鉄平が麻薬に手を出すなんて。そんなことゼッテーありえねぇ‼」
思わず立ち上がり、佳蘭に向かって声を荒げた。わかってる。佳蘭に当たっても意味がないし、八つ当たり以下だ。それぐらい俺自身が限界だったということに他ならない。
貫く様にじっと見つめてくる佳蘭の青い瞳。その青に気圧され、一瞬だけ落ち着きを取り戻す。そのまま萎れるように椅子に座り込んだ
「気持ちはわかるわ。とはいえ落ち着きなさい」
「わかってる、わかってるよ」
「なら桃生さんとの会話を教えなさい。覚えてる限りでいいから彼女の言葉そのままで。いい? そのままよ」
「ウルセーなぁ! わかってるよ。そのまま伝えりゃいいんだな!」
「そう。わたしが知りたいのは事実よ。今の高戸は平静を失っている。今のあなたというフィルターを通された情報は確実に歪んでいるわ。それを出来る限り排除したいの」
その言葉に思わず口を噤む。確かに今の俺はマトモじゃない。それは自覚出来ている。気持ちを切り替えるように大きく吐き出した。
「わかった。出来るかぎり正確に伝えるぜ」
そして俺は昼間の桃生とのファミレスでの一幕を佳蘭に話す。どこまで正確だったのかは定かじゃない。それでも出来る限り再現して伝えた。
「なるほど。わざわざファミレスにまで呼び出して、更に誰にも見られないようにメッセージを使って伝えてくる辺り信憑性は高いわね」
「ああ。おそらく桃生の言葉に嘘はない。それはそれとして、信じられるかよ。鉄平が麻薬をやってたなんてよ」
考え込む様に口元に手を当てていた佳蘭がすっと俺へと視線を向けてくる。なにか言いたいことでもあるのだろうか。
「やっぱり。仕方ないことだけど、認知の歪みが起こっているわ。桃生さんが言っていたのは麻薬に関わっているということだけ。一言も有馬さんが使っているとは言っていないわ」
「いや、それ以外にねえだろ。麻薬と関わることなんて」
「もう一つあるじゃない。売人という可能性が」
「そっちの方がありえねぇ!」
麻薬ってやつは簡単に誰かの人生を歪めちまう代物だ。一時の快楽を代償に終わらない依存症が待ち受けている。そして重度の中毒患者は日常生活すら送れない。少し前に海外の麻薬中毒がゾンビのようにふらふらと街中を彷徨っている動画を見たことがあった。そんな他人を破滅させることが出来る代物を、鉄平が売りさばくなんて絶対にあり得ねぇ。
「実はわたしの方も大きな進展があったの。それを考慮に入れると、むしろ売人の方が可能性高そうなのよね」
「なにが、あったんだよ」
「竹中さんから面白い話を聞けたの。オカルトサークルの宝の話。その宝を使ったものは不幸に見舞われるという」
「なあ。その宝ってまさか」
「わたしも怪しいと思ってもう少し詳しく聞いてみたの。竹中さんが言うにはその宝の正体は本なんじゃないかってことだったわ。使う、つまり読んでしまった者は自殺という不幸に見舞われる。十中八九その正体は「月光」という呪われた本で間違いないわ」
一瞬麻薬のことが頭から吹っ飛び、佳蘭の方へと身を乗り出す。俺たちの当初の目的である鉄平がどうやって「月光」を手に入れたのか、それに王手がかかったも同然の情報だった。
「で、誰が、いやもしくはどこにあったんだよ「月光」は」
「サークルメンバーから一人秘密の守り人が選ばれる。その秘密の守り人が宝を守り次代に引き継ぐ。当代の秘密の守り人はわからないそうよ」
「つまりその秘密の守り人とやらが「月光」を持っていたと」
「竹中さんの話を聞く限りそういうことになるわね」
「なるほどな」
つまりあのサークルメンバー五人の内誰か一人が秘密の守り人で、鉄平に「月光」を渡した犯人ということになる。オカルトサークル内部に絞った俺たちの方針は間違っていなかったということだ。
五人の内、二人は確実に除外していい。佳蘭に秘密の守り人のことを漏らした竹中と、鉄平が麻薬に関わっていることを教えてくれた桃生の二人だ。仮にこいつらが秘密の守り人だとすると、取った行動が色々とおかしい。あくまで当事者じゃないからこそ、竹中は世間話の一つとして佳蘭に秘密の守り人のこと漏らしたに違いない。そうじゃなければただただ自分で暴露しただけだ。桃生に関してもそうだ。もしあいつが秘密の守り人なら鉄平の自殺の原因がわからないはずがない。
「もしこの秘密の守り人と麻薬が関係していた場合、有馬さんが売人だったと考えた方が無理がないわ」
その言葉に確かにと納得こそしたが、それを言葉にすることはない。頭じゃわかっているが心がそれを拒否していた。
「とはいえわたしたちはまだ全ての謎を解いたわけじゃない。物語は最後まで読まなければ結末がわからないように、この先どんな真相が待ち受けているのかはわからないわ」
「わかっている」
ここまでのやりとりで少しだけ、落ち着きを取り戻してきた。佳蘭の言う通りまだ答えは出ていない。鉄平が麻薬をやっていたのかはたまた売人だったのか。あくまで関わっているだけだから、ただ巻き込まれただけという希望的可能性もある。秘密の守り人もそうだ。この二つが関係しているのかすらわからない。
「報酬は貰っていないとはいえ、今回の調査はわたしにとっては仕事。最後までやり通すわ。秘密の守り人、わたしは長瀬くんだと思う。小説を書いてるみたいだから「月光」を引き継いでいてもおかしくないわ。明日は彼を中心に調べるつもりよ」
長瀬。ああ、あの神経質そうな奴か。どんなもの書いてるかは知らんが、確かに小説書いてるような奴なら「月光」も大事にするだろう。佳蘭の言う通り秘密の守り人として選ばれていても不思議じゃない。ただどうもしっくりと来ない。言葉に出来ない、ざらつきのようなものがどうしても付き纏う。
気が付けばじっと俺を見つめる佳蘭の青い視線。真剣なそれに固唾を飲み、俺の身体は自然と強張っていた。
「わたしも失念していたけどね。高戸の話を聞いて思い知ったわ。人が死んでいる以上、これは一つの事件であり、相応の闇が潜んでいるってことに。おそらくここから先は、見たくないものや知りたくないことが明らかになるかもしれない。高戸和也さん、そのことは覚悟してちょうだい」
「——ああ」
そうとしか、答えられなかった。わかっている。佳蘭の奴がわざわざ俺をフルネームで呼んだ意図も理解はしている。この調査を始めた時の俺はそんな覚悟なんてなくて、言っちまえばそれは今だって同じだ。だから動揺し、これだけ荒れている。佳蘭の言葉にもあんな雑な返答しか出来ない。
これから先、有馬鉄平という一人の人間の死について、更に踏み込むことになる。その結果がどんなものだろうと、俺は知らなければならない義務がある。だが理性と感情は別なように、わかってはいるがその覚悟が定まらない。もどかしさに唇を噛み締める。一歩踏み込む勇気が、今は欲しかった。
*
四日目の昼、俺は全てを無視してパチ屋に来ていた。もう残り時間は今日と明日しかない。本来ならオカルトサークルへ行き、佳蘭と一緒にメンバーの情報を集めるべきだろう。わかっている。わかっているがどうしても行くことが出来ない。逃げるように朝イチからパチ屋へと向かっていた。
当たる気配のないスロット台にイライラが止まらない。思わず台パンしそうになり、慌てて右手を引っ込めた。この負けは予想出来ていたことだ。そもそもがこんなメンタル状態でまともに台なんぞ見れるわけがない。頼りになるのは自分の運だけ。まあ勝てるわけがない。
流石に四日目ともなれば軍資金も心許なくなってきている。ここで低レートの五スロを選択した辺りまだ俺の理性は残ってはいた。ただ五スロといえど開店から同時にブン回し続けていりゃそれなりに消耗する。まだレッドゾーンまでには余裕があるが、それも時間の問題だろう。
「なーにやってんだか」
俺の呟きはジャンジャン五月蠅い店内の騒音に掻き消されて誰の耳にも届かない。下皿のコインを掴み台へと投入し、流れるようにレバーオン。特に何もない通常演出を最後まで確認することなくストップボタンを三連打。ただただ回転数だけが積み上がっていく。
ぐちゃぐちゃ煮え切らない心をギャンブルの興奮と苛立ちで染め上げていく。言っちまえば蚊に刺された箇所を指でつねる様なものだ。くだらない。
もう残り少なくなってきた下皿のコインを全部台へと投入する。繰り返される単純動作。これといって期待させる演出も来ない虚無の時間だけが訪れる。だからだろう。不意に鉄平の「おれは高戸のプライドの高さだけは信用している」という言葉が脳内に流れた。
スロットを打つ手が一瞬止まる。そうだよ俺は一体なに忘れてんだよ。確かに鉄平とは本だけの繋がりしかなかった。大した思い出もない。それでもそこには繋がりがあった。
鉄平のモットー「やるならバレるなバレたら責任取れ」それの本質は先を想定しているということだ。なにか行動を起こすからその先に責任が生まれる。行動の前に責任は発生しない。あいつは、鉄平はその先を考えられる奴だった。形はどうあれ麻薬なんて犯罪に手を出せばどうなるのかなんて理解出来ないわけがない。
ガキの頃から考えりゃ俺も随分と変わった。それは鉄平も同じだろう。それでも変わらないものがある。あいつが俺のプライドを信じていたように、俺も鉄平を信じている。この事件には何かしら裏がある。それは調査を進めていくことでしか、明らかにすることは出来ない。
気が付けば台に投入していたコインはなくなっていた。思わず苦笑いが零れ出る。まったくなんで覚悟決めた場所がパチ屋なんだよ。もっと他にいい場所があっただろうが。
覚悟は出来た。気合いを入れるように頬をバチンと叩くと台から立ち上がる。まずは減った軍資金の回収しにもう一勝負。その後はオカルトサークルへ行く。
ここで真っ直ぐオカルトサークルへ向かわない辺りクズ極まっている。とはいえ鉄平も俺をクズだと言っていたじゃないか。実に俺らしいムーブだ。
自販機でお気に入りのジャスミン茶のペットボトルを買うとハッピーピエロのコーナーへと足を運ぶ。冷静さを取り戻した俺に隙は無い。これだと思った台へと座り、千円ブッコむ。子役リプレイと何もなし。そこそこ回して遂に来た。ティキンと台中央のハピランが光る。三枚ベットから一枚へと変えてレバーオン。スリーセブンでビッグボーナス確定思わずにやける。
このハッピーピエロという機種に液晶はなく、あるのは中央のハッピーランプのみ。つまり一切の演出がなく、このハピランが光れば当たりというシンプルさ。ただこのシンプルさってやつには厄介な一面もある。演出がないせいでいつ当たりが来るのか素人目には全くわからないのだ。だからあと千円突っ込めば当たったのに、それがわからず台を捨てちまう。俺が座ったのもそういう台だ。
ボーナスゲームを消化し、連チャン目指して回していく。結局もう一発ビックとレギュラー二回で終了。ギャンブルってやつはやめ時が肝心だ。これ以上回してもしばらく当たりはこないと判断し台から立ち上がる。そこそこ溜まったドル箱持って計数機の前に立ち、店員が来るのを待つ。
「お」
「あ」
見知った顔が俺の後ろに並び思わず声が出た。森川がカチ盛りにしたドル箱二つ抱えている。今の今まですっかり忘れていた。そういえば少し前に布石を打っていたんだったと。同時に出会った時の森川の顔で、賭けに勝ったことを理解した。
「よぉ! この前ありがとな! あの後お前に言われた台打ったら爆発してよぉ。負け分全額取り返せたわ。ええっと……」
「高戸でいいぜ。やっぱあの台爆発したか」
店員がやって来て俺と森川の会話は中断される。ドル箱を店員に渡すと「余りはどうされますか」と聞いてきた。へぇこの店は聞いてくるんだなと思いながら身振りでこっちに寄越すよう伝える。店員がジャラジャラと計数機にメダルを投入していくのを、渡されたおしぼりで手を拭きながら眺め続ける。最後に余りを調整され残ったコインとレシートを受け取る。すっと次の森川に譲りながらレシートの中身を確認する。換金率を考慮に入れて今日のトータル収支は微マイナスといったところか。
「この余りメダルって貰っちまうけど、ぶっちゃけ意味ねぇよな。どうせなにも起こらないし」
同じくコインをレシートに変えた森川が、つまらなそうに俺に話しかけてきた。まあ森川の言いたいこともわからんでもない。
全てのコインが景品と交換されるわけじゃない。どうしても端の分がでてしまう。まあカウンターに持っていけば、その分お菓子と交換して貰えるのだが、まあぶっちゃけいらない時の方が多い。会員カード持ってりゃそっちに貯めるのが一番良いが、持ってない奴は俺らみたいに余りメダルを貰う方が多い。とはいえ所詮金にならない余りメダルだ。たった数枚しかない。確かにこの数枚でなにか起こるなんてことはないだろう。普通に考えたらな。
「なあ。その余りメダル。いらないんだったら俺にくれよ」
「ん? 別にいいぜ。アンタにゃ借りもあるしな」
ほらよと手渡されたメダルを受け取り合計枚数は十枚を超えた。回転数にして四回ほど。まあ不可能ってわけじゃない。
メダル握りしめハッピーピエロコーナーへと戻る。そんな俺を興味深そうな目で見ながら森川は付いてきた。まあこれからのことを考えると森川がついて来てくれないと困る。
台の設定をガン無視してピーキーな台を選ぶ。こんな状況で当てようと思ったらそれこそセオリーガン無視しての一点突破しかない。
ワンチャンありそうな台見つけて座るとメダルを投入した。そのままレバーオン、ドゥルンという音とともにスロットが回る。まずは一回転目、子役リプレイなし。まあこんなもんだろう。背後に森川の気配。興味深そうに俺の様子を覗いている。
二回転目、ここで魅せプに走ることにした。左リールのストップボタンを押す。上段にピエロ。僅かに右手が震える。そのまま中央ではなく右リールを止める。右リールの中段にピエロが止まったことを確認すると、下皿に飲みかけのジャスミン茶のペットを突っ込み立ち上がる。
「お、おい。まだ回ってるぞ」
森川からしてみたら奇行に感じたのだろう。そんな動揺する森川の声を無視して煙草を取り出す。
「どうせ勝手に止まるからいいだろ。それより一本付き合えよ」
言うが早いか森川を置いていくように喫煙ルームへ向かって歩きだす。どうせ付いてくるだろうという俺の予測通り森川は「ま、待てよ」と慌てて付いてきた。
店の片隅に取って付けたようにポツンと設置された喫煙ルーム。ガラス張りで外から丸見えのそこは、ぶっちゃければそう好きじゃなかった。とはいえ外で吸う気分じゃねぇし、まあ苦渋の選択ってやつだ。
トントンと軽く叩いて一本取り出し火を着ける。まさに至福の一口たまらねぇ。そのまま壁に寄り掛かり煙草を楽しんでいると、少し遅れて森川がやってきた。
「お前コーヒーはいけっか?」
「へぇ。気が利くじゃん。ありがとよ」
差し出された微糖の缶コーヒーを受け取りプシュッと開ける。あー最高実に気分がいい。森川も俺の隣で同じように寄り掛かると電子タバコを取り出しセットする。
「まあさっきも言ったがアンタにゃ借りがあるしな」
「サイコーだったろ? バレファン」
「マージ神。三千円くらい突っ込んだところで一気に爆発してよ。めっちゃ楽しかったわ」
「ちなみにボーナス消化してどれぐらい回したよ?」
「あん? ソッコーやめたが」
「勿体ねぇ。そっから百五十も回せばもう一発爆発したのによ」
「マジか⁉ カーッやらかしたわ」
悔しくて地団駄踏む森川をニヤニヤ肴にしながら煙草を吸う。初日の自己紹介でのことを考えればかなり打ち解けつつある。あの日の布石が正しく機能したことに内心ガッツポーズした。
「にしてもお前にオカルトサークルってイメージねぇよ。どうして入ったんだ?」
「高戸こそどうしてウチのサークル来たんだよ。ガラじゃねーだろ」
「あのオンナの付き添いだよ。ガチ面倒で仕方ねぇ」
「あいつと付き合ってるってわけでもねぇんだろ。マジお疲れさん」
わざとらしくげんなりした表情で煙を吐き出すと同情の声を掛けられた。恨みすら籠ってそうな苦々しい表情で、森川が佳蘭のことをどう思っているのか察することが出来る。
「で、お前の方はどうなんだよ森川。まだ答えてねーぞ」
「チッ。誤魔化せねーか。笑うなよ。昔、ホント小さな頃に幽霊見たことあんだよ。あれがなんだったのか、調べてみようと思ってな」
「ふーん」
「……。笑わねーんだな」
「今の話のどこに笑える要素あんだよ」
俺自身オカルト的なものは結構信じてる方だ。なにより今俺たちは「月光」という怪異を追っている。たかが昔幽霊見ましたなんぞ笑い話にすらならねぇ。
「まあそれもソッコーでどうでもよくなって、今じゃ行くのかったるいだけだがな」
「それに聞いたぜ。ツレ、死んだんだろ? 猶更行きたくないわな」
俺としてはジャブのつもりだった。軽い牽制を入れて様子を見る。その程度。だが森川の反応は顕著だった。
目をかっぴらき、口から煙が僅かに漏れる。顔面は痙攣したように強張った。けれどもそれは一瞬で、森川はすぐに空いた手で顔を覆うと悲しむ様に俯く。
わかってる。森川のいかにも辛いですといったこの態度は単なるポーズ。つまり演技に過ぎない。本心は一瞬の動揺の方だ。確信した。森川は鉄平の死に関わっている。それもかなり深い所で。
貰った缶コーヒーを呷るように一気に飲み干すと、短くなった煙草を備え付けの灰皿へ投げ入れる。灰皿の中の水と煙草の火が触れ、ジュッという音がした。俺はなにも気がついてないように軽く微笑むと森川の肩をポンポンと叩く。
「悪かったな。そろそろ戻ろうぜ」
「あ、ああ」
そのまま森川を連れて喫煙ルームを出る。まだだ。まだ早い。ここで下手に追及しようもんなら逃げられる。釣りと一緒だ。今は餌に興味を示しただけ。仕留めるのは確実に食いついてからだ。
回しっぱなしで離れた台へと戻る。当然の話だが時間経過で最後の中央リールは止まっていた。そして光り輝く台中央のハッピーランプ。
「は? え、あ?」
意味がわからないと馬鹿みたいにポカンと口を開け、森川はスロット台と俺の顔を交互に見てくる。まだ回ってる台放置してどっか行って戻って来たら当たっていた。まあ森川からすりゃ意味がわからないだろう。森川のその反応は予想通りとはいえ実に気分がいい。
俺は軽くドヤ顔かましながら台に座り、確保のために下皿に突っ込んだペットボトルを回収する。残っていた貯メダルで7図柄を目押し。見事ビックボーナス引き当てジャンジャカ派手なファンファーレとともにボーナスゲームが始まった。
どんなにクソみたいな設定でも当たる時は当たる。俺が掴んだこの当たりはそういったタイプのもの。おそらく連チャンはない。単発で終わると予想し、ボーナスゲームが終わると速攻でメダルを払い出し席を立つ。
「続き、打たないのか?」
「まあ打つのがセオリーだな。ただ俺は連チャンはないと読んだ。打ちたいなら譲るぜ?」
「やめとく。高戸がそういうなら連チャンはしないんだろう」
森川の言葉に内心ほくそ笑む。二回の布石による効果で、森川の中での俺の評価がイイ感じに定まってきている。おそらくパチスロに関しては俺の言葉を素直に聞くだろう。あとはここから伸ばし、広げていくだけ。
当たったコインをドル箱に入れて精算した後、カウンターに持って行き景品と変える。最後に換金所に行って景品を金にすれば終了だ。今日の収支はなんだかんだでプラス。ラストのビックが大分デカかった。
俺の後に続いて森川も換金所からホクホクした顔で出てきた。さっきカウンターでちらりと見たが、森川の奴それなりの額勝っていたから気分がいいのだろう。口も滑りやすくなっているはず。この機を逃したくはない。
「森川さあ。この辺にウマいラーメン屋ないか? 折角だし奢るぜ」
「お! マジか。ちょっと歩くがいいとこあるぜ」
自分より勝ってる奴に奢ってやるのは業腹だが仕方ない。確信がある以上、もう一歩踏み込む必要がある。それにしても自分の方が勝ってるっていうのに、奢って貰えることに喜んでる森川にむかっ腹が立ってきた。だがこれも必要経費と割り切り、適当にヘラヘラしてイラつきを隠す。そんな俺の内心に気付くことなく森川は付いて来いよと歩き出した。
男二人で真昼間の街を進む。森川の話を聞く限り目当てのラーメン屋まで歩いて二十分といったところらしい。まあまあな距離がある。
「なあ。さっきのハッピーピエロ、あれは一体なんだったんだ?」
「ん? ああ。あの当たりね」
「ハピラン光るタイミングは最後のボタンを離した時だろ。あの時まだ回ってたじゃねぇか。もしかして高戸はそれより前にわかるのか?」
「まあな。そういう打ち方があるんだよ」
「どういった理屈なんだよ」
「森川、お前は一つ勘違してる。光ったから当たるんじゃない。当たっているから光るんだ」
「は? なんだよそれ。意味わからねぇ」
俺の禅問答みたいな言葉に森川は不機嫌そうに顔を歪める。まあこれだけだったら確かに何を言ってるのかわからないのも無理はない。とはいえ森川の顔をよく観察してみれば、自分から聞いてきたくせに大して興味がなさそうだった。だから俺も「大した意味なんてねーよ。一種の魅せプだよ魅せプ」と言うと、途端に興味が失せたようで「そうか」で終わった。
当たり前の話だが、通常時に7図柄は揃うことはない。そこそこの動体視力がありゃ目押しは出来る。それこそハピラン光ってりゃジジイでも7図柄を揃えることは出来る以上誰だって可能だ。にも拘わらず通常時では幾ら狙っても揃わない。理由はシンプルで、電子制御で滑るからだ。最後のストップボタンを押してから最大四つ分図柄が滑る。だから通常時じゃ絶対に揃わないし、ジジイでも目押しで7図柄を揃えることが出来るってのはそういう理屈だ。
実はレバーを押した時点で揃う図柄が決まっている。スロット内部で当たりが確定していて、その上で打ってる奴が7図柄を揃えられなかった時にハピランが光るのだ。そしてパチプロ共の研究で、光る前に判断する方法が確立された。それが左の上段、右の中段にピエロが止まった時。まあそれがわかった所で大したメリットはない。せいぜい光った後の7図柄揃える時に使うコイン一枚分得するかしないかだけだ。パチプロに言わせりゃ長期的にみればその一枚は重要らしいが、変に気を使いながら打つ面倒さ考えりゃ左程気にすることでもない。つまり森川に言ったように魅せプ以上の意味はない。
そうこうしている内にようやくお目当てのラーメン屋についた。「ここだよここ」とテンション高めの森川とは裏腹に、若干げんなりする。森川おすすめのラーメン屋は横浜の家系で、がっつり濃いめはあまり今の気分じゃない。とはいえグチグチ言って店を変えるほどじゃない。大人しく森川の後に続いていく。
店の中に入って食券機に千円札二枚入れる。これだけありゃ森川の注文くらいは足りるだろう。
「ほら。好きなモン頼めよ」
「悪いな。それじゃ遠慮なく」
そう言って一番高いチャーシュー麵を容赦なく頼んでいる辺り森川はイイ性格してる。まあ奢るって言ってる以上変に遠慮されるより、高くても好きなモン頼んでくれた方が気持ちがいい。あ、てめコイツ餃子まで頼みやがった。よく考えりゃ森川の場合奢りたくて奢るんじゃなくて必要経費として奢ってる。そりゃムカつくわ。
財布からもう一枚千円札取り出し食券を買う。普通のラーメン。店員に食券を渡し、ついでに味の好みを聞かれたから全部普通で答えた。初めて行く店で味を弄るのはまだ早い。味を見極め、その上で自分好みにカスタマイズしていくのがベターというもの。今日は無難にこれでいい。
二人並んでカウンター席に座る。流石の森川も多少は気を使うらしい。カウンターに置かれたコップに冷茶を入れると渡してきた。
「お、悪いな」
一言礼を言うとコップに口を付ける。それなりに歩いたせいで喉が渇いていた。少し緑茶の味が薄いが代わりにすっきり爽やかで実にうまい。それにしてもピッチャーの中身は冷水じゃなくて冷茶か。意外にこだわってるなこの店。
「高戸さあ。あの女、久留主佳蘭ヤバくね」
「どういう意味でだよ」
「いや、ちょーっと軽ーく飯に誘ったんだよ。そしたら顔ひっぱ叩かれた」
さらりと言われた森川の言葉に思わず噴き出した。なーる。雑なナンパして思いっきりビンタ食らったと。いや佳蘭の話聞いてたら、意外に男慣れしてないようだから理解は出来るがさーすがにやる。まだ森川と知り合って短いが、こいつは確実にキレるタイプ。絶対その後部室の中悲惨だったろうな。
「マジヤバくね? ビンタだぜビンタ。ありえねーだろ」
「よかったじゃねぇかご褒美だご褒美」
「ドMじゃねーから嬉しくねーよ!」
いやあ笑った笑った。さっきの幽霊を見たよりよっぽど笑い話だ。注文待ってる間の軽めの雑談としちゃ丁度いい。
店員がお待たせしましたと注文したラーメンを持ってきた。ドロリとした豚骨醤油のスープとどっしりとした太麺。チャーシュー二枚と煮卵がトッピングとして乗ってる。個人的には立てた襟のように盛り付けられた四枚の海苔がかなりの高評価。その気はなかったが、少しだけ期待できる。
むしゃむしゃと横でチャーシュー貪ってる森川尻目にラーメンに箸をつける。ずしりと重さを感じる太麺、それに海苔を絡めて口に入れる。太麺だからこその小麦の力強さとそれに負けないスープ味の濃さ。これだけでも充分にウマいのだが、そこに海苔の風味とうま味が加わり味に更なる奥深さが生まれる。あーうま。家系にあまり乗り気じゃなかったが、無理矢理黙らされた。
ふと視線を感じ隣を見ると、森川が興味深そうにじーっと俺を見つめていた。そのままおもむろに森川は、俺の真似して海苔と一緒に麺を口に突っ込んだ。驚き目を見開く森川に俺も思わずニヤける。
「うまっ。え、マジでうまいなこの食い方」
「だろ? チャーシューや煮卵は確かにトッピングの華だ。けどよ。食い方次第じゃ海苔だって馬鹿にできねーんだよ」
例えば俺の好きな九州の博多とんこつの紅ショウガなんかもその類いだ。まろやかな乳白色のとんこつスープに紅ショウガの風味が加わって格別なものに変わる。トッピングや食い方次第で味が変わるのもラーメンの魅力だ。
「いや高戸って色々詳しいんだな。ラーメンもそうだけど、さっきのスロットとかよ」
「スロに関しちゃ年季が違え」
餃子をつまみながら森川がしみじみと口にしたその言葉、スロだけはガチで年季が違う。それこそ物心ついた頃、クソ親父にパチ屋に連れてこられたのが始まりだから相当だ。
勿論パチ屋に行けるのは大人だけだ。それは今も昔も変わらない。ただあの頃は時代が緩かった。ちょうど子供の車内放置が問題になってた時というのもある。他にも場所が地元の寂れた店で、クソ親父がそこの常連だったというのも関係していたのかもしれない。まあ理由はなんだっていい。ただ事実なのはクソ親父が幼児だった頃の俺を膝に乗せてパチンコスロットを回していたってことと、俺がその楽しさを知るのが普通の奴より遥かに早かったということだ。
「なあ今度スロ教えてくれよ」
「いいぜ。だがタダってわけにはいかないな」
俺の言葉に森川は「へぇ」と悪い笑みを浮かべる。その言葉を引き出すために色々布石を打ってきた。ここまで俺の狙い通りの展開だ。底意地の悪い笑みを浮かべたいのははむしろ俺の方。とはいえそこはポーカーフェイスで森川の言葉を待つ。
「イイ儲け話があんだよ。高戸も乗らないか?」
「へぇ。なんだよそれ」
いかにも興味ありますといった言葉と共に、俺も森川と同じ笑みを浮かべる。十中八九この儲け話は麻薬に関することだ。ここまでの狙い通り過ぎる展開と、ようやく尻尾を捕まえることが出来た興奮で、俺の演技は自然なものになってるはずだ。ようやく魚が餌に食いつきやがった。あとはバラさないよう引き上げるだけ。
「後で、な。そろそろ出ようぜ」
そう言うと森川すっと立ち上がる。まあ確かにこういうラーメン屋は客の回転数が命だ。長居出来るような所じゃねぇし、もう少し突っ込みたいが森川の言う通り出た方がいいだろう。残った冷茶をグイッと飲み干すと森川の後ろについて外に出る。
ラーメン屋の外にポツンと置かれた灰皿で森川と一緒に煙草を吸う。口の中に残る家系独特の濃厚な油を煙草のメンソールで押し流す。あー食後の一服は最高だ。それがラーメン食った後ならなおさら。
「で、森川。この後どうするんだ? この後も打つっていうなら付き合うぜ。ウマい話とやらも気になるしな」
「あーわり。この後用事あんだわ。明日パチ行こうぜ。そん時に話すわ」
森川のヤロウ意外に手強い。勘付いてとかじゃなく単に噛み合わなかっただけとかってオチだろう。ここまで狙い通りだったからこそもどかしさを感じる。魚は食いついた。だが食いつき方がまだ甘い。
「わかった、明日な。オカルトサークルの部室で合流して、そこから行こうぜ」
だから俺は、一つ罠を仕掛けることにした。
※
俺は欠伸を噛み殺しながらオカルトサークルへ向かってゆっくりと歩く。今日で五日目、調査期間の最終日だっていうのに我ながら呑気してると思う。時間を確認するためにスマホを取り出す。十三時四十分森川との約束の時間から十分ほど遅れている形、時間管理は完璧だ。早すぎて俺の方が先に部室にいてもダメ、かといって遅すぎれば森川のことだ、痺れを切らしてパチ屋に向かう。これくらいの遅刻がベスト。
ふわあと噛み殺せずに半分ガチで半分演技の欠伸が漏れた。俺自身演劇の経験なんぞあるわけがない。部室に入っていきなり演技が出来りゃ問題ないが、まあ勿論そんな器用な真似出来るわけがない。だからこうして遥か手前から作り込みながら歩いてる。ついでに言うならここ数日のネカフェ暮らしでガチで気怠い。ここまでやりゃ不自然な演技でご破算になるなんてことはないだろう。
オカルトサークルの部室の扉を自然な動作で開ける。内心の気合いを表に出さないように、あくまで自然な感じで。さあここからが本番だ。
部室の中には森川を含めたサークルメンバー全員と佳蘭がいた。初日以来の全員集合。ただ部室内の空気は険悪そのものだった。
険悪な空気の発生源は丸わかりだった。まるで近づく人間全員を斬りつけるかのような雰囲気を放つ佳蘭と、不機嫌そうに関わるなオーラ全開の森川。こいつら二人が原因だ。
桃生なんて挙動不審気味にあわあわしている。長瀬は関わりたくないと言わんがばかりに目の前の本に集中しているし、竹中と品野はパソコンに向かいながらもチラチラと様子を覗っている。まさにほんの少しの火種で簡単に爆発する、そんな空気を醸し出していた。これは俺が狙っていた状況そのもので、打つ手は決まっている。
「オウ森川、遅れて悪かったな。じゃあ行こうぜ」
「悪かったじゃねえよ。自分から言っておいて遅れるなよ。……チッまあいいや。早く行こうぜ」
森川は舌打ちと共に時間潰しのために弄っていたスマホを仕舞うと立ち上がる。部室内の空気がほんの少し緩くなったのを感じた。空気を悪くしている奴がいなくなるのが分かり、安心したのだろう。だがそこに佳蘭が待ったを掛ける。
「待ちなさい高戸。一体どこへ行くつもりなの?」
「あァン? 別にいいだろどこだって。お前に関係あんのかよそれ」
「関係あるわよ! あなたこの五日間なにをしてたの⁉ わたししか調べてないじゃない。最終日くらい真面目にやったらどう?」
俺の起こした火種が引火した。声を荒げてガチでブチ切れてる佳蘭。あまりにも真っ当で、ぐうの音も出ないほどの正論だ。だからこそ俺も逆ギレすることが出来る。
「うっせえよ‼ そもそもが勝手に俺を巻き込みやがって。元々乗り気じゃなかったんだよコッチは‼」
「そもそもわたしがいなかったら留年してたでしょ‼ どうするつもりだったのよ‼」
「うっせぇな! 知るかそんなモン‼」
部室中の視線が俺と佳蘭に集まった。僅かに視線を逸らし桃生を見る。大きく目を見開き驚いたように口元を手で隠していた。一瞬のアイコンタクト、すぐに視線を佳蘭へと戻す。桃生にはあらかじめこの展開になることは話してあった。そもそもが桃生が全く部室に来ない俺を佳蘭がキレないのはおかしいと言ったのがきっかけの一つだ。桃生にだけは話しておかないとガチで支障が出る。
いい感じにこっちの痛い所を突くような佳蘭の言葉。昨夜話し合って予定調和のことだがガチで頭にきてる。自然と俺のボルテージも高まっていく。
「ガチでウザいんだよお前‼」
「なにキレてるの? 事実だからって逆ギレ?」
「テメェ!」
流石に我慢できず佳蘭に詰め寄ろうと一歩踏み出す。ヤバいと思ったのだろう。様子を覗っていた品野が間に割り込んできた。
「やめるでござるよ二人とも‼」
「テメエは関係ねえだろ。すっこんでろよ‼」
「困ったらすぐに暴力に訴える。とんだクズね」
「久留主殿も煽るなでござるよ‼」
なんとか場を収めようと必死に俺の前に立ち塞がる品野を押しのける。充分だ。もう充分ヘイト稼ぎは出来た。後はこのまま佳蘭のもとへ行って、適当なところで俺が折れればそれで終わり。狙い通りの展開だ。
「やめろって言ってるだろ‼」
突如ガチギレした品野に胸倉を掴まれた。反射的に俺も品野の胸倉を掴み返し、至近距離でガンを飛ばし合う。
やらかした。怒りに染まった目を真っ向から睨み返しながら冷や汗をかく。ヘイト稼ぎ過ぎた。品野の奴頭に血が上り過ぎていつものキモいござる口調すら忘れてやがる。マズい。これ以上は揉め事としてデカくなりすぎる。どうする。どこで折れる? どこで終わらせる?
「高戸くん! これ以上の揉め事はやめてくれないか‼ 大人しく部室から出て行ってくれ!」
怒気の籠った竹中の言葉は、今の俺からすれば助け船に他ならない。ゆっくりと右手の力を抜き、掴んでいた品野の胸倉を離す。同じように品野の方も離した。
「騒がしちまって悪かったな。おい森川、行くぞ」
「お、おう」
状況についていけず間抜け面晒してる森川を連れて部室から出ていく。勿論舌打ちと強めに扉を閉めることも忘れない。これで俺の印象を更に最悪なものにしただろうが、そんなことは知ったこっちゃない。どうせ明日からは一切関わることはない奴らだ。何を思われてもノーダメ。ああ桃生とだけは連絡先交換してたが、あいつにはある程度話してある。まあそれに後のことは佳蘭がなんとかするだろう。
俺たちしかいない喫煙所。そこのベンチに荒々しくドカリと座り込み煙草に火を付ける。そしてフーッと紫煙と一緒に嫌な気分を吐き出した。俺の機嫌が多少マシになったのがわかったのか、森川はさっきまでの落ち着かない表情からニヤニヤしたウザい笑みに変える。そのまま森川は俺の隣に座ると電子タバコをセットし始めた。
「随分と派手な痴話喧嘩だったな」
「あァ? 茶化してんじゃねーぞ」
「おーこわ」
弄りにきた森川を睨みつけることで黙らせる。とはいえ森川の顔は依然として意地の悪い笑みを浮かべていて、まだまだこのネタで弄る気満々だ。
「ああ見えて品野さんは喧嘩っ早いんだよな。おれの時も羽交い絞めされたわ」
「あんな雑魚どうだっていいんだよ! 佳蘭だ佳蘭。あのアマ俺を舐め腐りやがって‼」
バギンと金属製のベンチに拳を一発叩き込みながら吐き捨てる。わなわなと怒りに身を震わせると、森川はその笑みを深くした。
どうやら俺の演技はバレてないようだ。完璧に仕掛けた罠が機能している。これで俺は森川から更なる信頼を得ることが出来るだろう。
他人と仲良くなるために一番手っ取り早いのが、共通の話題で盛り上がることだ。そこから一歩踏み込んで、共通の敵というものを創り出せば結束は更に高まる。他人の陰口で盛り上がるなんてことはよくあること。自身の不満や愚痴の共有、敵対者という一つの目的を持つことで簡単に人は結束出来る。早く簡単で強い分、容易く崩れる邪悪な仲間意識。
昨日森川と一緒にラーメン食った時、こいつが佳蘭の話題を出した時に気が付いたことだ。あの時は俺が笑い話にしたが、確かに森川の目には佳蘭への恨みがあった。
「なあ高戸、久留主佳蘭強姦しちまおうぜ」
ボソリと呟かれた森川の言葉。動揺で跳ね上がりそうになる肩を理性で抑えつけ、ゆっくりゆっくりと横を向く。ニタニタとどこか粘着さすら感じる邪悪な笑み。
「新聞に自分の顔が載るのは御免だぞ」
「警察にパクられるのは流石にイヤだぜ。それはおれも同じさ。ただな、いい方法があんだよ。それともあれか、ビビってんのか?」
俺を煽るように挑発的な、それでいて侮蔑的な笑み。思わず森川の顔面をぶん殴りそうになり、強く右手を握りしめることで誤魔化す。こいつは、森川という男はヤバい。俺も昔はヤンチャしていた。警察に補導されかけて仲間と逃げたなんて経験もある。ただこれはヤンチャだとか若い時のバカといった範疇を遥かに越えた邪悪だ。
「……いいぜ。やっちまうか」
「そうこなくっちゃ! 流石高戸だぜ。そうと決まればパチ屋に行ってる暇はねえ。ウチへ来いよ。作戦立てようぜ」
クククという押し殺した笑いと共に愉しそうに森川は顔を歪める。いくら俺といえど佳蘭を危険な目に合わせるのを良しとするほど腐っちゃいねぇ。ただ今の状態の森川は本気で危険だ。何をしでかすかガチで読めない。コントロールするためにもここは乗った方がいい。
今の今まで俺の狙い通りの展開だった。仕掛けた罠も完璧に機能した。俺の釣り針は確かに森川の喉に深く突き刺さった。あとは釣り上げるだけの圧倒的に有利な状況から、気が付けば俺の方が追い込まれている。まるで人食い鮫の巨大な口目掛けて一歩踏み出したような気分だ。まだいける。まだ踏み込める。ただ踏み込み過ぎたら俺も佳蘭も食い殺される。いつ引くかの引き際を確実に見極めなければならない。
一服を終えた森川は堪えきれないと立ち上がり「ついてこいよ」と俺に声をかけてきた。俺は短くなった煙草を一瞥し、確かに頃合いかと灰皿に投げ入れると立ち上がる。そして数歩先を歩く森川に置いていかれないよう歩き始めた。
踏み込まなければこれ以上情報を得ることは出来ない。だが踏み込み過ぎれば佳蘭に危険が及ぶ。いつも通りの自然体を意識しながら歩く俺の背に、冷や汗が流れたのを自覚した。
時刻は夜の七時を少し回ったところ。もう日は落ち辺りは暗い。いつもは静かであろう住宅街も、退勤時間と被っているせいでそれなりに人が動いている。そんな中俺と佳蘭は森川のマンション目指し並んで歩く。夜風がふわりと佳蘭の香水の香りを届けてきた。最近佳蘭が使っているらしいハニトラ用の香水よりも若干甘さに重みを感じる。いまいちなんの香りかわからないが、どうせ佳蘭のオリジナルだろう。考えたって答えなんぞわかるわけがない。……わかっている。そろそろ切り出すべきだ。
「おい。今ならまだ間に合う。引き返すなら引き返したっていいんだぜ」
俺の言葉が意外だったのか佳蘭は驚いたように立ち止まる。一歩先を行く形で真正面から向き合う。
「俺に気を使ってるなら、そんなモン関係ねぇぞ。森川には俺が適当話して誤魔化してやる。なんなら今回の調査だって最悪失敗に終わったっていい」
「意外ね。高戸がそんなこと言うなんて」
「単に寝覚めが悪いんだよ。死んだ人間のために生きてる人間が犠牲になっちまったらよ」
「それはそうね」
クスリと緊張感のない佳蘭の微笑みに若干イラっとくる。なんだよその態度は。心配してる俺が馬鹿みたいじゃねぇか。
「これから起こることは全て聞いたわ。その上で乗ることに決めたのはわたし。最悪の事態になったとしてもその責任の全てはわたしにある。高戸が気に病む必要はないわ。もっともそんな可能性万が一もありえないことよ」
「根拠は? そこまで言い切る自信はなんだ?」
「わたしが魔女だからよ」
佳蘭の宝石のような青い瞳が月明りに照らされる。確かな自信と強烈なプライドに裏打ちされた微笑み。それだけで俺はもうなにも言うことは出来ない。振り返り佳蘭に背を向ける。
「……。ガチで危ないと思ったら俺も動くつもりだ。ただ期待はするな。保証はしねえぞ」
「ありがとう。頼りにさせてもらうわ」
くすくすと楽しそうに笑う佳蘭の声が耳に届く。言わなければいけないことは言った。伝えるべきことは全て伝えたつもりだ。これ以上はない。俺と佳蘭は再び並んで歩いていく。そこから十五分ほど歩いたところでようやく着いた。森川の住むマンションの一室、その扉の前に立つ。
「行くぞ」
「そうね。行きましょうか」
この先をいけば最終局面だ。有馬鉄平を巡る今回の調査。その答えがおそらくこの先に待ち受けている。同時に俺たちの身を滅ぼしかねない邪悪とも対峙しなきゃならない。一拍呼吸をおいてマンションの扉を開ける。
「おう。佳蘭連れてきたぜ!」
「悪いな助かったぜ! 上がってくれ」
玄関からその先の洋室にいる森川に声をかけると返事が返ってきた。俺は何回目というのもあって雑に靴を脱ぎ部屋へとあがる。佳蘭はというと丁寧に靴を脱ぎ、綺麗に揃えていた。
コンロとシンクがあるだけの簡単なキッチン。それに浴室とトイレ洗面所にメインのフローリングの洋室。俺の住んでいる部屋と左程変わらない、一人暮らしの大学生らしいマンションだった。
どこか警戒心を滲ませながら佳蘭は俺の後に付いてくる。知り合って日も浅い、更に言えば揉め事を起こした男の部屋だ。この反応に不自然さはない。そういえば初めて会った日、映像部の部室に入った時にも佳蘭は今と似たような緊張の仕方をしていた。もしかしたら他人のテリトリーに足を踏み入れるのは苦手なのかもしれん。
森川のいる洋室へ足を踏み入れる。良く言えば生活感のある、悪く言えば小汚いヤロウの生活空間。一応佳蘭を呼ぶ以上掃除はした、俺が。その前まではコンビニ弁当のゴミやら空のペットボトルやチューハイ缶の散乱する、とても部屋にオンナ入れることできないくらいの惨状だった。それをなんとか見れる形まで俺が片付けた、何故か俺が。
「ほらほら。座ってくれよ二人とも。佳蘭ちゃんは今日の主役なんだから遠慮はナシだ」
部屋の中央に置かれた小さなガラステーブルに座りながら、森川は張り付けたような笑顔で歓迎する。佳蘭は気分を入れ替えるようにふうと吐息を漏らすと、用意されていた座布団に正座する。それを確認してから俺も空いてる座布団にドカリとあぐらをかいた。
「悪かったな。今回の調査お前一人に任せちまってよ。ここにある食い物は詫びとして俺らが用意したものだ。遠慮なくやってくれ」
ガラステーブルの上には沢山の料理が並んでいた。宅配ピザにテイクアウトしてきた回転寿司、簡単にツマめるポテトやらナゲットもある。
「いやぁあの時はおれも悪かったよ。ゴメンな!」
「わたしもやりすぎたわ。ごめんなさい」
森川の言葉だけの謝罪に、佳蘭も頭を軽く下げた。二人の上っ面だけのやりとりに、よくやるねぇなんて呆れが混じった感想が出てくる。こんなくだらない茶番劇に興味はないと、二人を無視するように俺はテーブルからコップを取りコーラを注ぐ。
「お! そうだな、まずは乾杯からだ。ほら佳蘭ちゃんコップコップ」
まるではしゃいでるような、不自然なハイテンションさで森川は口の空いたオレンジジュースのペットボトルを佳蘭に向ける。そのまま酌でもするように、佳蘭の持つコップに注いでいく。こういう時はジュースじゃなくて酒の方が一般的だと思うが、佳蘭が飲めないってんで全員飲み物はソフトドリンクにした。まあこの後のことを考えれば酒で思考力鈍らせるわけにはいかないから、ちょうどいいっちゃちょうどいい。
「これで全員の遺恨は消えたってコトで! こっから先は楽しくやりましょうや。かんぱぁーい!」
森川の異常に高いテンションに若干引きながらも、俺と佳蘭も乾杯と声を出し、ティンとコップを合わせる。そのままゴクリゴクリとコーラを喉に入れていく。横目でチラリと佳蘭を覗き見ると、お上品に両手でコップを持ちこくりこくりと喉を鳴らしていた。
全て話してある。久留主佳蘭という女は馬鹿じゃない。この睡眠薬入りのオレンジジュースに対して何かしらの対策はしているはずだ。
俺と森川の二人で話し合った作戦はこうだ。俺も森川も佳蘭に対してやらかしちまってる。それの詫びとしてパーティーを開くという名目で佳蘭を森川の部屋に誘き出す。そして睡眠薬入りのジュースを飲ませてここを本当のレイプ会場にするというもの。
ぶっちゃけ俺からすればガバもいい所のこの作戦。だーれが真昼間に一悶着起こした男の言葉を聞いて、キモいナンパ野郎の部屋に行く奴がいるか。こんなもの俺と佳蘭が乗っているから成立しているように見えるだけ。本来なら成功するはずのないガバ作戦でしかない。だが森川は作戦を立てた当初からガチで成功を疑っていないようだった。犯罪という黒い熱が、森川から冷静な思考というものを奪い去っている。
チクリと太ももに刺したような痛み。佳蘭から視線を外し森川の顔を見た。俺と同じコーラを飲みながら、佳蘭を見る森川の目はギラギラと光っている。ちったあ隠せ、あからさま過ぎんだろ。あまりに雑過ぎる森川にどっちの味方かわからんような感想すら出てきた。
一人で捲くし立てるように喋り続ける森川。俺も佳蘭も適当に相槌打ちながら寿司やらポテトをつまむ。
それはこのパーティーが始まってから二十分ほど経った時だった。まるで糸が切れたように突然佳蘭は倒れ伏した。急いで近づき様子を覗う。すうすうと可愛い寝息。どうやら睡眠薬が効いたのだろう。あどけない顔で眠っていた。
「寝たか?」
「ああ。ぐっすりとな」
太ももに軽い痛み。俺の言葉を聞いて森川は両手をパンパン叩きながら馬鹿みたいに笑いだす。
「はははっははは。そうか眠ったか‼ 散々おれに舐めた態度とってよぉ。こっから地獄を見せてやるぜぇ」
森川はまるでタンバリン持った猿のオモチャのようだった。俺の不快指数がガンガンに上昇していく。俺の中の理性という名の糸がブチブチ切れていくのを、強く拳を握りしめることで繋ぎ止める。
「なあ。ここまでくりゃもう終わったも同然だろ? そろそろ俺だって安心してぇんだよ。この後どうするつもりなんだ? いい加減教えろよ」
その言葉に興が削がれたのか森川は冷めた目で俺を見つめる。ただそれも数秒でぶん殴りたくなるようなドヤ顔に変わった。
「そうだよなぁ。知りたいよなァ。高戸の覚悟もわかったしな。いいぜ、教えてやるよ」
立ち上がった森川は、マンションに元々備えつけてあったクローゼットの扉に手をかける。俺が掃除していた時に絶対に触らせなかった場所。勿体ぶった動きでクローゼットの折戸を開ける。そこにあったのはブラックライトに照らされた、見たことのない植物が生い茂る巨大なプランター。家庭菜園というにはあまりに異質すぎるその光景。
「これは?」
「まあこれだけじゃあわからねぇよな。麻薬だよ麻薬。その原料がこれだよ」
「お前が言ってたウマい儲け話ってこれのことか?」
「そういうこった。適当に水やるだけで勝手に育つから手間もかからねぇ。その割に売り捌きゃ結構な額になる。マジいい商売だぜ」
森川が麻薬に関わっているのは予想していたことだ。大きな驚きはない。問題はこれに鉄平がどう関わっていたのかだ。微かに頭痛がしてきた。
「そんでもってコイツがなんだかわかるか?」
ひらひらと自慢げにチャック袋を見せつけてくる。透明なそれの中身は勿論白い粉。答えなんぞわかりきってる。
「麻薬だろ。現物まで持ってたのか」
「昨日ちょいと貰ってきたんだよ。これでクソ生意気なこの女をヤク漬けにする。そうすりゃ俺らの言うことなんでも聞く様になんだろ。ふへふひひひ。ムカつく女だが見てくれだけは最高だからな。たまんねぇよなァ」
ブチブチと理性の糸が引きちぎれていく。まだだ。まだ。握りしめた拳、手の平に爪を食い込ませるようにして痛みで繋ぎ止める。
「俺だけか?」
「は?」
「麻薬のこと知ってるのは俺だけか?」
「お前だけだよ高戸。この女を嵌めるために動いてくれた、お前だからおれもこの話をしたんだ」
「もう一度聞く。本当に俺だけか?」
自分でも驚くほど平坦な声。必死に感情を押し殺しながら真正面からもう一度問い質す。頭痛がする。怒りで頭に血が流れ過ぎている。頭が痛い。
俺の静かな圧に、森川は何か思い当たる節があるのか一瞬口を噤む。すぐに誤魔化すように大袈裟な身振り付きで口を開いた。
「ああ一人。一人だけ話したわ。だが安心してくれ!」
「何でだ誰だ」
「有馬だよ有馬鉄平。高戸も噂で聞いて知ってるだろうが、死んじまってもういねぇ! 有馬の奴『一週間以内に全て破棄しろ。そうしなければ警察に通報する』なんて言うんだぜ。だーれがこんなウマい商売手放すんだよ。あり得ねえだろ。そう思ってたらよぉ。ふひはははは。有馬の奴死んじまいやがった」
よく最後まで森川の話を聞けたなと自分でも思う。聞くべきことは聞けた。もういい。限界だ。最後の糸、その一本が切れた。血が滲みそうなほど強く握りしめた拳を森川の顔面に叩き込む。
森川は「ぶげらっ!」なんて漫画みたいな叫びをあげ床に倒れ込んだ。状況が飲み込めてないのか呆然とした表情で俺を見てくる。
「な、な、な、な、な、な」
「鉄平は、有馬鉄平は俺の親友だったんだよ‼」
抑える必要は、もうない。怒りで体が熱い。全身がわなわなと震える。床に這いつくばる森川を見下ろすようにして睨みつける。俺の剣幕に森川は恐れおののき怯え、懇願するように叫んだ。
「お、おれは有馬になにもしちゃいねぇ! ただアイツの鞄に本を一冊忍ばせただけだ! おれは悪くねぇ‼」
殺す。怒りはマッハで通り過ぎシンプルな殺意。殺す。許さねぇ。頭の中に黒い炎が燃え上がる。殺す。他に何も考えられねぇ。殺す。森川がなにか喚いているが聞こえない。殺す。一歩踏み出す。
「黙りなさい」
あらゆる熱を凍てつかせる絶対零度の声。睡眠薬入りのオレンジジュースを飲んで眠っていたはずの佳蘭がゆらりと幽鬼のように立ち上がった。
「なななんで? ぐっすり眠っていたじゃねぇか⁉」
「睡眠薬かしら? そんなものわたしに効くと思っていたの?」
森川にしてみれば完全にありえない筈の光景。恐慌状態で醜く叫び散らかそうとする森川を、佳蘭の氷剣のように鋭く光る青い瞳が刺し貫いた。気圧され言葉が出なくなった奴の口が、金魚のようにパクパク動く。
重量すら感じちまうような強烈な殺気。俺の中の黒い炎が、純黒の意志に押し潰された。僅かに理性を取り戻す。以前俺が浴びたものより数段重いそれ。そんなもの直接食らおうものなら堪ったモンじゃない。藻掻くことすら出来ずに森川は泣きそうな顔で佳蘭を見上げていた。
「知っていたんでしょう? あなたが忍ばせたその本が、どういった代物なのかということを」
「んグゥ。ぉおれはわ、悪くねぇ‼ だってあり得ねぇだろ! 読んだら死ぬ本なんてよぉ‼ だからおれは悪くねぇ‼」
「そうね。あり得ないわそんな本。でもあの時あなたは僅かでも願ったはずよ。有馬さんの死を」
「ちちちち違う‼ 洒落だったんだ! 遊びだったんだ! おれは悪くないんだ‼」
不意に鼻に突く香水の匂い。まるで腐りかけの果実をドロドロになるまで煮込んだような、臭気すら感じるほどの甘い匂い。吐き気のような気持ち悪さすら覚える。
思わず瞬きをした。見間違いじゃない。なんだこれは……。佳蘭の身体から殺気に呼応するように純黒のオーラがとぐろを巻く。息を飲む。漫画じゃねぇんだ。現実にオーラが可視化するなんざあり得ない。あり得ないが俺の目には確かに映っている。
「違う。そう。違うっていうのなら、どうして彼はこんな顔をしているのかしらね」
「は?」
「見えるでしょう。凄い顔であなたを見ているわ」
森川は意味がわからないと呆けた顔を浮かべていたが、徐々にその顔は恐怖に染まっていく。顔から色が消え失せ白くなり、目と口が大きく見開かれた。佳蘭の青い瞳がより一層鋭く光る。
「ァひィあ。有馬なんでなんで有馬なんで」
「ね。あなたにも見えたでしょう? 怒っているわ悲しんでいるわ何よりあなたを恨んでいるわ」
森川の目線は佳蘭の背後の何もない空間に向けられている。俺には何も見えない。ただ燃え上がるような佳蘭の純黒のオーラだけが見えているだけ。そこに、そこにいるのか鉄平が……。
「許せ許してくれ有馬ぁ‼ ぉおれが悪かったから許してくれよぉ‼」
「許されると思っているの?」
佳蘭がゆっくり一歩ずつ噛み締めるように森川へと足を進めていく。涙に鼻水あらゆる液体まみれでとても見れたものじゃない森川の顔面。なんとか逃れようと藻掻くも、あまりの恐怖でバタバタ意味のない動きを繰り返している。
「もう逃げられない」
すっと佳蘭の細く白い指が森川を指さす。まるで判決を告げる閻魔のような絶対宣告。それは限界だった森川へのトドメとなった。ぐるりと白目を向き意識を失う。こうして全ては終わりを迎えた。
※
夜の住宅街を佳蘭と無言で歩く。まだまだ夜は長いが流石に帰宅ラッシュからは外れている。コンビニすらない二車線道路を歩いている人間は俺たちくらいのものだった。
さらりと冷たい夜風が通り過ぎ、俺の身体に残る熱を奪い去っていく。あの後、気絶した森川を放置してマンションを出た。麻薬のこともあって警察に通報するか迷ったが、確実に面倒なことになるとそのままにした。とはいえ森川が持っていた麻薬とクローゼットに隠してあったプランターを放置することは出来ない。キッチリ使い物にならないくらいにブッ潰しておいた。お陰様で少々時間食ったが、まあ仕方ない。ついでに大分冷静さを取り戻すことが出来た。
「高戸の言った通りだったわね。秘密の守り人は森川だった。わたしだけじゃ多分そこまで辿り着くことは出来なかったわ」
「オカルトサークルのあのメンツの中で誰が一番本を読みそうにないかっていや森川一択だろ? あいつが一番「月光」という本を読む心配がない。まあもっとも麻薬のことがなけりゃ俺もわからなかっただろうがな」
麻薬と秘密の守り人が同一人物という仮定。パチ屋で森川と鉢合わせてからの会話でこいつが麻薬と関わっていると予想出来た。そこから逆算して森川が秘密の守り人という可能性を考慮して出た結論。ぶっちゃけ桃生が俺に麻薬のことを話してくれなきゃ辿り着けなかっただろう。桃生にはガチ感謝だ。
「まさかトム・ボンバディルに指輪を渡すとはね」
ぼそりと呟かれた佳蘭の言葉。独り言のつもりだったのだろう。夜風に紛れ込みそうだったが俺の耳には届いていた。
「誰だよトムうんたらかんたらって」
「ああ聞こえたのね。トム・ボンバディルは指輪物語に出てくる登場人物よ。指輪物語は知ってる?」
「あー聞いたことあるような……」
車が一台通り過ぎた。ヘッドライトの光が俺たちを照らし、すぐにまた闇に包まれる。
思い出した。そういや昔鉄平が読んでいたわ指輪物語。滅茶苦茶面白いけど高戸には厳しいかなと言われ、ムカついたことを思い出した。ちなみになにくそと思って読んで、鉄平の言った通りに挫折したというオチがつく。
「本当にざっくりとしたあらすじよ。冥王サウロンが全ての力を籠めた一つの指輪。数奇な運命を辿りホビットのフロドがそれを手にしたところから始まるわ。冥王が世界を支配するために必要な一つの指輪は、同時に冥王の弱点でもある。旅の仲間とともに一つの指輪を消滅させるために滅びの山を目指すという物語ね」
「へぇ。面白そうな話だな。にしてもそんな凄い力を持った指輪なら自分たちで使えばいいって思っちまうけどな」
よく言うだろ。力そのものに善悪はないって。あくまで力を使う人間にこそ善悪があると思っている。だからこそその力を奪っちまえばいい。
「高戸らしいわねその言葉。けど作中でもそのことは言及されている。一つの指輪の恐ろしさの一つとして、所有者を徐々に侵食していくことにあるわ。一つの指輪を力ある者が使えばサウロンを滅ぼすことは出来る。けれどもどんな善人が所有者でもいずれ次の冥王へと堕ちてしまう。わたしはね、この一つの指輪を人間の欲望のメタファーであると解釈したわ」
なるほどな。佳蘭の言葉で納得がいった。どんなに良い奴でも欲望ってもんは存在する。それは生物である以上仕方ないことだ。そして一つの指輪を使うってことは欲望に飲まれたってことと同じ。自分の欲望に支配されちまった奴を、善人とはもう呼べない。
「それに一つの指輪を巡って争いにも発展しかねない。ああだからその本じゃ消滅させることを選んだんだな」
「そういうことよ。ただね、たった一人だけ一つの指輪の影響を受けない人物がいる。それがトム・ボンバディル。一つの指輪の処遇を決める会合で、トム・ボンバディルに預けるという案も勿論出たわ。ただ彼は指輪の価値を理解出来ない。トム・ボンバディルにとって冥王の力の宿る一つの指輪は道端に落ちている小石と変わらない。知らない内にどこかに失くしてしまうということでその案は却下されたわ」
ようやっと佳蘭の言葉の意味が理解出来た。森川が秘密の守り人だったこととトム・ボンバディルが俺の中で確かに繋がった。
森川の前の秘密の守り人がどんな奴だったのかはわからない。ただおそらくそいつは「月光」という本が気になって仕方なかったのだろう。人間はやってはいけないと禁止されていると破りたくなっちまう生き物だ。それは昔ヤンチャそのものだった俺がよーく理解している。読めば死ぬかもしれないとわかっていながら、読めば人が死んじまう本てどんなものなのか読んでみたくて仕方なかったに違いない。好奇心を必死に押し殺したそいつは、次の秘密の守り人として森川を選んだ。本になんか微塵も興味がなさそうで、絶対に読むことがないだろう森川に。
森川にしてみれば「月光」はガチでどうでもいい物だった。おそらく読めば人が死ぬということも信じちゃいなかったに違いない。森川が半狂乱で叫んでいた言葉を思い出す。だからこそ中途半端な殺意と遊びのような軽い気持ちで鉄平の鞄に「月光」を忍ばせた。ある意味これは佳蘭が言う通り「トム・ボンバディルに指輪を渡した」からこそ起こった事件ともいえる。
駅まではまだ結構な距離を歩かなきゃならない。とはいえ終電までにはかなりの余裕がある。この調子で進めば帰りを心配する必要はない。
ふわりと夜風が顔の横を通り過ぎ、佳蘭は流れた長い金髪をそっと手で抑えつける。柔らかな月の光と無機質な街灯に照らされた佳蘭の顔。
「どうかした?」
「いや……。そういえば最後の森川。ありゃなんだ? あの時あいつは確かに鉄平の幽霊を見ていた。そうとしか考えられないような反応だった。本当にあそこに鉄平はいたのか?」
「結論からまず言うわね。有馬鉄平さんの幽霊なんかじゃない。あれは森川だけが見た単なる幻覚よ。そうね。高戸は全てを知る権利がある。順を追って説明するわ」
「頼むぜ」
佳蘭の口から出た幻覚という言葉。森川の反応に俺は違和感があった。俺の知っている有馬鉄平という男は、誰かへの恨み辛みで化けて出てくるような、そんな男じゃなかった。おそらく佳蘭が何かしらやったんだろう。魔女としてのあれこれなんぞ俺にはまったく予想がつかない。大人しく佳蘭の言葉を待つ。
「事前に高戸から森川が仕掛けたわたしに対する罠の全貌は聞いていたわ。わたしが対策すべきことは二つ。まず睡眠薬入りのオレンジジュースね。正直これは簡単だったわ」
「簡単ねぇ。魔女って奴は睡眠薬とかそういうクスリに耐性でもあったりするのか?」
「馬鹿ね。漫画の読みすぎよ。いくらわたしが魔女だからといって、そんなもの飲んだら普通に眠るに決まっているわ。こういうことよ」
佳蘭は綺麗なウィンクかましながら服の袖口から細長いチューブを見せつけてくる。そういうことか。つまり飲んだふりしてそこに全部流し込んでいたと。
「お得意の手品かよ。すっかり騙されたぜ」
「そういうこと。わたしはあのジュースを一口だって飲んでないわ」
ふふんと軽いドヤ顔かます佳蘭に若干イラっとくる。手品ってやつは種が割れちまえばなんてことはないものが多い。こんな単純な手に騙されたのかよ。
「ついでに言うが、あの時はちょくちょく合図くれて助かったぜ。おかげで変に動揺しなくて済んだわ」
「敵を騙すにはまず味方からなんて言葉もあるけど、あの場面じゃあ高戸の不安を取り除いた方がいいと判断したんだけど正解だったみたいね」
オレンジジュースを口に入れようとする前やら、眠ったふりをしている時に森川の目を盗んで佳蘭は俺のふとももを抓ってきていた。だから俺も変に動揺することなく森川に集中することが出来たという裏がある。
「二つ目ね。森川を追い詰め白状させること。まあこれに関しては高戸がやってくれたから想定外といえば想定外ね。あの時わたしがつけていた香水覚えてる?」
「ああ。普段使ってるのとは違うものだってのには気づいてた。なんか意味があんのか?」
「あの香水のラストノート。つまり最後の香りにはね、幻覚作用があるの。といっても大したものじゃないわ。精々人によっては見間違いを起こす程度の軽いものよ」
「は? ガチ危険物じゃねーか」
「大袈裟ね。本当に大したものじゃないし無害なものよ。高戸はカクテルパーティー効果って言葉知ってる?」
「あン? 確かあれだろ。人間は聞きたい内容を無意識化で選択して聞いてるってやつだったか?」
「そうね。大体それであってるわ」
去年辺りにとった心理学の講義で教授が話していたものだ。なんでもカクテルパーティーで楽しく会話した内容を後から振り返ろうと、録音してた奴がいたらしい。後日録音してたものを再生してみたら周囲の人間の声がうるさすぎて会話が全く聞き取れない。パーティー中はあんなにハッキリと聞き取れていたにも関わらずだ。そこから人間の脳は聞き取りたい音を無意識化で取捨選択しているという説が提唱されたんだとか。あんまりにも直接的すぎるネーミングが面白くて記憶に残っていた。
「聴覚だけじゃない。視覚もそうよ。人間は見たいものだけを見ている。つまりはね。見なければならないものは、そこに存在しなくても見えてしまうってことよ」
「森川にとって鉄平は見なければならないものだったと」
「予想だにしなかった高戸の裏切り。そして目覚める筈のないわたしが起き上がったことによる動揺。場の雰囲気も合わさってあの時の森川の精神状態はぐちゃぐちゃだった。そこに幻覚作用のあるわたしの香水の匂いでそれを見る環境はつくられていた。あとはわたしの言葉による暗示で誘導する。その結果があれよ」
「なるほどな。なんとなく理解出来たわ」
あの時俺は確かに佳蘭の身体から溢れ出るオーラを見た。おそらく俺も幻覚を見たんだろう。佳蘭の放つ殺気に俺は完全に飲まれていた。だからそれが幻覚として可視化されたんだろう。
「わたしがやったのはね。一種の呪いよ。これから先、麻薬を含めた悪事を森川はすることはないわ」
「どうしてそんなことが言えるんだ?」
「森川の中で麻薬と有馬さんが関連付けされている。悪事を為そうとする度に、有馬さんの幻覚が彼を襲うわ。良心の呵責がそのまま形になったようなもの。そんな中で悪事を働こうなど不可能よ」
「なるほどな」
涙やら鼻水でぐしゃぐしゃになった森川の顔を思い出す。今回のことはあいつの中で確実にトラウマとして刻まれている。そんな極大なトラウマがフラッシュバックしようものなら堪らないだろう。犯罪行為なんぞ出来るわけがない。
「少しだけ合点がいったぜ。なんでお前が警察に通報しないことを黙認したのか。もう森川が麻薬に関わることが不可能だとわかっていたからだったんだな」
「面倒だったからってのも勿論あるけどね。高戸は板橋さんの呪いのこと覚えている? 今回のわたしの呪い。その核はなんなのか予想つく?」
「覚えているぜ。お前の依頼を手伝った時のやつだな」
俺は佳蘭の手の平で転がされることを承知で、呪いというものを体験した。あの時は板橋が持っていたブランド物のキーホルダーが呪いの核であり、それを預かったことで俺にも呪いの影響が出た。じゃあ今回の核はなんだ? 佳蘭の言葉を思い返しながら考えてみる。
「……良心の呵責。言っちまえば罪悪感てやつか?」
「正解。森川を刺激するためにわざと強い言葉を言ったけどね。実際は森川に有馬さんを殺す意志はなかったと思っているわ。せいぜい死んじゃえばいいのにくらいの、本当に軽いもの。いっそ本気で有馬さんを殺すつもりだったら覚悟が出来る以上、また話が違っていたと思う。半端であるということは隙間があるということ。そして間は魔を呼び込むわ」
森川に鉄平を殺す強い意志はなかったというのは俺も同じ意見だった。中途半端な殺意で、殺人という結果になってしまった。
俺が殺したのか? いやそんなことはない。だがしかし。森川の中でこんな思考が渦巻いていたに違いない。
どっちつかずの中途半端な状態ってやつは心に大きな負荷をかける。試験の結果待ちなんかがわかりやすい。合格しているかもしれない。いや、もしかしたら不合格かもしれない。不安で眠れなくなるやつもいる。
森川がパチ屋に入り浸っていたことにも納得がいった。元々好きだったというのもあっただろうが、ギャンブルの熱で不安を誤魔化そうとしていたんだろう。いつかの俺みたいに。
「板橋さんの時はキーホルダーを捨てることで核を取り除くことが出来た。けど森川にそれは出来ない。自分の中にある罪悪感を切り捨てることなんてできないわ。そうね、もし森川が呪いから解放される日が来たとしたら、それは彼自身が罪と向き合い清算した時ね」
それは、ある意味警察に捕まることよりも、辛いことなのかもしれない。司法で裁かれ服役する。法治国家における法とは人よりも上位のところに存在するものだ。自分よりも上位存在に罪を裁かれ、服役することで罪を償う。そうすることで自分の中の罪の意識と折り合いをつけることが出来る。
だが森川は現状司法によって赦されることはない。誰もあいつを裁いちゃくれないし、自分を許すことが出来るその日まで、森川は罪悪感という名の鉄平の幻に苦しめられることになる。まあ耐えかねて警察に自首する可能性もゼロじゃない。これから先どういう方向に進むのかはわからないが、確かなことは森川は報いを受けた。それだけは言える。
駅の灯りが遠くに見えた。家に帰るまでが遠足だなんて言葉もあるが、あそこまで行けばあとは電車に揺られるだけ。この五日間の調査のゴールといってもいいだろう。
ふと視線を感じ、並んで歩く佳蘭の顔を見る。どこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「――ごめんなさい。高戸が一番森川を裁きたかった筈なのに。けどもしあの時わたしが動かなかったら、高戸は森川を殺していた。そう思ったからこそわたしは動いたの。結果としてわたしが高戸から復讐の機会を奪ってしまったも同じことよ。ごめんなさい」
「なんだそんなことか。気にしちゃいねーよ。それに森川は報いを受けた。それで充分だ」
これは俺の本心からの言葉だった。奴は報いを受けた。罪を清算するその日まで、苦しむことになる。それで充分。
それにあんな小物どうだっていい。俺が、俺が復讐したい存在はあんな小物じゃない。俺が真にどうにかしたい存在は——。
俺はふっと大きく息を吐き出すと夜空を見上げる。ぽっかり空いたような真白の満月には、変わることのないウサギの餅つき。鉄平は、有馬鉄平という俺の親友は、最後まで俺の知っている通りの男だった。会わない間に変わってしまったところも確かにあった。それでも本質変わっちゃいない。それを再確認出来たことが、この調査での一番の収穫だった。
そう。たとえ月の裏側のクレーターがどんな形をしていようとも、俺たちが知っている月が月であることと変わらないように。だからこれでいい。佳蘭を巻き込んでの復讐の結末はこれでいい。これでいいんだ。
「ねえ。あれ、なにかしら」
唐突に佳蘭から声をかけられた。純粋な疑問といった声色。無造作に伸ばされた佳蘭の白い指の先へと視線を向ける。
三十メートルほど離れた街灯の光の下、なにか白い影のようなものが動いている。うねうねくねくね揺れるように蠢く白い影。距離のせいだろうか。いまいちあれがなんなのか判別がつかない。俺はもっとよく見えるように目を凝ら/ミエナイ。
「見るな‼」
咄嗟だった。反射だった。思考を置き去りにして身体が動いた。佳蘭の視界を塞ぐために抱きしめ、その顔を俺の胸に押し付ける。
「あ、あ、ああああああああああ」
発狂した佳蘭の叫び声。思わず間に合わなかったと舌打ちを鳴らす。抱きしめている佳蘭の身体は死後硬直でも起こしているかのように硬い。おそらく全身に変な力が入り過ぎているからだろう。
俺は、俺はあの白い影を知っている。あれがなんなのかはわからない。ただあの白い影は俺が見ることが出来なかったもの。
「月光」を読み終わった直後に見た白昼夢に似た幻。富永弥が、自らの死を選ぶきっかけとなった凄惨な光景を思い出す。月からこの星に向けて伸びる無数の白い異形の腕。おそらくこの事実は世界中で俺しか知らないことだろう。俺だけが分かる。俺しか知らない。あの白い影は、月の異形と同質の存在だということは。
あれこそが俺が、俺が本当に復讐したい真の存在。
※
俺は自動販売機でミネラルウォーターのペットボトルを買う。佳蘭の好みがわからない以上、置きにいった選択肢をとった。それを持って佳蘭が待つ近くの公園へと向かう。
ブランコ一つと砂場があるだけの誰もいない小さな公園。そこのベンチでぐったりと項垂れながら佳蘭は座っていた。
「ほら飲めよ。ちったあ違うだろ」
「……ありがとう。助かるわ」
差し出したペットボトルを受け取り、雑に蓋を空けるとゴクゴクと飲む。佳蘭らしくない動き。それだけ今の佳蘭は堪えているってことだろう。だがそれだけだ。ほんの少しだけ安心した俺は、佳蘭の隣に腰を下ろす。
あの白い影は、発狂した佳蘭が正気を取り戻した頃には既に消え去っていた。一分か五分か十分か。佳蘭が正気を取り戻すのにかかった時間はわからない。少なくともそれくらいの時間で、あの白い影は何もなかったかのように忽然と姿を消した。
いくら正気を取り戻したとはいえ、あの時の佳蘭は弱り切っていた。ラッキーなことに近くにこの公園を見つけて、佳蘭をベンチに休ませ今に至る。
「なあ——」
何か佳蘭に話しかけたくて、けれども何も出ずただ漏れただけの俺の言葉。だがそれは項垂れていた佳蘭にきちんと届いていた。
「あれは一般に、くねくねと呼ばれているものだと、思うわ。初日に竹中さんの動画で見た、でしょう」
「くねくね……」
そういえばそんな動画を見せられた気がする。この調査期間は色々ありすぎたせいで初日のことなんざ遠い過去のように感じるが、実際はたった五日前の話だ。段々と思い出してきた。
最近大学の付近でくねくねとかっていう怪異が目撃されていると竹中が言っていた。その話をした時は、なんかバジリスクの矛盾とかでくねくねという怪異は存在しない。誰かが流した創作だろうという結論だったはずだ。
「高戸は、高戸の目にはあれはどう映ったの?」
「白い影だ。くねくね動く白い影」
竹中の動画でのくねくねには生理的嫌悪感が出るような、そんなグロテスクさすら感じる蠢き方をしていた。だが俺たちが見た本物は違った。ただわからないのだ。ガチでわからない。その動きをうねうねくねくねと表現したが、そうとしか言えない。俺たちが全く知らない不可思議な動き。
「そうね。それが正しい。事実わたしもそう見えた。けどわたしの持つ魔女の瞳は違ったわ。あれは、あれは人間よ」
「は? あれが人間?」
震える声で絞り出すように発せられた佳蘭の言葉。思わず聞き返してしまった。どっからどう見てもあれは人間には見えなかった。いっそ宇宙人と言われた方が納得するレベル。
「あり得るのか? 人間があんな妙なものに変わっちまうなんてことが」
「ありえるわけないでしょうが‼」
金切声に近い悲痛な叫びだった。まさか佳蘭がそんな声を出すなんて思ってもみなかった俺は驚き、まじまじとその顔を見つめてしまう。脂汗が滲み、恐怖に恐れおののいている佳蘭の表情。そのまま捲くし立てるように続けた。
「ありえない。ありえるわけがないじゃない‼ あらゆる法則が崩壊する異界の話じゃないのよ⁉ あれは確かに現実だった‼ いえ異界でも相当な濃度じゃなければそんなこと起こりえない‼ 知らない。知らないわそんな濃度の異界なんて。異界ですらありえない。ましてそれが現実で起こった話だなんて……」
ベンチから立ち上がり凄まじい剣幕で捲くし立てていた佳蘭は、萎む様に語気が弱くなり弱々しく座りこんだ。
「ごめんなさい。いきなり大声で。ほんとうにごめんなさい」
「気にしちゃいねぇよ」
まるで泣き出しそうな佳蘭に、俺は強く言うことは出来なかった。俺には佳蘭の言葉が理解出来ない。久留主佳蘭という女は魔女で、俺はせいぜい不良大学生。佳蘭が半狂乱になるほどの異常さを、俺は理解することが出来ない。呪いの時と同じだ。言葉はわかっても、その理解に実感が伴わない。
ただ佳蘭ほどの女が、こうも取り乱すことの異常さだということは、かろうじて実感できる。
「これは価値観の問題よ。高戸にとって死とはなに?」
「は?」
小さな、囁くような佳蘭の疑問。意味が分からなくて思わず聞き返した。
「医学的には呼吸や血液の循環が止まり、脳の機能が完全停止し、蘇生不可能な状態のことを指すわ。文化的な話で言えば、完全に忘れ去られた時に人は死を迎えると言った人もいたわ。人にとって死の定義は様々よ」
よくドラマなんかでいう俺の心の中で生き続けているというやつだ。わかっている。俺への問い掛けではあるが、俺の答えなんざ求めちゃいない。ただ黙って佳蘭の言葉を待つ。
「死後というのはあらゆる宗教で定義されているわ。けれども大別して二つ。天国や地獄、極楽浄土など死後魂は別の世界に行くというパターンと、生まれ変わりの輪廻転生よ」
じっと俺を見つめる佳蘭の青い瞳。宝石のような輝きは失われ、今は弱々しい光を放っていた。
「ああなってしまったら魂はどこにもいけない。わたしたちに平等にあるはずの死という結末すらも奪われる。それは、とてもおそろしいことだわ」
「外れてしまう」
「え?」
「自分自身であることかも外れてしまう。生命であることからも外れてしまう。そして輪廻の環からも外れ、私たちは獄宙に囚われる」
「そう。わたしたちの魂は獄中に囚われる。永遠に逃れることの出来ない白の牢獄に。——待ちなさい!」
佳蘭は立ち上がり怯えた顔で俺の顔を見つめてくる。その身体は恐怖と驚愕で小刻みに震えていた。
「……どうして高戸がそんなこと知っているの?」
佳蘭からの問いに、俺は無言で視線を外すことで応えた。それだけで、それだけで佳蘭には俺の言いたいことが伝わったのだろう。糸の切れたマリオネットのように力なくベンチに崩れ落ちた。
「まさか「月光」って……」
項垂れ頭を抱える佳蘭の姿には後悔が垣間見えた。禁忌に触れ、知らなければ良かったと絶望するかのような深い後悔。
「わたしは、わたしたちはとんでもないものに関わってしまったのかもしれない」
俺が「月光」を読んだ後に見た白昼夢にも似たあの幻。その内容を佳蘭に話さなかったことには意味がある。怖かったのだ。あの、富永弥の最後を佳蘭に伝えた時に、もしだ。もし佳蘭もあの光景を見るようなことがあったら、見えてしまう。確信があった。俺が見ることが出来なかったからこそ死を回避出来たあの白い異形を、魔女の瞳を持つ佳蘭には見えてしまう。そして富永弥と同じように結論へと辿り着き、自ら命を絶ってしまう。だから話せなかった。話すことが出来なかった。
俺はおろか魔女である久留主佳蘭すらも越えた超常の存在。それは確かに現実で、俺たちのすぐ傍まで迫ってきていた。
わからない。これからどうすればいいのかわからない。なにか、なにかあるのだろうか。わからないだらけの中で、たった一つだけ確実にわかることがある。
俺はまた、「月光」と向き合わなければならない。それだけは確かだった。