呪いと魔女
右手には茶色のハードカバー。それを本棚に仕舞おうとして手を止めた。カチカチと秒針の刻む音がいやに耳に残る。溜まっていたものを出すように大きく息を吐き出した。そのまま本棚から何冊か取り出し、その裏にそっと置く。隠すように読まれないように。
親友の形見である『月光』という本を、手放すという選択肢は、俺にはなかった。
いつもと変わらない昼休み。田畑と加藤の三人で優雅にテーブル席を囲み、昼飯を食う。別に大して旨くもない普通の醤油味のラーメン。だが無性にこの安っぽい味が恋しくなるのだ。
時刻は正午を僅かに過ぎたくらい。学食には続々と人が集まってくる。これから始まる熾烈な席取り合戦と、券売機に出来るであろう長蛇の列を思うと優越感で飯が旨い。
なぜ俺たちが他の連中より一足先に飯を食えているか。答えはシンプルで講義を一足先に抜け出したってだけ。
「お前らさあ。パワポどこまで進んだ?」
「おれ全然」
「あン? あんなの適当に作りゃいいだろ」
田畑の言葉に加藤は興味なさそうに、俺もラーメンを啜りながら適当に返す。田畑が言っているのは、さっきまで俺たちが受けていたデジタルプレゼンテーションという謎講義の課題の話だ。なんでも前期の最後の講義で、自分の好きなものをパワポを使って紹介させるらしい。
課題といっても名ばかりで、ここ最近の講義内容はパワポ作成という名前の自習時間だ。要はこの時間に課題を片付けろってこと。ぶっちゃけこれを聞いた時思ったのは、この教授中々やるなだった。
こんな大学に来てる大半の奴が、真面目に自宅学習なんぞするわけがない。そうなると単位取れる奴が極端に減る。それはそれで大学としては問題なわけで。こうして講義として課題を組み込んじまえばそれはクリアできるし、教授としては楽が出来る。まあうまいことやっている。ホントくだらねぇ。
「適当にって。それがイッチャン面倒なやつじゃん」
「田畑はマシマシ。おれなんてテーマすら決まってねぇ」
加藤の言葉を無視するように、田畑は「うがー」とオーバーリアクション気味に頭を抱えた。俺も田畑も加藤の要領の良さは知っている。どうせそれなりに仕上げてくんだろという信頼感からのスルー。
とはいえ現状は加藤の進捗はゼロ。唯一順調な俺に向けて田畑は恨みと縋りつくような眼差しを向けてくる。
「つってもな。マジで適当でいいぞ。パワポなんて」
そうパワーポイントなんて重要じゃない。今回の課題で一番の肝となるのは、何を喋るのかという原稿の部分。つまり自分の好きなものを紹介して、いかに相手に興味を持たせられるプレゼンを行えるかどうかだ。
何回か前の講義の中で教授が配った資料がある。なんでも公庫融資を勝ち取ったプレゼンのパワーポイントを印刷したものだとか。結構な倍率を勝ち抜いた凄いプレゼンとの触れ込みだったから、どんなものかと見てみて落胆した。なんてことはない普通のパワポで別に特別な所なんてない。
まあこんなものかと思った所で気が付いた。パワポは本命のプレゼンをサポートするためのものでしかなくて、何をどう伝えるかが大事ということに。それを田畑に伝えようとして、やっぱりやめた。
「……。いや。適当に作ってそれなりに発表出来りゃ単位くれるだろ」
「それもそうか」
悲嘆に暮れ絶望顔を晒していた田畑は、スンッといつもの感じに戻った。こいつも俺の言葉で気が付いたんだろう。ぶっちゃけ単位取ることだけを考えるなら、それっぽい感じに仕上がってればいい。俺の言葉通り適当で充分。変に気負うことなんてマジでない。
「で、この後どうするよ?」
「スロのノリ打ち? それとも三麻にするか? 久しぶりに麻雀打ちたい気分なんだが」
「いんじゃね? ウチ来いよ。またボコしてやるぜ」
そういえば最近麻雀やってなかったな。たまにはこの二人をボコして小遣い稼ぐのも悪くない。思わず心の中で舌なめずりが出る。
とはいえ麻雀は麻雀でも三人でやる三麻だ。通常の四人麻雀なら、仮に田畑と加藤の二人が組んでも勝てる自信があるが、三麻じゃそうはいかない。
三麻は字牌含めた四種類の牌の内、一種類を取り除く。役満で使うものだけを残して。その性質上点数が跳ね上がりやすく、大味になりやすい。つまり運の要素が強くなって、実力による差が出にくいのだ。普通に俺がカモにされる可能性だって出てくる。まあ所詮ダチ同士のお遊びだ。勝ちすぎりゃ関係値壊すし、何より勝つと分かり切った勝負なんぞやってもツマラない。
加藤と田畑の「フザけんじゃねぇ! ぜってぇトバす‼」という怒りの言葉。ダチ同士の軽い煽り合いだ。適度な煽りは勝負事を面白くする。二人もそうだが、俺の口元にも軽く笑みがこぼれてた。
「混んでるし、そろそろ行こうぜ」
「そうだな。席空けてやらんと」
「まあ迷惑だからな。それにしても高戸の家に麻雀牌あんのマージ助かる。雀荘行くのかったりぃし」
苦虫を噛み締めたような田畑の顔。大学入りたての頃の田畑が、調子乗って行った雀荘で無事トラウマ刻まれたのは笑い話として何度も聞かされた。一瞬出かけた「お前が雀荘行きたくねぇの、かったるいからじゃねーだろ」は、そのまま口に出さないでおく。これ以上の煽りはただただ面倒なだけだ。さっさと帰って二人と麻雀したい。
「ひさしぶりね、高戸。元気にしてたかしら」
不意に背後からかけられた声に思わず身体が固まる。だがそれは一瞬のことで、すぐになんでもないよう平坦な声色で応えた。
「久しぶりだな久留主佳蘭。また大嶋目当てにこんなチンケな大学来てるのかよ」
「違うわ。今回はあなたに用があるのよ高戸」
どこか非難するようなじっとりとした佳蘭の眼差し。そいつを真正面から受け止めるようにして佳蘭と対峙する。
「……元気そうね、安心したわ。それにしても単位は大丈夫? 貴方に会うために何度か顔を出してたんだけど、今日ようやっと会えたわ」
「うるせぇ。俺がンなヘマするかよ」
「そうね、あなたはその辺りうまくやりそうだものね」
呆れたと言わんがばかりに首を振る佳蘭。すぐ近くからどことなくヘンテコな空気を感じ、その発生源へと視線を向ける。大きく目を見開き、ポカンと口を開けた間抜け面の加藤と田畑がそこにいた。
なんてツラ晒してんだよと心の中で軽く突っ込みを入れた後、まあそれもそうかと納得する。この女と俺に接点があるなんて、天地がひっくり返っても想像出来なかったに違いない。
腰まで届く艶やかな金髪は、傍目から見てもよく手入れされており、さらりと流れる砂金の河のよう。すっきりとスレンダーな体型は海外モデルもかくやといったところか。けれども一番に目を惹くのは、宝石のようなその青い瞳だった。威圧感にも似た神聖さを感じるディープブルー。並みの男じゃ気後れしちまって手が出せないような高嶺の花、久留主佳蘭と俺を引き合わせたのは『月光』という一冊の本だった。
自殺した俺の親友有馬鉄平の形見であるそれは、怪異へと堕ちたものだった。『月光』を読まなければならない。いや、読まされる。そしてそのまま『月光』を読み切ってしまうと自殺してしまう。俺の親友と同じように……。
俺と佳蘭はその怪異に巻き込まれ、けれども佳蘭という女は魔女だった。見えないものを見ることが出来る魔女の瞳。そうして魔女であるが故のオカルト知識。その二つを駆使して、『月光』という怪異を二人で協力して攻略した。あれは終わった話で、もう俺と佳蘭を繋ぐ縁は切れたはずだ。
「高戸はこの後時間ある? 話したいことがあるんだけど」
ちらりと二人へと視線を向けると、間抜け面を晒したまま「行け行け」と手を振ってきた。ぶっちゃけ田畑と加藤のむさっ苦しい野郎三人で雀卓囲むより、佳蘭の方を優先したいから有難いっちゃ有難い。
「別に。予定空いてるぜ。どこか場所移動するか?」
「そうね。馴染みの喫茶店があるから、そこへ行かない?」
「いいぜ。構わねえよ」
「よかった。それじゃあ行きましょう」
佳蘭はくるりと踵を返して颯爽と歩き出す。それに置いて行かれないよう俺も進み始めた。
*
ゆったりとした静かな喫茶店。掃除の行き届いた店内は、どことなく薄汚れた雰囲気を醸し出している。こういうのを昭和レトロというのだろう。ボックス席に備え付けられた簡素なシャンデリアは橙色で、それがこの独特の空気を創り出しているのだろう。
「で、話したいことってなんだよ」
注文したブラックコーヒーを啜りながら、正面に座る佳蘭をまっすぐに見つめる。鋭く光る青い瞳。俺という存在を貫くような、そんな眼圧を跳ね返すように目を細める。なんとなく佳蘭が話したいことはわかっていた。
「単刀直入に言うわ。わたしに『月光』を譲ってくれないかしら」
「それはできない」
佳蘭の言葉は予想通りで、だからこそ俺の言葉は決まっていた。佳蘭の青い瞳がより一層輝きを増す。
「どうして?」
「……」
答えることが、出来なかった。あの本に書かれてあった内容を知ったことで、『月光』による怪異は終わった。怪異に取り込まれていた時は手が出せなかったが今は違う。手放そうと思えば手放すことが出来る。出来るがそれは出来なかった。
「わかっているでしょ。あれは相当危険なものよ」
「直に体験してんだ。わかってる。その上であれを手放すことは出来ねぇんだよ」
「それは、あなたの親友の形見の品だから?」
勿論それもある。たった一つの鉄平の形見の品。それを手放すのは確かに気が引ける。だがそれだけじゃない。
「ちなみに聞きたいんだが、仮に譲り渡したとして、お前は『月光』をどうするんだ?」
「処分するわ。『月光』は本当に危険すぎる。あれはあってはならないものよ」
「だったら猶更渡せないな」
佳蘭の言う通りあの本はヤバい代物だ。処分出来るのなら、処分しちまった方が後腐れないだろう。けれどもそれは出来ない。絶対に、だ。
ぞわりと全身の毛穴がブチ開き、体中の熱を根こそぎ奪われたような寒気。これは、殺気だ。お前を殺すと、日常生活ではぶつけられることのない純粋な意思の圧力。佳蘭の青い瞳が、魔女の瞳が訴えかけてくる。『月光』をわたしに渡せと。
なんであの『月光』を守ろうとしているのか具体的な言葉に出来ない。おそらくグチャグチャした幾つもの思考が絡み合っているからだろう。それでも、それでもだ。鋭く光る刃のような視線を、もう一度はっきり見つめ返す。あらん限りの意思と、吹けば飛ぶような安っぽいプライドを込めて。
「……はあ。わかった。今は折れるわ、今はね」
溜息とともに強烈な殺気は霧散する。思わずほっと安堵の吐息が漏れそうになって、誤魔化すようコーヒーカップに口を付けた。
「代わりに一つ条件がある。あなたに拒否権はないわ」
「へぇ。なんだよその条件て」
こいつのことだから、変な条件なんて出さないだろう。口の中に残るコーヒーの苦味と酸味のお陰で、俺の中に余裕というものが出てきた。目を細め、佳蘭の次の言葉を待つ。
「この後まだ時間あるんでしょう? わたしの仕事を手伝いなさい」
「確かに時間はあるっちゃあるが…」
元々あいつらと麻雀やる予定だったんだ。時間に関しちゃ余裕がある。余裕があるが、ぶっちゃけ問題はそこじゃない。佳蘭のいう仕事が一体なんなのか、だ。
この雰囲気だ。おそらく佳蘭が魔女であることに関係するのだろう。とはいえ魔女の仕事なんぞマジでイメージがつかない。なんかデカい鍋で怪しいスープでも混ぜればいいんだろうか。
「しばらくしたらここに一人来るわ。わたしが対応するからあなたはただその場にいるだけでいい。簡単な内容でしょう?」
「それだけでいいのか?」
「いいわ。今日の所はそれだけで。わかっていると思うけど、この後の仕事は魔女としてのもの。ただの一般人である高戸に出来ることがないのは知っているわ。大人しくその場にいるだけでいい」
その言葉に安心して、背もたれに仰け反るように深く沈み込み、頭の後ろで手を組む。確かに俺はコイツと違って怪しい目なんぞ持ってない。オカルト知識なんぞネットで聞きかじったか、ガキの頃読んだ怪談集くらいのもん。全くもって役に立つとは思えねぇ。だからただその場にいればいいってのは正直助かる。
すっと伸ばされた佳蘭の右手が彼女の分のカップを掴み、ぐいっと煽るように紅茶を飲み干す。そのままカウンター席の向こうのマスターへと顔を向けた。
「里中さん。またいつもの場所借りるわね」
「どうぞ。好きに使ってください」
大分年食ったマスターがこっちを見てにこりと笑い頷く。思わず「なんだこのジジイ」と訝し気な視線を向けるとどこ吹く風で、惰性でつけてるだけのテレビを見始めた。
「高戸。こっちよ」
佳蘭はすっと立ち上がり、店内の隅にひっそり備え付けられてるカラオケルームに歩いて行った。一瞬反応が遅れて、慌てて自分の分のコーヒーを飲み干して立ち上がる。そのままカラオケルームのノブを回した。
そこは昭和感溢れる小さな防音室。最早絶滅危惧種といっても過言じゃない、分厚いブラウン管モニターと古ぼけたミラーボール。おそらくバブルの頃に作られ、そのまま残された場所だろう。ずっと昔のことのように感じるが、実はそこまでの過去じゃない。店に入った時にも感じて、隔絶されているせいかこの部屋の中がずっと強い。乾いていて、かつての発展と、それが終わりを迎えた侘しさを感じるような、そんな匂い。
佳蘭はというとラバー製の椅子に座り、ガラステーブルの上に何かを広げていた。なんだと思って、入口側の椅子に座ろうとして待ったをかけられた。
「高戸。あなたはこっちよ」
そう言って佳蘭は自分の隣をポンポンと叩いた。別に座る場所なんぞに特にこだわりなんぞない俺としてはどうでもいい。大人しく佳蘭に言われたように、入口と反対側の彼女の隣に座り込んだ。
「で、お前は一体なにしてるんだ?」
「少しお香を焚こうと思って」
小さな手提げポーチから出るわ出るわの小物たち。片手で収まるくらいの小さな皿に、外国製だろう小洒落たマッチの箱。賞状を入れる筒を滅茶苦茶小さくしたような物を何個も取り出した。
「お香って。ここでそんなもの使っていいのかよ」
「大丈夫。里中さんはわたしのお婆様からの付き合いがある人よ」
「あー…。なーる」
さっきの佳蘭とマスターのやり取り。二人のやり取りが妙に慣れ慣れしいと思っていたが、なるほど昔からの知り合いだったのか。しかも佳蘭のバァサン絡みの交友関係ってことは、オカルト絡みに理解があるってことだ。
ガラステーブルに五つばかり並べられた小筒。その内一つを佳蘭は手に取り、きゅぽんと蓋を取った。そのまま中に入ってる線香を嗅ぐと、これじゃないというように首を傾げる。そのまま幾つか同じように匂いを嗅ぐもどれもしっくりこないようだ。折角並べた小筒をポーチに仕舞うと、小さな名刺入れみたいなケースから一枚の紙片を取り出した。
「今日はこれで充分そうね」
俺が「なにが?」と疑問の声を発するより先に、佳蘭はマッチ棒を取り出し紙片に火を付けた。ふわりと空気が変わる。どこか澄んだような、元々あった埃っぽいあのレトロな感じが上書きされていく。
おそらく今灰皿の上で燃えてる紙片が、この香りの原因だろう。佳蘭の奴がお香と言ってる以上そうなんだろう。とはいえこんなお香があるのだろうか。
「ああこれ? ペーパーインセンスっていうものよ。持ち運びも楽だしお手軽にお香を楽しめるからおすすめよ」
「へー」
お香なんぞに興味がない以上生返事しか出ない。とはいえ興味がないと思いつつも気になるものは気になる。灰皿の上でチロチロと踊るように燃える紙片を、灰になるまで見つめていた。
「これで下準備は大丈夫ね。あとは依頼人を待つだけよ」
「たったこれだけなのか?」
「充分ね。話を聞く限り今回の依頼は小物よ。これくらいで問題ないわ」
「そうか」
コイツが小物と言ってる以上そうなんだろう。というよりあまりに情報がなさ過ぎて、考えるのも無駄というのが正直な所。思わず大きく息を吸い込んだ。
すぅーっと肺の中に満たされるお香の香り。例えるなら夏の日の早朝の、瑞々しくて澄んだ空気とでも言おうか。どこか落ち着くような、それでいて背筋が軽く伸びるような、そんな感覚。
しばらくこの小さなカラオケルームの空気を楽しんでいると、ガチャリとノブが回され一人の男が入ってきた。身長は普通。高くも無ければ低くもない。体格も普通。特に鍛えているわけじゃないが、昔スポーツでもやっていたのだろう。適度なガタイの良さ。昔バカやってた頃の名残か、目の前の男の喧嘩力を無意識に測ってしまう。
別に誰彼構わずこんなバトル漫画のキャラみたいな視点で、相手を見たりなんかしない。一目見た瞬間の空気雰囲気オーラでわかった。コイツは俺と同類。つまりはクズだ。
「なに見てんだよ」
そんな俺の視線に気が付いたのか、男はうっとおしげに睨んでくる。思わず俺の方も喧嘩腰に「なんでもねーよ」と言おうとして、それより先に佳蘭が口を開いた。
「初めまして貴方が依頼人の板橋宏司さんですね。お待ちしておりました」
「あ、ああ。アンタが魔女、でいいんだよな?」
「ええ。わたしが魔女久留主佳蘭。助手が失礼しました。どうぞお掛けになってください」
きょろきょろと視線を彷徨わせながら、おずおずと板橋という男は俺たちの、佳蘭の対面に座る。テーブルの下、板橋に気づかれないよう佳蘭が俺の太ももを軽く抓(つね)ってきた。悪い悪いと思いつつも、そんなことは表に出すことなくしれっと座り直す。
もう一度板橋という男を見つめる。今回はさっきのガン飛ばすような感じと違って普通に。髭の感じから三十手前か、少し上くらい。別にこれといって特徴があるわけじゃない普通のアラサー。ただその顔は不安そうに曇り、その目は怯えているのか小刻みに揺れていた。
「ご依頼いただいた際、おおよその話はお聞きしました。けれどももう一度、板橋さんの口から直接聞きたいのです」
ごくりと、テーブルを挟んで向かいに座っているのに、板橋の喉から固唾を飲む音が聞こえた気がした。目玉がぎょろぎょろ動き、明らかな挙動不審。流石の俺でもこれはと思い、心の中で襟を正す。板橋はようやく重い口を開いた。
「気が付くと視界の端に、女の影が見えるんだよ! ここ最近数か月前からずっと。長い髪の女だ。仕事中でもプライベートでも所構わず現れやがる! しかもよく見ようとすると、いつのまにか消えてンだよ。どうしたらいいんだよクソ! あの女が見えるようになってから嫌なことばかり続くし、最近じゃあ最近じゃ夢にまで……」
「右腕。もっと言えば肘の付け根辺り、ですね」
佳蘭の言葉に板橋はハッと目を見開き左手で抑えた。さっきまで大声で捲くし立ててたくせに、打って変わって怯えた顔つきで佳蘭を見つめていた。
「なんで……?」
「それがわかるからわたしは魔女なのです」
すっと捲られた板橋の右腕。その肘の辺りに赤黒い痣が五つ。まるで誰かに強い力で握りしめられたような跡がくっきりと残っていた。
コンコンというノック音。佳蘭の「どうぞ」という言葉で入ってきたのはマスターだった。何しに来たんだと思うも、その手にある注文票を見て、ああと納得した。
「ご注文は?」
「そうですね。わたしとこの方は青を。そして——」
そこで言葉を切り、佳蘭はちらりとその青い瞳を俺に向ける。思わずなんだ?と疑問の声を上げようとして、それよりも佳蘭の方が早かった。
「彼には黒を」
「……。いいんですか?」
「いいわ。大丈夫」
マスターは怪訝な表情で俺と佳蘭を交互に見つめ、納得したように頷くと退出していった。マジで意味がわからない。佳蘭の奴が勝手に注文取ってることも意味がわからないし、なんで俺だけ違うのかもわからねぇ。ついでにマスターが変な目で俺を見てきたのもわからん。
「ちなみに板橋さんはお寺でお祓いを受けたりとかは?」
「行ったさ! 行ったけどムダだった!」
ドン! とガラステーブルを叩く板橋の目は怒りで血走っていた。いや、動揺や不安といったマイナスの感情を無理矢理怒りで誤魔化そうとしているようだった。
段々と佳蘭の仕事の内容が分かってきた。ようはこの板橋って男に起こっているオカルト現象を解決すればいいってことだ。佳蘭がいうには小物らしい。コイツがどういう風に解決するのか、見ていればいいってことだろうか。横目で佳蘭の白く整った顔を見れば、まるで鉄仮面でも被っているように冷静だった。
「ありがとうございます。板橋さんの現状はわかりました。これならわたしの力でなんとかなります」
「マジか⁉ いやマジでマジか」
「ただし条件が一つあります」
板橋は興奮し目を輝かせて身を乗り出し、けれども佳蘭の言葉に眉をひそめた。トスリと浮かせていた腰を下ろし、明らかに不機嫌な表情で続ける。
「ナンだよ。あんだけ高ぇ金要求しときながらまだナンかあるのかよ」
「ポケットの中」
「は?」
「ポケットの中の物を出してください」
訝しむような目つきのまま板橋はごそごそとポケットの中の物をテーブルの上に広げていく。趣味の悪いブランド物の財布にスマホ。それとジャラリと幾つかのキーホルダーの付いた車の鍵。
「それ。そのキーホルダーをわたしにくれないかしら」
佳蘭のほっそりとした白い指がその内の一つを指さす。ブランドのロゴが象られた金属製の小さなそれ。革製品で有名なブランドで、こんなキーホルダーなんて売ってるとは知らなかった。
「わたしそのブランド好きなんです。良ければ譲ってくれませんか?」
「ま、まあ別にいいけどよ。どうせ貰いモンだし」
板橋は不服そうに唇を尖らせながらも、鍵から取り外そうとガチャガチャ弄り始めた。
流石に言葉にも態度にも出しはしない。佳蘭のあの言葉は嘘だ。そもそもが佳蘭の奴が条件を出した時には、ポケットの中身を出せだけだった。あのキーホルダーがブランド物だってことはわかっていなかったはず。
ドアがノックされ、マスターが入って来た。右手のお盆には三つのティーカップが乗せられている。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
マスターはどこか品のある動作でティーカップを置いていく。佳蘭の注文は青とか黒とか色のみだったが、どうやらそれはお茶の類いのようだ。二人のカップの中身は爽やかな青色で、俺の分だけ濃い緑色。
「冷めないうちにどうぞ飲んでください」
佳蘭のその言葉で、板橋はゆっくりとカップを口元に運び一口飲む。催促するような佳蘭の視線。わかってる。俺も飲めゃいいんだろ飲めゃ。
カップを持つと香るお茶の匂い。ハーブティーの一種なのだろう。軽くツンとくる香辛料の感じ。一口飲んでみる。少し舌先が痺れるような苦味。ちょいとばかしスパイシーだがこういうのも悪くない。
「いや、ウマいな。初めて飲んだが、なんつーかまろやかで、飲んでると落ち着くっつーか」
「板橋さんの口に合ったようでなによりです」
柔らかく微笑みながら、佳蘭は優雅にティーカップに口を付ける。その気品ある仕草と日本人離れした容姿のお陰か異様にサマになっていた。
飲んでるハーブティーの影響なのだろう。板橋の表情が柔らかくなり大分落ち着いたようだ。視線を落とし、まだ半分近く残っている俺の分のハーブティーを見る。ちょいと刺激的なタイプで、香辛料のせいか少し身体の内側が熱い。リラックス効果がある板橋たちのとは真逆のイメージ。
佳蘭の青い瞳が鋭く光り、「さて」と前置きを一つ置くと貫くような視線を送る。ボケッと佳蘭に見惚れていた板橋は、その視線を受け慌てたように姿勢を正した。
「そろそろ始めましょうか」
「お、おう。といってもオレはなにしたらいいんだ?」
「そこで座っているだけでいいですよ」
板橋は少し居心地悪そうに視線を彷徨わせる。それに対して佳蘭は真剣な表情。空気が張り詰める。どこか重苦しくて、けれども神聖さすら感じる雰囲気。一体なにが始まるというのか。
佳蘭が口を開く。
「Rejoice evermore.Pray without ceasing.In every thing give thanks:」
パキン。世界が、割れた音。世界が割れるとかマジ意味がわからないが、そうとしか思えない。俺の、気のせいだろうか。いや確かにガラスが砕けるような、音がした
「お、おお! なんか身体が軽くなった気がするぞ」
「効果が出ていますね。もう大丈夫。板橋さんを悩ませている女が現れることはありません」
「ありがとう! マジ本当! ありがとうございます」
板橋は感激のあまり身を乗り出し、握手でも求めるように佳蘭に向かって両手を伸ばす。それを無視するように佳蘭の奴は張り付けたような笑顔で微笑むだけだ。
その後佳蘭と板橋は適当に二つ三つ言葉を交わす。もう問題は解決していて、会話内容としちゃどうでもいいもんだ。入って来た時の不安と恐怖で挙動不審気味だった板橋はもういない。浮かれ気分で部屋から出て行った。
「お疲れさん」
「ありがとう。高戸もお疲れ様」
「まあなんもやってねぇがな」
本当にただ座っていただけで疲れたもクソもない。強いて上げるなら変な気疲れくらいで、それも大したものじゃない。ぶっちゃければ疲れたよりもわけわからねぇの方が強いくらいだ。とはいえ。
「これで仕事とやらは終わり、でいいんだよな?」
「そうね。前半としてはこれで終わりでいいわよ」
前半と言うからには後半があるんだろう。まあこれはなんとなく思っていた。佳蘭の言葉は仕事を手伝えだった。もし本当に板橋とのやりとりを聞いているだけで済むのだったら手伝えなんて言うわけがない。絶対なにかある。
「高戸にとっては今からが本番ね。というわけで、はいこれ」
すっと渡してきた物を無意識に受け取る。なんだと思って見てみれば、それは板橋から譲り受けたブランド物のキーホルダーだった。
「しばらく高戸に預けるわ。よろしくね」
おいおいこんな物いらねーよ。ブランドの名前だけを有難がる下品な連中が好みそうなモン俺の趣味じゃない。突っ返そうとして、佳蘭の真剣な瞳を見て押し黙る。はぁと溜息を吐くと、仕方なくポケットに渡されたキーホルダーを押し込んだ。
*
少しの思考の後ツモってきた牌を手牌に入れ、不要な牌を河へと捨てる。今の俺の順位はケツ。まだ巡目に余裕はある。逆転目指してどっしりと打っていく。
金曜の夜。リーマンが言う華金は、学生にも当てはまる。なんだかんだで先日流れてしまった田畑と加藤との三麻は今日こうして行われていた。
「おいおい高戸ぉ。今日は随分と調子悪いじゃねーか」
「ケッ。勝負は最後までわからねぇぜ。田畑こそ親カブリで泣いたって知らんぜ」
煽りを煽りで返しながら粘り強く打っていく。まだ伸びる。一旦手を崩すことになるが更なる高みを目指して手牌を育てていく。
「そういえば久留主佳蘭とはどうやって知り合ったんだよ?」
特に気にしてない風に、けれども加藤の目は明らかに興味マシマシだった。まあ年中彼女募集中の加藤のことだ。気になって仕方ないのだろう。
一応真剣な場だが、結局どこまでいってもダチ同士の遊びでしかない。駄弁りながらのお気楽麻雀。佳蘭のことを聞かれるのはわかっていた。勿論答えは用意してある。まあ最後の半荘、それもオーラスの場面とは思ってなかったが。
「別に。大したきっかけなんてねーよ。大学内で迷ってたアイツをちょっと案内しただけ。そん時に気に入られたんじゃね?」
「いや、久留主佳蘭に気に入られるとか何やらかしたんだよ……」
「マジ。よっぽどだぞお前」
田畑と加藤の呆れまじりの言葉。まあ二人の言いたいこともわかる。俺も「月光」関連がなければ、関わることなんてなかっただろう。僅かに視線をずらし、月光を隠した本棚をちらりと見る。二人には、真実を話せなかった。
「ぶっちゃけさあ。久留主佳蘭てオンナとしてどうよ? ちなみにおれはナシ」
「お。珍し。加藤クンがあんな美人をナシだなんて。まあオレもナシだけどよ」
「うるせえ。いくら見てくれが良くたってあれは流石にねえよ。いくらおれでも顔だけで女選ぶほどバカじゃねーよ」
パチリパチリと巡目が進んで行く。俺らみたいな奴らが三人集まりゃ、話題なんてギャンブルかオンナ絡みは絶対出てくる。大人しく二人の話を聞きながら黙々と打ち続ける。
「例えるならあれよ。ハリウッドのセレブ女優。確かに美人だけど、街で歩いてたとしてナンパするか? おれには無理だね」
「まあわからんでもないわ。住む世界が違うっつーか。仮に久留主佳蘭と付き合ったとして、デートとかどこ行くよ? テーマパーク?映画館?ムリムリ」
おいおい佳蘭の奴、散々な言われようだな。思わず苦笑いが出るも、二人の言葉もわからんでもない。久留主佳蘭という女は一種独特な空気を身に纏っていて、それが有象無象の輩を遠ざける。
「で、その久留主佳蘭に気に入られちゃった高戸和也クンはどうなん?」
「あン? どうって、お前らが言ってる通りだよ。ただ……」
「ただ?」
「ただそれでも付き合おうってんなら、そいつはガチって事だろうよ。んでもってそんなガチの恋愛なんざ面倒臭くって俺はゴメンだね」
気持ち強めの打牌。ようやく形になってきた手牌のせいもあるだろう。思わず感情が乗って焦る。ギャンブルの基本はポーカーフェイスだ。虎の子の逆転手がこんなくだらない事で悟られたらたまったもんじゃない。
そんな俺の焦りは、どうやら杞憂に終わりそうだ。呆れたように首を振る田畑と悔しそうに唸る加藤。らしくないミスをしたが軽傷で済みそうだ。
「気を付けねぇといつか女絡みで痛い目みるぜ。リーチ」
言葉と同様に放り出された千点棒。安心したのもつかの間、田畑からの親リーという最悪すぎる展開に内心舌打ちをする。折角いい所で……。
内心で苦虫を噛み潰しながら山から牌をツモる。親指の感触。まさかこれは……。目視で確認。来た。この土壇場で張りやがった。顎に手を当て一瞬の逡巡。負けじと俺も千点棒を取り出す。
「リーチ」
思わず頭を抱えて「うがぁ」と呻く加藤。田畑の奴はニヤリと挑発的な笑みを零す。俺の張った手は四暗刻単騎ダブル役満。今までの負けを全部ひっくり返すサヨナラ満塁場外ホームラン。
流石に二人リーチのこの状況で突っ込むことはしない。加藤は慎重に俺たちの現物を選び、ベタ降りを敢行する。完全にこの局は俺と田畑の一騎打ちとなった。どっちの運が強いのか、足を止めてのベタ足インファイト。
今の俺には、確かに流れが来ている。この場面でこんな超大物手を引き込んだのがその証拠だ。
役満でリーチなんてバカの所業でしかない。メリットゼロでただただ極大のリスクだけを背負う行為。だがこれは運の勝負だ。敢えて自分を追い込むことで、掴んだ流れを完全に自分のものにしてやる。
緊張の第一ツモ。俺は自分の負けを悟った。田畑のド本命。リーチをかけている以上、この牌は必ず捨てなければならない。ならないが捨てたくねえ。最後の抵抗とばかりに、田畑の捨て牌から必死にツモったこの牌が安全な理由を探し始める。
「おやぁ。どうしたぁ? さっさと捨てろよ高戸ぉ」
「クソがぁ……」
ねっとりとした田畑の煽りにイライラゲージが溜まる。当たるなという一縷の望みと共に強打する。
「ロオオォォン」
無情にも俺の儚い願いは木っ端微塵に吹き飛んだ。倒された田畑の手牌を見れば想定よりも高い手。あ、これガチでヤバいやつじゃね?
「お、ラッキー。裏が乗って倍満じゃん。これお前トンだ臭くね?」
ただでさえドベだったんだ。親倍の二万四千点なんぞ払えるわけがない。箱下に沈み、思わず仰け反り天井を見上げる。あーチックショウ、ガチで今日はツイてねぇ。
田畑と加藤が帰り、静かになった自室で煙草を吹かす。いつもだったら徹マンと洒落込んでいるところだが、明日の朝に予定があると日付が変わる前に帰らせた。
勝負の余韻に浸るように紫煙を吐き出す。近年稀にみる大敗。アイツらと結構な数麻雀を打ってきたが、過去最悪の負け方だった。
短くなった煙草を灰皿に押し付けながら、テーブルの上に置かれた趣味の悪いキーホルダーに視線を向ける。二人を帰らせた用事ってのはコイツのことだ。明日の朝十時にコイツを持って、佳蘭と駅前で落ち合う。例の如く理由は教えてくれなかった。
そろそろ寝るかとベッドへ向かおうとした時だった。スマホの着信音が、静かになった部屋の中で鳴り響く。誰だよこんな時間に。適当な奴だったらそのまま切ってやる。うっとおし気にスマホの画面を見て、溜息一つ電話に出た。
「久しぶりだな、かなで」
「カズくんも久しぶり」
「ちょっと待ってろ。今イヤホン用意すっから」
無造作に置かれた小さな黒いケースから、ワイヤレスイヤホンを取り出し耳に付ける。ピロンと電子音と共に接続された。
「悪い。もう大丈夫」
「うん」
多分かなでの奴、電話の向こうでにへらっと笑っているだろう。いつもの小動物みたいな笑顔で。思わずズキリと胸の奥が痛む。
「また彼氏の話か?」
「そうそう! 聞いてよカズくん。アイツってばヒドいんだよ」
こんな時間にかなでから電話がかかってくる時は大体彼氏の愚痴だ。構ってくれないやら、贈られたプレゼントが気に食わないとかの不満が出るわ出るわ。その一つ一つに優しく応えていく。
「あーあ。カズくんならこんなことないのに……」
「バーカ。かなでのこと一番想ってるのはアイツだろ」
寂しそうに悲しそうに、かなでは微笑む。電話口で互いの表情なんて見えやしない。だが俺にはかなでがどんな顔をしているのかわかる。わかってしまう。
「うん……。遅くまでゴメンね。おやすみカズくん。またね」
「おやすみ。じゃあな」
電話を切る。あえて俺は「また」という言葉を使わなかった。掻き毟りたくなる様な胸の痛み。堪らなくなって煙草に火を付けた。感情と一緒に紫煙を吐き出す。渦を巻く様に天井まで伸びて、溶けるように消えていった。
日付が変わり、大分過ぎた。一瞬明日起きられるか不安になるが、まあスマホでアラームかけりゃ問題ないだろと思い直す。休みの日にアラームかけたくないから、早めに寝るつもりだったが仕方ない。かなでだけは特別だ。アイツに頼られたら、俺は出来る限りそれに応えなければならない。俺高戸和也のクソガキ時代の最後にして最大のやらかし。本気で惚れた相手がいるにも関わらず、あの時のクソガキだった俺はかなでと付き合ってしまった。罪と言うには軽すぎて、けれども俺が償わなければならないやらかし。
あの時のことを思い出す。放課後、俺たちしかいない中学の校舎裏。恥ずかしそうに頬を赤く染め、かなでは意を決して口を開く。
『好きです! 付き合ってください!』
『……。いいぜ。付き合うか、俺たち」
しばしの沈黙。ちょっと考えて俺はオーケーを出した。それに安心したのか、かなでは目尻に涙を滲ませながら嬉しそうに微笑む。
かなでとなんで付き合うことにしたのか。別に大した理由なんてない。同じクラスでどんなやつか大体わかってるし、なによりそこそこ可愛かった。ガチでその程度の理由しかない。
小学生といえば殆どの人が子供というイメージを持つだろう。なら中学生は? 確かにまだ子供。子供だが大人の世界がどういったものかわかり始める時期だ。
無限の可能性と知らないからこそ生まれる自分への絶対感。勘違いから生まれるその感覚は、エゲつない残虐性に繋がっていく。そして思春期特有の、エロに対する好奇心と欲望。その全てをかなでにぶつけた。互いの家で。学校で。公園で。電車で。クソガキじみた嗜虐性とオトナの欲望は、かなでを歪めた。歪めてしまった。
フゥーッと仰ぎ最後の一口を楽しむ。そのまま短くなった煙草を灰皿へと押し付けた。そして欠伸と共にゆっくりとベッドへ向かうと横になる。
別に女を自分色に染め上げたなんざ大したことじゃない。ただそれは本気で惚れた相手にするべきだ。クソガキが、それの意味することもわからず調子に乗ってするべきじゃない。なんでクソガキだった俺がこんな風に思うようになったのか。きっかけは鉄平から借りた一冊の本だった。
『これ、高戸に貸すよ』
いつもどおり読んで、感動のあまり涙を流す羽目になった。それは恋に狂った一人の男の物語。女の愛を得るために男は全てを捧げる。金も仕事も地位も名誉も。そうして男は女からの愛を得た。ただそれは女からすれば体のいい遊び相手に向ける愛情でしかなかった。結局男は捨てられ、失意のうちにこの世を去る。成功が約束されていた男が、全てを投げ打って手にしたのは一時だけの甘い逢瀬と、男の墓の前で女が流した一粒の涙だけだった。
読了後俺は男に同情して涙を流し、ふとかなでの顔が頭に浮かんだ。自然消滅に近い形で終わったアイツとの関係。考えてみればこの本の男女逆にしたようなもんじゃね?
あの時の急速に思考が冷えていく感覚は、忘れることはないだろう。物語の登場人物に向けた感情が、全部自身に返ってくる。同時に自分がどれだけ幼いクソガキで、やらかしてしまったのかを理解した。
スマホに充電ケーブルを挿し、部屋の電気を消す。ゆっくりと意識が落ちていく感覚。最後に考えるのはかなでのこと。アイツが俺に連絡してくるのは、頼りたいからだ。一番に、一番にかなでのことを考えてくれる男。本当に頼るべき相手がいれば俺に連絡することはない。それまでは、俺がアイツの面倒をみていく。いつかかなでから俺という存在が忘れ去られることを願いながら……。
*
わかっている。これは夢だ。遥か昔の、懐かしい日々。まだ鉄平が生きていて、俺が勉強というものにのめり込んでいた中学二年の時だ。
ドカドカと階段を駆け下りる。授業の終わった教室に、一秒だっている理由なんてない。さっさと帰ってゲームをしたいが、それより先に俺にとって大事な用がある。
「なあ先生! コレ見てくれよ!」
職員室で一人事務作業をしていた先生に、さっきの授業の最後に解いた数学の小テストを見せる。先生はパソコンから目を離すと受け取ったテストを軽く流し見して、思わず動きを止めた。
「……。凄いですね。最後の問題、これ難関私立の入試問題クラスですよ」
「へへっ。ヤるだろ?」
先生に褒められて思わずドヤ顔をかます。俺の通ってる所は進学予備校で、頭のいい奴らが集まっている。その上で、このテストで満点取れた人間は俺含めて五人もいない。
「こいつ何でか勉強出来るんだよな。ヤンキーのくせに」
悔しそうにな声が後ろから聞こえてきて、振り返れば鉄平がいた。どこか不服そうな顔を見て俺は察する。
「さては鉄平。お前最後の問題解けなかったな?」
「うるさいよ高戸」
「図星か! まあでも眠れる獅子を目覚めさせちまったのはお前だぜ、鉄平」
元々俺が勉強にのめり込むようになったのは、小学校の時にこいつに勉強見て貰ったのがきっかけだ。そうじゃなきゃこんな進学塾なんかに通うわけがない。なんだか楽しくなってきて、思わず鉄平に肩パン一発。貧弱なコイツに合わせて軽くパシッと。
「高戸くんと有馬君は仲がいいんですね」
「そう、かな? まあ小学校の時からの付き合いだし、普通じゃないかな」
「そうだよな。幼馴染っちゃ幼馴染だけど、特別仲がいいって感じじゃねえもんな、俺たち」
嬉しそうに柔らな表情を浮かべる先生に、俺と鉄平は思わず顔を見合わせ首を傾げた。そんな俺たちを見て先生はその笑みを濃くする。
「それより、さ。何回も言ってるだろ、先生。俺のことは和也でいいって」
じっと先生の目を見つめ、これまで何度も言った言葉を口にする。どこまでも真剣な俺に、先生は困ったような顔で、誤魔化すように机の引き出しを開けた。
「受験までまだ一年あります。有馬くんならそれまでに解けるようになりますよ。高戸くんはこの調子でがんばってくださいね。はいこれ」
すっと差し出されたのは小さな四角いチョコ。スーパーなんかで売られててお徳用の沢山入ってるやつ。
「頑張ってる二人にちょっとしたご褒美。ナイショですよ」
悪戯っぽく片目を閉じ、人差し指を唇に当てて笑う。そんな先生に俺は思わず見惚れる。もしかしたら若干赤くなっているかもしれない。
ビニールの包みを開け、ひょいと口の中にチョコを突っ込む。なんてことはない安っぽいものでも、先生から貰ったものは俺にとっては特別なものだ。
一目惚れっていうやつなのだろう。大学に入ったばかりのバイトの先生に、生まれて初めて目を奪われた。意思の強そうな切れ長の目は、同時に優しく柔らかい。さらりと艶やかな黒髪を後ろでポニーテールにしている。澄ました黒猫のような、気品ある仕草。今まで誰かを可愛いと思うことはあった。けれども綺麗だと思ったのは初めてだった。
俺が本気で恋をした女。諦めるつもりなんてこれっぽっちもない。だがこの恋が叶うことはないのはわかっていた。高戸くん。先生にとって俺は単なる生徒でしかなくて、どこまでいっても子供だった。
ぐるりと世界が切り替わる。あの頃の俺の部屋。実家に帰ればいつでも見れるがどこか不思議な懐かしさがあった。
ゆったりクッションに座りながら、クソガキだった頃の俺はテレビゲームをしている。隣にはかなでが何がおもしろいのか、そんな俺を眺めながらニコニコ微笑んでいた。アイツと付き合っていた頃のよくある日常の光景。一つ違うのは夢の中にいるせいだろう。映画みたいにそんな俺たちを俯瞰で眺めていた。
昔の俺はどこか退屈そうに、けれども目だけはギラギラ輝かせながらコントローラーを操作している。しばらくして軽快なファンファーレと共にテレビに映し出されたクエストクリアの文字。昔の俺は後ろに手を付き一息吐く。
「やったね、カズくん!」
嬉しそうにふんわり笑う。そんなかなでを冷めた目で見つめながら、かつての俺はそっとその柔らかな左手に触れる。それだけで充分だ。かなでは目元を潤ませながら「あっ…」と熱い吐息を漏らす。
そうだ、そうだった。かつての俺たち、いや俺はこうだった。まざまざと自分の黒歴史を見せつけられようとしている。
馬鹿野郎お前が本当に好きなのは先生だろ? やめろ猿みたいにサカッてンじゃねぇ! 今の俺の思いは、言葉はクソガキだった俺に届くことはない。かつての俺は覆いかぶさるようにかなでの唇を奪う。過去から逃れることは出来ない。掻き毟りたくなるような疼き。
ふと俯瞰で見つめる今の俺とかなでの視線が交差する。過去の再現ではありえない現象に、思わず思考が固まる。そんな俺にかなでは微笑んだ。蕩けるような色気と仄暗い妖しさとともに。
闇い夢に落ちていく。
*
ICカードをタッチして駅の改札を出る。休日の昼間なだけあって嫌になるほど人で溢れ返っていた。この人込みの中からたった一人の人間を探すことを考えると流石にげんなりする。この前の喫茶店で連絡先を交換したことを思い出し佳蘭へ電話をかけた。
「今改札通ったところだ。どこにいる?」
「そうね。そのまま真っ直ぐ歩いてくれればいいわ」
いやどこだよ、なんて心の中でツッコミを入れながら言われた通り進んで行く。面倒だから通話は切らない。そんな俺の懸念は一瞬で杞憂に終わった。スマホを片耳に当て柱に寄り掛かる久留主佳蘭は、映画のようにサマになっていた。
「時間ギリギリね」
「うるせーよ。間に合ったからいいだろ別に」
「そうね。わたしもこれ以上は言わないわ」
べーつに遅刻したわけじゃないんだ。ぐだぐだうるせーよ。思わず半眼で佳蘭を睨みつけるも、澄ました顔でまるで堪えた様子はない。
「一応聞くけれどもアレ、忘れてないわよね?」
「忘れてねーよ。ホラ」
目的すら知らされていない中、唯一佳蘭からの指示。ポケットの中から趣味の悪いキーホルダーを取り出して見せる。かつて板橋が持っていたこれを持って来いということだけ。
「で、今日は一体何をするんだ? いい加減教えてくれたっていいだろ」
「全てが終わった時に話すわ。取り敢えず海に行きましょう」
「は? 海、だぁ?」
海水浴には季節的にまだ早い。それにここから海まで行けないことはないが、あまりにも唐突すぎて意味が分からん。頭痛がしてきて思わず頭を抱えた。
「なんでそんな所行くんだよ。もっと言うならどうやって行くつもりだ? タクシーでも使うか?」
「馬鹿ね。そんなのタクシー代がいくらかかると思っているの? バスでいいじゃないバスで」
「さいで」
ここからバスで海まで行こうとしたら、どれだけ時間かかると思ってんだよ、馬鹿じゃねぇの。思わず内心で悪態をつく。文句こそ出るが、それでも佳蘭の言うことに従うことにした。それだけの信頼がコイツにはある。
「さっさと行こうぜ。時間がもったいねえ」
「そうね、行きましょう」
確かバスターミナルへは北口の方向だったはず。突然のことで時刻表なんぞ調べてないが、まあ適当でいいだろう。佳蘭は足許のピクニックバスケットを持つと俺と一緒に歩き出した。
駅からバスターミナルまではものの数分で着いたがそこからが面倒だった。なんせ乗り場が十八番まである。どれが海へ行くバス乗り場なのか、調べるのに大分手間取った。ようやく七番乗り場だとわかり、急いで向かうも着いた時には既にバスは出発していた。
「あーチクショウ。ツイてねぇな!」
「そりゃあ時刻表調べてもいないし、あれだけ手間取れば当然よ。次のバスが来るまで二十分くらいでしょ? そんなのすぐだわ」
言うが早いか佳蘭は備え付けのベンチに座ると文庫本を取り出し静かに読み始める。その様子があまりにも堂々としすぎてて毒気が抜かれた。肩を落とし溜息一つ吐くと佳蘭の隣にドカリと座り込む。暇潰しの鉄板スマホを取り出し、そういやログインボーナス受け取ってなかったとソシャゲを開く。ソシャゲのいい所は何も考えない脳死状態で出来ることだ。
ふわぁと思わずクソデカい欠伸が出た。少しでも気を抜くと睡魔の奴が襲い掛かってくる。ソシャゲの脳死プレイなんてやってりゃ猶更だ。
頭痛とまではいかないものの妙に頭が重い。嫌になるほどハッキリした夢を見た後は大体こうだ。眠っているのに意識が残っていてスッキリしない。おかげで一発目のスマホのアラームを突破。念のための最終防衛ラインで起きられたから良かったものの、佳蘭との待ち合わせにはギリギリ。おまけに睡魔を抑えるため変に気を張っているせいで、今日の俺は沸点が低い。
また欠伸が出た。まだかよ長いな、なんて思っていると俺たちが待っている七番乗り場にバスが停まった。スマホをポケットに仕舞い立ち上がる。
「待ちなさい。それじゃないわよ」
「は?」
「よく見なさい。わたしたちの乗るバスはこの次よ」
落ち着いてしっかり見ると、確かに俺たちの乗らなきゃいけないバスと路線番号が違う。目の前で停まってるバスに乗っても海に行くことは出来ない。佳蘭が声をかけなかったらこのバスに乗って変な場所に着いてたかもしれない。同じ乗り場で行先が違うバスが来るの罠だろコレ。
「すまん助かった」
「気にしなくていいわよ」
礼を言うと佳蘭は本から目を外すことなく答えた。フーッと大きく息を吐き出すとドカリとベンチに座り直す。少しだけ眠気が飛んだ。流石にスマホを弄る気にはならない。腕を組み大人しく待つことにした。
流石に駅ほどじゃないにしろ休日のバスロータリーはそれなりに人がいる。何人もの人が俺たちの前を通り過ぎ、幾台ものバスが走り抜けていった。別に見ていて楽しいものじゃないが、不快というわけじゃない。淡々と眺め続けていると、ようやく一台のバスが俺たちの前に停まった。
「来たわね。それじゃあいきましょうか」
「ああ」
流石に二回目はない。路線番号も確認した。時間も時刻表ぴったり。間違いなくこのバスだ。本を仕舞いピクニックバスケットを持った佳蘭と一緒に乗り込む。しばらくして出発した。
海開きのシーズンには若干早い。車内は俺たちしかいない閑散としたものだった。適当に後ろの方の二人席に並んで座った。俺が通路側で佳蘭が窓側。
流石にバスではないが、大学のツレと海へは何度か行ったことがある。ゆったりバスで揺られることを考えればざっと一時間半から二時間の間くらいだろう。仮眠を取るには丁度いいくらいの時間だ。
「悪い眠いわ。ちと仮眠取るから着く頃起こしてくれ」
「いいわよ。おやすみなさい」
ポケットからウォークマンを取り出しプレイリストを漁る。適当に落ち着いた曲ばかりのリストをピックした。腕を組み目を瞑る。イヤホンから流れるゆったりとしたバラードと、心地よいバスの揺れが眠りの世界へと誘う。一曲終わるより先に俺の意識は暗闇に落ちていった。
何もない暗闇の空間に、俺とかなでが二人きりで佇む。あの頃と違って茶色に染め上げられた髪は、あの頃と同じでふわふわしている。熱に浮かされたように潤んだ瞳と赤く染まった頬。誘うようにかなでは俺の腰に腕を回す。
「……好き。カズくん好き」
服越しに感じる熱い吐息。かなでという存在が地肌に染み込む様な、甘く痺れる感覚。肉欲的な情動に突き動かされ、かなでを抱きしめそうになるも、僅かに残った理性がそれを拒否する。
「……。ダメだろ。それはダメだ」
かなでの肩をぐっと掴み引き離す。このまま流されるようにかなでを抱いたら絶対に後悔する。あんな苦い思いはもう嫌だ。
「どうして? どうしてカズくん。ねえどうしてカズくん。どうしてあたしを拒絶するの? ねえどうして? どうしてどうしてどうしてどうして……」
かなでは壊れたように「どうして」を繰り返す。俺の知っているアイツからは考えられない異様な雰囲気。背筋に冷たいものが走る。まるで縋るように俺の左手首を掴まれた。思わずかなでの顔を見下ろし、気が付いた。
「誰だテメェ」
かなでじゃない。かなでじゃなくてよく似た誰か。いつからだ? 確かにさっきまではかなでだったはず。いや、本当にそうか? まさか俺がそう思っていただけで最初からかなでじゃなかった? グルグルと爆速で絡まり続ける思考。同時に恐怖という感情が俺を支配する。
左手首を掴まれている。振りほどこうとするも力が強すぎる。無理だ。引き剝がせない。クソ! なんだこれチクショウ。
最早かなでとは似ても似つかない見知らぬ女が迫る。光の消えた黒すぎる両目とニタリと歪む口。全身の毛穴が開くような強烈な怖気。逃げようと藻掻くも掴まれた左手が万力のように締め上げてきて振りほどけない。クソ! 来るな! 来るんじゃねぇ! チクショウ! やめろ! やめてくれ‼
頭にゴツンという衝撃で目が覚めた。いきなりで現実に理解が追い付かない。あの女はどこいった⁉ つーかここどこだ? 何してたんだっけ?
周囲を見回し、ここが海へ向かうバスの中だということを理解し、大きく溜息をついた。なんだ夢か。いや、よく考えりゃかなでがあんなよくわからない女に変わったりとか夢意外ありえない。それにしても昨夜からいやにかなでが夢に出てきやがる。なんでだ?
「大分うなされてたから、まだ早いけど起こしたわ」
「いや、悪いなスマン」
膝の上のピクニックバスケットと閉じた文庫本。おそらくあの文庫本で頭を殴られたのだろう。もうちょい優しく起こせと思ったが、まあそれは口にしないでおく。
「随分と殊勝ね。大丈夫?」
「ウルセェよ。ちと昨夜から嫌な夢を見続けててな」
誰もいないことをいいことに前の席から顔を出すように寄り掛かる。バスの外を見ることが出来るだけの余裕が出てきた。
穏やかな午前の田舎町。適度に車通りがあるもののせわしないわけじゃない。少しだけ時間がゆっくり進んでいるような気すらしてくる。まだ海は見えてこない。ざっと残り十五分くらいだろうか。確かに起こすには少しばかり早い。
ふと視線を感じ隣を見ると、佳蘭が俺を見つめていた。すっと目を細め、どこか非難するような目つき。俺何かやったか?
「高戸って意外に遊んでいるのね」
「は?」
「こっちの話。少し想定外だった……違うわね。わたしの想定が甘かっただけ。気にしないでちょうだい」
いやいや。自分でいうのもなんだが、こちとら不良大学生だぞ。んなもん遊んでるに決まってるじゃねぇか。
「今あなたはかなり危険な状態よ。けど安心してちょうだい。わたしがいる以上安全よ。せいぜいちょっと怖い思いをするくらいね」
「いや、危険な状態って意味わからねぇんだが」
「わからなくて当然よ。まだ全てを話してないんだから。ただ全部意味のあることよ。それだけは約束する」
「わかってるよ。全部必要なことなんだろ」
確かに何もかもがわからない。俺が今どういった状態なのか。何故今海に向かっているのか。それでも俺の直観が、これは俺が経験しなけれなばならないことだと告げていた。少なくとも、俺がこの先も『月光』という本を持ち続けるためには。
次の目的地を伝える車内アナウンス。佳蘭は静かにボタンを押した。「次、停まります」どうやら適当に佳蘭と話している間に結構な時間が経っていたらしい。いつだって待つのは長くて行動すれば短い。しばらく経って到着し、俺たちはバスを降りた。
バス停からゆっくり歩道を行き交差点へ。この信号を渡れば海水浴場、つまり俺たちの目的地である海だ。赤信号で佳蘭と並んで待つ。
ふわぁとデカい欠伸が出た。車通りの多い大通り。行き交う車の喧騒が遠のいていく。視界がぼやける。確かに見えているのに霞んでなにもわからない。信号が青に変わった。後ろにいる女がトンと背中を押す。ああ、そうだ行かないと。つんのめるように一歩踏み出し、そうして俺は——。
「ぐえっ」
服の襟首を掴まれ、蛙の潰れたような声が出た。
「よく見なさい! まだ赤よ」
佳蘭の言葉で霞んでいた視界に色が戻る。十数メートル先の歩行者用信号機は確かにまだ赤で、車通りは激しい。あのまま進んでいたらと思うとゾッとする。
「悪い。マジ助かった」
「言ったでしょう。わたしがいる以上安全よ」
今更になって冷や汗が出てきた。深呼吸するように大きく息を吐き出す。なんで俺は赤信号と青信号を見間違えるなんてバカやらかしたんだ? いや、待て待て。それよりも確かに背中を押された。あれが一歩踏み出すきっかけになったのは事実。
思わず後ろを振り向くも誰もいない。あぶねぇだろ! と怒鳴り散らかしてやろうと思っていただけに肩透かしを食らう。
「なぁ。さっきまで俺の後ろに誰かいなかったか?」
「いないわよ。最初からわたし達だけ。それより信号変わったわ。行きましょう」
言うが早いかスタスタと佳蘭は颯爽と進み始める。慌てて俺も置いて行かれないよう歩き始めた。
「いやいや絶対誰かいたぞ。あの時間違いなく俺は後ろにいる女に背中押されたし」
「いないわ。気のせいよ」
流石に腑に落ちない。確かにあの時俺は信号を見間違えた。だが一歩踏み出すきっかけになったのは、後ろにいた女からの一押しだった。だからこそあの時後ろに誰もいなかったはありえない。信号を渡り終える。一歩先を行く佳蘭が唐突に立ち止まり振り返った。
「そもそも高戸はずっと前を向いていたじゃない。後ろに誰かいたとして、どうしてそれが女だってわかったの?」
佳蘭の言葉に思わず固まる。全く頭になかったが、言われてみれば確かにそうだ。なんでいるかどうかすらわからない人間を女だと思ったのか。
だだっ広いだけの芝生の公園。ここを突っ切れば海水浴場に着く。散歩している奴すらもいない寂しい公園を無言で歩く。
流石にピースが揃ってきた。わからないなりに見えてくるものがある。海まであと少し。辿り着けば全てがわかると思うが、それでも思わず考え込んでしまう。
しゃりりと靴が砂浜に沈み込む感覚。穏やかな潮風がさわりと頬に触れる。波の音が静かに響いていた。波打ち際に俺と佳蘭は並んで立つ。
「で、海に着いたけどどうすんだ?」
「あのキーホルダー出せる?」
ああやっぱりな。静かに納得しつつポケットからあの趣味の悪いキーホルダーを取り出す。なんとなくこれが今俺に起こっている現象の原因だってことは薄々気づいていた。
「それを思いっきり海に投げ捨てなさい」
気づいていたが、流石にこの言葉は想定外だった。元を正せば板橋とかいうオッサンのもの。別に愛着あるわけでもないし、何より俺の趣味じゃない。野球のピッチャーのように振りかぶって、けれども投げることが出来ず右手を下ろした。
「大丈夫。高戸はそれを捨てれるわ」
キーホルダーを握る右手にそっと添えられた左手。驚き思わず佳蘭の顔を見つめる。吸い込まれそうな青い眼。佳蘭の持つ魔女の瞳。
肩でするようにフゥーッと大きく息を吐き出した。そうしてもう一度振りかぶると、海に向かってキーホルダーをブン投げる。金属製のキーホルダーは勢いよく空を飛び、ポチャンと遠くの海に落ちた。
「お疲れ様。これでようやく全てを話すことが出来るわ」
「で、俺に何が起こってんだよ」
「高戸が見ていた悪夢も、ここに来るまでに起こった不運も。全て呪いによるものよ」
どこか頭の片隅にあったのだろう。呪いという佳蘭の言葉がスッと俺の中に入って来た。呪いという言葉なんて小学生同士がふざけて言うくらいのもの。可能性の一つとして頭にはあったが、佳蘭が言うまで納得出来なかった。
「あのキーホルダーが呪いのアイテムだった。で、それを捨てたことで、俺にかけられた呪いは解かれた、でいいのか?」
「これ以上悪くなることはないわ。ただ影響は残っている。それを今から取り除くのよ」
「なにすんだ? 板橋にやったみたいに変な呪文でも唱えるのか?」
俺の言葉に佳蘭はおかしそうにクスリと笑う。軽く馬鹿にされたようで、少しだけイラっときた。
「ああ、あの時のあれね。あんなものテキトーよテキトー。聖書とか讃美歌から、それっぽい感じの選んで口にしただけ。意味なんてないわ」
「は? マジで意味わかんねぇ」
「わたしは魔女よ。僧侶じゃあるまいし、聖書の言葉で呪いを解くなんて出来ないわ。それに呪文を唱えて魔法を使うなんて物語の世界だけよ」
そういえば前に佳蘭が同じようなこと言っていたな。ファンタジックな魔法は使えないと。ただそれが事実だとして、あの時板橋に向かって呪文を唱えた時、俺は確かに世界が割れるような音を聞いた。あれは一体なんだったのだろうか。
「高戸があの時何を感じたのかはわからない。けれどもそれは気のせいよ。順を追って高戸にもわかるよう全てを話すわ。けどこんな場所じゃなくて、ね」
ピクニックバスケットを軽く上げ、ウィンクしながら佳蘭は楽しそうに笑う。時間もそろそろ正午に差し掛かる頃だ。昼飯にちょうどいいだろう。
朝会った時から思っていたが、突っ込むことはなかったピクニックバスケット。おそらく佳蘭は最初からこの展開を考えていたのだろう。どことなく掌で転がされてる感が凄いが、まあそこは飲み込むことにする。少し釈然としないが、それでもコイツが作った昼飯の方が気になる。颯爽と歩き出した佳蘭に溜息を吐くと置いて行かれないよう歩き出した。
なにもない芝生の公園といってもベンチくらいはある。二人して並んで座ると、佳蘭は膝の上でバスケットを開けた。中にはいかにもって感じのサンドイッチが並んでいる。
「はい。まずはこれを飲みなさい」
差し出された紙コップ。中身はあの日喫茶店で飲んだハーブティーと似ていた。黙って受け取り口に含む。砂糖由来じゃない微かな甘みと爽やかな後味。思わずほうと吐息が漏れた。
「これは前に高戸が飲んだ黒とは真逆の白よ。落ち着くでしょう?」
「まあな。リラックス出来るしウマいよこれ」
「よかったわ。サンドイッチも好きに食べていいわよ」
バスケットの中から適当に選んだツナサンドを齧る。マヨネーズの舌触りの滑らかさとそれに負けないツナの味の強さ。隠し味のスパイスがまたいい仕事をしている。料理は好きで結構作るし、調味料も少しばかり集めてはいるが、なんのスパイスなのかわからない。
「さて。そろそろ話していきましょうか。わかっていると思うけどおさらいとして、ね。わたしの依頼人の板橋宏司。そしてあのキーホルダーを譲り受けたあなたの二人を苦しめていた原因は呪いによるものよ」
「その呪いってやつは女絡みが原因で合ってるか?」
驚き軽く見開いた佳蘭は、すぐに満足そうに頷いた。板橋も自身の話で視界の端に女の影が見えると言っていた。俺が見ていた悪夢はかなでとのことで、決定的だったのが背後から俺を押した女の手だった。ここまで手札が揃っていれば、それなりに予測が出来る。
「板橋さんから依頼を受けた時にも思ったけれども、直接会って確信したわ。よっぽど酷い遊び方をしたのね。わたしの目にははっきり見えていたわ。あのキーホルダーにべったりとこびりついた女の悪意が」
「板橋にあのキーホルダーを送った女が犯人てことか」
「犯人探しに意味はないわ。今回のこれは意図したものじゃない。板橋という男に対する恨み辛み。あのキーホルダーがそのマイナスの感情を受け止め核となっていただけ。板橋さんにキーホルダーを贈った人物が呪いをかけた張本人とは限らないわ。探そうと思えば犯人が誰かもわかるとは思う。けどあの人にそこまでする必要もないし義理もないわ」
「まあ確かにな。それにしても海に捨てちまったが大丈夫か? 呪いの核になっていたんだろ、あのキーホルダー」
「問題ないわ。呪いとはいわば人の感情によってもたらされるもの。感情にとって一番堪えるのは無反応。一か月もすれば呪いのアイテムから単なるキーホルダーに戻るわ」
なるほどと佳蘭の言葉に納得する。確かに無視が一番キツい。誰もいない壁相手に一人で怒り続けることが出来ないように、キーホルダーに染み付いた呪いが消えるって言われれば理解は出来る。こうなってくると気になることがある。
「なあ。呪いってなんだ? 一般的なことなら俺でもわかるが、お前の口から直接聞きたい」
「呪いは古くからある言葉で、色々な意味を併せ持つわ。相手の人生を縛り付ける言葉を呪いということもある。けれどもそうね。悪意で相手を不幸にする行為のことを呪いというわ。そしてその根幹は、相手を恐怖という感情で縛り付けることよ」
「恐怖だぁ?」
新しいサンドイッチを手に取りながら眉をひそめる。つまりはあれか? 呪いの本質は相手をビビらせるってことなのだろうか。
「人間にとってメンタルもまた非常に大きなウェイトを占めているわ。例えばアスリートのパフォーマンスにも密接に関わってくる。もっと言えば強いストレスが原因で胃に穴が空くことだってあるわ。わたしたち人間の肉体はメンタルの影響を確実に受けている」
「聞いたことあるな。確か深い催眠状態だと単なる鉄の棒を当てただけでも火傷になるとか」
「有名な話ね。あの時の板橋さんを覚えているでしょう。話を聞いてみれば大したことのない内容。けれども異常なまでに挙動不審で、見るからに恐怖に支配されていた。呪いに蝕まれているのがわかったわ」
「確かにあの時の板橋は切羽詰まってるつーか余裕がなかったな」
初めて会った時の様子を思い出しながらサンドイッチを齧る。シャキシャキのレタスとそれを受け止めるチーズの旨味とハムの塩気。食にうるさい方だが、文句ひとつ出ないくらいに美味い。
「一つ疑問なんだが、呪いの根幹は恐怖なんだろ? ホラー映画なんて恐怖を売りにしてるじゃねぇか。極論言っちまえばああいったのってどうなんだよ」
「高戸が言わんとすることもわかるわ。けれどもそれってあくまで単発でしょう。映画を見終わったら終わり。呪いの恐ろしさはその継続性にあるわ」
言われてみればと納得する。ホラー見て夜中トイレに行くのが怖いと泣くガキだって、一週間もすりゃケロッと忘れてる。
「継続性によって負のスパイラルを引き起こす。板橋さんはいるはずのない女の影に怯え、高戸の場合は連続して悪夢を見続けた。自分が睡眠不足だってのは自覚あるでしょう?」
「確かに寝不足だよ。で、それがどうしたってんだ」
「今日初めて顔を合わせた時からあなたは不機嫌だった。睡眠不足がその原因の一つね。それによって些細なことでも癪に障る。メンタルがパフォーマンスにも影響与える話はしたわよね。集中力の低下による小さなミスや勘違いを頻発するようになる。そうなった時に人間は何を思うかしら?」
「今日の俺はツイてないってか。なるほどな」
「そういうこと。人間は自分の不調を運のせいにしがちよ」
確かに納得のいく話だった。道端ですっ転んだ時や、学校で忘れ物をした時。思わず運のせいにしてしまいがちだ。しっかり前見ていなかったり、確認不足だったりと大体が自分のせいだというのに。
「元々人間には呪いに対する耐性があるわ。性格的なものだったり、その人そのものが持つ幸運の力だったりね。よっぽど強烈なもの以外、呪いが与える影響なんて実は微々たるものよ。けれどもそれが続く。それによって徐々に耐性が削られて、結果負のスパイラルが起こる」
「負のスパイラルねぇ。やっぱ自力じゃ抜け出せないのか」
「難しいわね。抜け出そうとして、寧ろ逆効果になる場合が多いわ。そもそもがまともな精神状態じゃない。訳が分からない理屈をこねくり回して意味不明な行動を取ってしまう。調子が悪い時こそいつも通りの行動を取った方がいいのにね」
不意に昨夜の麻雀の時のことを思い出す。四暗刻単騎を張った最終局面、あのリーチは俺らしくなかった。なんだ自分から不利を背負うことで運を高めるって。今冷静になって考えりゃマジで意味が分からん。挙句の果てに直撃食らって「今日はツイてない」ときたもんだ。自分から不利抱え込んでりゃ、そりゃそうなるだろ。寧ろあの場面で大逆転手が舞い込む辺り、俺に運は確かに在った。ただそれに気づかず自分からその運を手放しただけ。
佳蘭の語る負のスパイラルって要はこういうことだろう。人間追い詰められたら視野が狭まる思考が固まる。冷静になれば「そんなことはない」と否定出来ることも、追い詰められた思考じゃあ止まれない。結果的にその行動が——。
「重大な事故に繋がる。大きな不幸を呼び寄せる」
「そう。高戸の言う通りよ。もしくは精神が追い詰められ病んでしまう。酷いと自殺までいってしまう」
「なんつーか人間のメンタルって脆いもんだな」
「そうね。人によって耐性の強弱はあるわ。ただそれが失われた時、人は等しく脆いものよ。……大分横道に逸れたわね。そろそろ種明かしの続きといきましょうか」
「種明かし、ねぇ。まるで手品だな」
「あら。手品は英語で?」
「魔法ってか? くだらねぇ」
愉快そうに佳蘭はくすくす笑う。それがなんとなく気に食わなくて、紙コップのハーブティーを一気に呷った。
佳蘭は空になったピクニックバスケットの蓋を閉じる。喋りながら食べていたからか、今更ながらそのことに気が付いた。食べたサンドイッチはどれも絶品で、もう少し食べたかったという気持ちと、いい感じに腹が膨れたことでの満足感。思わずほう吐息を漏らした。
「あの時カラオケルームでわたしがお香を焚いたの覚えてる? 高戸にはこっちの方が身近かもね。お寺でも線香を焚いているでしょう。教会でもそう。更にフィトンチッドのようなリラックス成分を配合したわたしのオリジナル。それを使うことで厳かさとリラックス出来る空間を演出した。簡単に言ってしまえば簡易的な聖域を創り出したってわけよ」
「なるほどな。それにしてもあのお香ってお前が作ったものだったのかよ、すげぇな」
「言ったでしょう。わたしは魔女だと。とはいえありがとう。他にもあの時飲んだハーブティーもわたしのオリジナルよ。喫茶店のマスター、里中さんにわたしがブレンドした茶葉を幾つか置かせて貰ってるの」
「ああ、あの青とか黒とかって注文してたやつか。で、あれにはどういう意味があったんだ?」
「察しがいいわね。きちんとした意味があるわよ勿論。医食同源という言葉があるように、口に入れるものは健康に影響するわ。勿論それは精神的なものもそう。わたしと板橋さんが飲んだものは冷静さと落ち着きを取り戻す効果があるもの。理由はわかるでしょう?」
「呪いによる負のスパイラル。結局の原因は精神の乱れ。それを整えるためで合ってるか?」
「そういうことよ。そして呪いの核たるキーホルダーを板橋さんから取り上げた。その時点であの依頼の九割は終わっている。ダメ押しであの呪文。それらしい雰囲気の中でそれらしい言葉を言う。板橋さんはあの時確実に信じたわ。多分高戸もそう。だから錯覚を起こした」
確かにあの時の俺は佳蘭の創り出した雰囲気に吞まれていたかもしれない。あの時感じた世界が割れたような奇妙な音は、確かに気のせいだった、かもしれない。いや気のせいだった。
「いくつか補足するわ。板橋さんがお祓いに行っても効果がなかったのは、呪いの核たるキーホルダーを持ち続けていたから。一時的に良くはなっても大本が残っている以上結局は意味がない。もう一つ。板橋さんの右肘の痣に気が付いたのはわたしの持つ魔女の瞳のおかげね。あそこに意思の残滓が見て取れたわ。まあこんなところね。大丈夫?」
「多分な。にしても魔女って奴は詐欺師みたいなもんだな。結局やったことは不安を取り除いたのと、もう大丈夫と信じ込ませただけ。ああ、呪いの核になってたキーホルダー回収したもあったか。たったこれだけだろ?」
「そういうこと。言ったでしょう、手品だって。実際の手品と同じで種がわかってしまえば「なんだそんなこと」っていうものよ。むしろ高戸がそう思ってくれてよかったわ。呪いの影響が消えたってことだもの」
まあ言っちゃ悪いがここまでの話を極論でまとめるなら自分の気の持ちようってだけだ。呪いの核を取り除いて、変にビビることなく落ち着いて冷静さを取り戻せばいいだけ。くだらないっちゃくだらないが、ここまで種明かしされたからこそ思うこと。まあそれに変な杖(棒)と魔法の呪文でトンデモミラクル起こりましたよりかよっぽど納得のいく内容だった。
俺はとっくに空になっている紙コップを、気合を入れるように握り潰す。そうして隣で澄ました顔の佳蘭を、その宝石のような魔女の瞳を見つめた。
「そろそろいいんじゃないか? ここまでお前の手の平で踊ってやったんだ。板橋が受けていた呪いの影響が俺に来たのは久留主佳蘭、お前の差し金なんだろ? その真意って奴を話して貰おうか」
「やっぱり気が付いていたのね」
「あのキーホルダーを受け取った時からなんとなくな。よっぽどの馬鹿じゃなきゃ気付くぜ」
「まあ、そうね。高戸に体験して欲しかったのよ。呪いとはどういったものなのか。そして理解して欲しかったの。わたしがなんの抵抗も出来ずに怪異に取り込まれたということの異常性を」
俺と佳蘭を引き合わせることになった原因。俺が持つ『月光』という本に関する怪異のことを思い出す。あの時も異常と言われ、そうだとしか思わなかったが今は少し違う。呪いへの理解度が増したことで、その異常性の一端をわかるようになった。久留主佳蘭という魔女が、無抵抗に怪異に取り込まれるなどありえない。
「知は力よ。知っているというだけでも違うわ。あの時喫茶店で高戸だけが違うハーブティーを飲んだのを覚えている?」
「確か板橋とお前が青で、俺だけが黒だったな」
「そう。効果は二つ。他人の感情に左右されやすくなること。そして精神状態が肉体に影響を与えやすくすること」
「なんつーか呪いの影響もろに受けそうだな」
「寧ろそのためのものよ。だからわかりやすいように黒って名前にしているわ」
あの時喫茶店のマスターが佳蘭の注文を聞き返していたが、確かにそうするわと納得した。知り合って日は浅いが、佳蘭が他人に呪いをかけるような奴じゃないのはわかる。それにもしコイツが本気で他人を呪おうとした場合、もっとうまくやるはずだ。それこそマスターと口裏合わせるくらいはするはずだし、黒なんて物騒な名前にするわけがない。
「こうして種明かしした今なら黒を飲んだとしても多少の抵抗が出来るはずよ」
「まあヤバいと思ったら深呼吸ぐらいはしようとするわな」
「それだけでも大分違うわ。種明かしを終えた今なら多少理解出来るでしょう。わたしがなんであの『月光』という本をここまで危険視しているのかが」
「ああ。だがそれでもあの本をお前に渡すことは出来ない」
「それはどうして? キーホルダーを海に捨てる時、あなた一瞬躊躇ったわよね。その時の感覚と同じじゃない?」
「それは違う。あれを捨てる時のはなんとなくだったが、『月光』に関しては理由がある。明確に頭で考えた結果だよ」
「もう一度聞くわ。どうして『月光』を渡すことが出来ないの? あれを破棄したくない理由はなに?」
遠くで海鳥が鳴く声がする。今まで気にならなかった波の音が嫌に耳に残る。理由があると言ったが、あまりに漠然としすぎていて言葉にし難い。ゆっくり慎重に、言葉を選ぶようにして口を開く。
「あの本。『月光』には、悪意が含まれてなかったのを、覚えているか?」
「勿論。それがどうしたの?」
「あの本に、あったのはさ。ただ知って欲しいという気持ちだけだったんだよ。それってさ、おかしくないか? お前の方が詳しいから、何言ってるんだって思うかもしれねえが、こういうのって普通愛とか憎しみだろ?」
「そうね。想いを世界に刻み込む以上、強いものじゃなければそもそもが無理よ。必然的に愛憎というシンプルかつ根源的なものに限られるわ」
「だろ? 俺たちはさ、確かに『月光』という本の中身を知ることが出来た。だがこの本の作者、富永弥が本当に知って欲しいと思ったことを、理解することが出来たと言えるか? それがわかるまではこの本を残しておかなければならない。そう思うんだよ」
おそらく俺だけが知っている事実。少なくとも富永弥という男は隠そうとしていた。月の光に導かれるようにして犯した、一夜の過ちを。本当に知って欲しいことはそれじゃない。ときのことだ。だが具体的にときの何を知らなければいけないのかがわからない。
「言われてみれば確かに気になるわね、それは」
「まだ『月光』を消すわけにはいかない。それに——」
「それに?」
「俺は鉄平を死に追いやった存在を許すことが出来ない」
ただの直観でしかない。だが理解しなければならない『月光』の真実と俺の復讐が、全て繋がってるような感覚があるのだ。
「——そういえば、まだ支払っていなかったわね。わたしの助手として働いた分の報酬を」
「助手ったって大したことしてないがな。どっちかっていうと迷惑料が欲しいくらいだぜ」
ただボケッと板橋と佳蘭の話を聞いてただけで、仕事らしい仕事をしていない。それよりもむしろ呪いの影響で見た悪夢や、さっきなんて危うく死にかけた。確かに呪いなんてオカルト現象の理解度は深まったし、今ならそれが必要なことだってわかる。わかるが感情は別だ。
「まあどっちでもいいじゃない。報酬でも迷惑料でも。高戸和也さん、あなたからの依頼。魔女たる久留主佳蘭が請け負うわ。『月光』という本の真実と、あなたの親友を殺した相手への復讐。完全無料で最後まで」
「へぇ…。確かにそいつは有難い。だが久留主佳蘭さんよぉ。なんでそこまでしてくれるんだ? お前にメリット、ないだろ?」
「メリットと言われたら確かにないわ。シンプルに好奇心とちょっとした正義感。まあそれとお祖母様からの言葉ね」
「なんだよ」
「全ての物事には意味がある。そして特別な力を持つ人間は、いずれその力を使う運命にある。多分これがそうよ」
佳蘭の言う特別な力ってやつは、見えないものを見ることが出来る魔女の瞳のことだろう。運命だなんだとかそんなことは知ったこっちゃないが、佳蘭の存在は何も知識がない俺からすれば心強い。
上を見上げる。すっきりとした青空と気ままに流れる白い雲。答えなんてとっくに決まっていた。
「よろしく頼むわ。頼りにさせてもらうぜ」
「契約成立ね。しばらくの間よろしくお願いするわ」
佳蘭は堂々とした輝くような笑顔で俺に微笑みかける。柔らかな潮風が吹き、佳蘭の流れるような金髪を巻き上げた。
こうして俺たちは一歩踏み出した。自分たちの意思で確実に。いずれこの一歩を後悔することになるとは露とも知らずに。
——まだ白滅の月に気が付かない。