2-1.
制服に着替え直し、電車で学校へ向かう間の記憶がなかった。
風呂に入ったのに全身が汗にまみれ、心音がやけに速くて落ちつかない。車内は混雑のピークを過ぎていて、隣の人と間隔をあけて座れたのが唯一の救いだった。反対側の座席の窓に映る自分を見て、これは誰の顔だろうと思った。萎れた花、いや、濡れそぼって黒ずんだ雑巾みたいな顔だ。自分でも見たことのない顔だった。
電車を下りると、湿った夜風に頬をたたかれた。午後七時三十分。七時前に日の入りを迎えるこの季節は、今ごろになってようやく夜の帳が下りる。
正門のゲートは警察によって封鎖されていた。先ほど電話をかけてきた勅使河原という警官が指示を出していたようで、太樹が名乗ると警備に当たっていた若い制服警官は太樹を敷地内へと通してくれた。
ゲートの電源は正門からもっとも近い校舎である南館の一階に配置されている守衛室にあり、今は警察が自由に出入りできるように開放されたままになっていた。いつもの癖で生徒カードをタッチしようとしたが、よく見てみるとカードを載せるパネルに青いランプは点灯していなかった。
205教室へ行ってください、とゲートのところで制服警官から指示を受けた。午後五時すぎまで翼とともにテスト勉強をしていた二年五組の教室のことだ。翼の所属する学級のホームルームで、太樹は翼とは違い二年七組の生徒だった。
南館、本館、北館と三つある校舎のうち、ほとんどのホームルームが本館に集まっていた。205教室は本館の二階、西階段を上がってすぐ右手にあり、太樹は本館の西側にある自分の靴箱で上履きに履き替えてから二階へと向かった。
階段を上る途中、何人もの警察官とすれ違った。誰もが太樹を一瞥し、脇を通り過ぎるなり内緒話をするような小さい声で会話を交わした。「あれが魔王?」「みたいだな」。どれだけ軽蔑されてももう胸は痛まないと思っていたのに、大人たちの冷ややかな視線と小声に胃のむかつきを覚えた。苦しい。
階段を上りきると、廊下を漂う空気が変わった。スーツを身にまとい、左腕にえんじ色の腕章を巻いた警察関係者らしき男たちでごった返している。あちこちで飛び交う会話がひどい雑音に思えて耳に障り、太樹は思わず足を止めて顔をしかめた。
「鬼頭」
廊下の壁から突き出すように設置されている205教室のネームプレートが見えた時、見覚えのある男に声をかけられた。太樹のクラスで担任を務める情報科教師、羽柴良輔だった。
「先生」
「大丈夫か」
羽柴は太樹に歩み寄り、頭を撫でるような手つきで太樹の額にかかる前髪をかき上げた。
「顔色が悪い。無理して来ることはなかったのに」
「先生、翼は」
額から頬へと移っていた羽柴の手を払いのける。太樹より少し背が高く、年齢は三十代後半。知的な印象を与える銀縁眼鏡がトレードマークの羽柴を軽く見上げながら太樹は尋ねた。
「翼は、どこに」
羽柴は眼鏡の奥の瞳をかすかに揺らし、静かに首を横に振った。
「ここにはいない。あの子の遺体はすでに警察が運び出している」
「警察」
「鬼頭」
太樹になにを言わせるつもりもないのか、羽柴はおもむろに太樹のからだを抱き寄せた。
「心配しなくていい。俺はきみの味方だ」
味方。羽柴の口にしたその一言で、太樹は自らの置かれた立場を十分に理解した。
太樹がここへ呼ばれた理由。
警察が、太樹に会いたがっている理由。
「あぁ、お見えになっていましたか」
205教室のほうから声がして、羽柴は太樹を抱きしめていた腕を緩めた。太樹は羽柴とともに声の主を見やる。ダークグレーのスーツをまとった警察関係者だった。
「お待ちしておりました。先ほどお電話した勅使河原です」
なんとなく耳に覚えのある声だと思ったら、太樹を呼び出した刑事だった。額の広い、白髪交じりの頭は電話越しに聞いた声から想像した容姿とそれほどかけ離れていなかった。五十は過ぎているだろう。電話で聞くより、彼の生の声はもう少ししわがれて聞こえた。
太樹の立つほうへとゆっくり歩を進めながら、勅使河原は妙に余裕のある笑みを湛えて太樹に言った。
「このたびはご愁傷様です。大切なご友人を亡くされて、さぞご心痛のことでしょうな」
どこか上から物を言うような口調からは、勅使河原が翼の死を悼んでいる様子は微塵も感じられなかった。この人は敵だ。直感が耳もとでささやいてくる。
「さて」
勅使河原は太樹を招くように右腕を廊下の先へと伸ばした。
「立ち話もなんですから、どうぞこちらへ。隣の教室をお借りしているのでね」
どっしりと腰を据えて話そうという魂胆らしい。あるいは、太樹を逃がさないよう閉じ込めておこうという思惑もあるのか。
「私も同席しますよ、勅使河原警部補」
歩き出そうとした勅使河原に、羽柴が眼鏡のブリッジを押し上げながら言った。勅使河原は嫌な顔をすることなく、むしろなお余裕そうな表情を浮かべて切り返した。
「それは『監視班』としてのご判断ですかな、羽柴先生?」
羽柴の目つきが勅使河原をにらむようなものに変わる。警視庁の捜査員が忙しなく行き交う廊下の空気は、夏の夜とは思えないほどひんやりとしている。
太樹は隣の担任教師を見やった。
「先生、監視班って……?」
翼からなんとなく聞いていた。
魔王の復活に備え、政府は優秀な官僚を集めて『魔王対策チーム』なる機関を組織しているという。将来魔王となる太樹も、勇者として太樹を討つ未来を背負った翼も、その組織を動かしている大人たちから日々監視されているのだそうだ。魔王復活の瞬間を逃さず、迅速に対応して被害を最小限にとどめるのが狙いだとか。
組織の中にはさらに細分化されたセクションが存在し、太樹の体調や行動を監視する『監視班』、翼とともに魔王との戦いに備える『戦闘サポート班』、魔王以外の魔族や魔力に関する研究、情報収集を担う『魔族対策班』など、それなりの規模の人数がこの組織にはかかわっているという。
今、勅使河原は羽柴に対し「監視班としての判断」と言った。高校教師として太樹の担任をしながら、実は魔王対策チームの人間であり、太樹を監視する任務に就いていた。羽柴良輔という男の立場はそういうことだったらしい。彼の本業は教師ではなく、国に仕える役人なのだ。
「すまない、鬼頭」
太樹を見ることなく、羽柴は静かに目を伏せた。
「意図的に隠していたわけじゃなかった。ただ、ここでの俺はただの高校教師。他の生徒ときみを区別して扱うことは適切とは言えない。だから」
「いいんです、別に。わかってますから」
自分を取り巻く環境は普通じゃない。他の生徒とは根本的に違う。太樹はいろいろなことをあきらめながら生きている。今に始まったことじゃない。
羽柴は気を取り直し、強気な姿勢で勅使河原に言った。
「よろしいですね、勅使河原警部補。鬼頭への聴取、私も同席します」
「えぇ、かまいませんよ。ただし、我々の捜査の邪魔をするようなことがあれば即刻ご退席いただきますから、そのつもりで」
「そちらこそ、聴取の過程での不用意な発言は慎んでいただきますよ。彼はまだ高校生だ。悪い意味で特別扱いするような言動は人権侵害行為に該当します。そのときは政府を通して警察庁上層部に抗議させていただきますので、あしからず」
人権、と勅使河原は意味ありげに顎を上向け、羽柴の隣で気配を消すようにたたずむ太樹を見下ろした。
「人権ねぇ」
太樹のことを人間だとは思っていないような目だった。こうした冷たい視線に晒されながら生きてきて、四月で十七年が経った。「誕生日おめでとう」と言ってくれたのは、家族と、翼だけだった。