2-2.
「きみがそう考えた根拠を聞こうか」
十秒を超える沈黙のときが流れたのち、羽柴は銀縁眼鏡のブリッジを押し上げながら太樹に言った。
「翼が殺されたと推定される時刻、俺は職員会議に出ていた。一部の職員で構成される委員会だったが、アリバイを証明してもらうには十分だろう」
「えぇ。家庭科の横手先生も同じ会議に出席されていましたよね。容疑者と思われていた一年の飯島剛のことで話を聞きに行ったんですけど、翼が殺された日は五時十五分からあなたが出席したのと同じ会議に出ていたと言っていました。そのせいで、飯島のアリバイがなくなった」
「では、疑わしいのは俺ではなく、飯島剛のほうではないのか」
「飯島には犯行は無理です。彼は先端恐怖症で、翼は刃物を使って殺されている」
「なるほど。先端恐怖症の彼が選び得ない凶器というわけか」
「さらに、二年の円藤正宏は重度の高所恐怖症で、校舎の二階ですら窓に近づくことができません。そんな円藤が窓際の席に座った翼を殺すことはまず無理だ。それから、物理の大久保先生と生徒会長の臼井麻里花は恋愛関係にあり、翼が殺された時間、二人きりで物理科準備室にいた。その事実を隠すために二人はそれぞれ嘘をつき、翼の死亡推定時刻に学校内で一人きりだったと証言していますが、その嘘はあくまで恋愛絡みの嘘であり、翼殺しを隠すためのものじゃない。二人きりになれるチャンスをこそこそ窺っていたくらいなんだから、そんな絶好のタイミングを殺人行為でつぶしてしまうとは思えないし、なによりあの二人には翼を殺す理由がない。理由という意味では、翼の次に殺された有野芽以も含めて、容疑者全員がそうだったと言えるわけですけどね。誰一人、翼を殺したいとは思ってなかった」
「俺も同じだ」
羽柴は淡々と主張する。
「俺にも翼を殺す理由がない」
「そうかもしれない。でも、先生にしか翼を殺せなかったことは間違いないんです。翼が殺された状況から考えて、今回の犯行は計画的におこなわれたものじゃない。だからこそ、犯行が可能だったのは先生ただ一人に絞られてしまう」
羽柴はしばしの間口を閉ざし、やがて「聞こう」と太樹のたどり着いた結論への道筋について問うた。
「俺にしか翼を殺せなかったと、きみが自信を持って言いきる理由は?」
眼鏡の奥の真っ黒な瞳に、底知れぬ狂気のようなものを見た気がした。背筋に薄ら寒いものを感じたが、怯んでいる暇はない。
腹に力を入れ直し、太樹は理路整然と翼の殺された状況を説明した。
「電話です」
「電話」
「はい。あの日、俺が不用意に魔力を使ったせいで、魔王対策チームの加賀さんという人が翼のスマホ宛てに電話をかけましたよね。俺の魔力の使用状況を確かめるために。西本さんに確認してもらったところ、そのときの通話の内容は録音されていませんでした。でも、加賀さんははっきりと覚えていてくれたんです。あの日の翼との電話の途中で、翼と電話を代わった人がいたことを」
羽柴の瞳がわずかに揺れる瞬間を太樹は見逃さなかった。それを動揺ととらえるか、余裕の表れととらえるか、今はまだ判断がつかない。
「あなただったんです、羽柴先生。あの日、あなたは加賀さんと電話をしている翼に背後から近づき、声をかけた。相手があなた、すなわち魔王対策チームの人間であれば、電話を代わってほしいと言われても翼は疑わなかったはずだ。翼は素直にあなたの要求にこたえ、スマホを手渡し、心を許していたあなたに対しなにげなく背を向けた。その直後のことだったんじゃないですか、あなたが翼の背中にナイフを突き立てたのは。加賀さんとの通話を終えた翼がホッと一息ついたその瞬間、あなたは隠し持っていたナイフで翼の心臓を貫いた。その傍らで、加賀さんとの通話にも淡々と応じ続けたんです。通話を終えるその時間まで翼が生きていたように見せかけるために」
つまり実際には、翼が殺されたのは午後五時十五分よりも前だった。仮に通話開始から五分後の五時十二分、有野芽以が南館一階の廊下で立ち止まり始めたその時刻が犯行の瞬間だったとすると、それから先の三分間は羽柴がずっと加賀と話し続けていたというわけだ。これならば、通話履歴だけを見ると翼が五時十五分まで加賀と通話していることになり、それ以降に殺されたと思わせることができる。加賀に妙な疑いを持たせないために、通話を終える直前、まるで翼がすぐ隣にいるかのように「翼、加賀と代わるか」などといった小芝居を挟むことくらいはしただろう。もちろん、実際に通話を終えたのは翼ではなく羽柴だった。
この方法なら羽柴のアリバイを崩せることに気づいたのは、悔しいが、あの嫌味な勅使河原警部補のおかげだった。西本宛てにかけた電話で太樹と代わるよう指示を出し、太樹はその後、再び西本と代わる前に勅使河原からの電話を切った。
そのときだ。同じことが翼と犯人の間でもおこなわれていたのではないかと気がついたのは。
確かに翼のスマートフォンには五時七分から五時十五分まで加賀と通話していた記録が残っていたが、その記録がイコール翼本人が話していたという証明にはならない。勅使河原からの電話を切ったのが西本ではなかったように、勅使河原と最後に話したのが太樹だったように、通話終了の瞬間に加賀と話していたのが翼ではなかったとすれば、ほんの数分ではあるものの、翼の死亡推定時刻は前倒しになる。
そうしてつくられた数分間のうちに翼を殺せる人物。見方を変えて、この方法で数分間の空白をつくることが可能だった人物。
その人物は、翼のスマートフォンを通じて加賀と通話をしていた羽柴でしかあり得ない。
「だが、俺は会議に遅刻していないぞ」
羽柴は冷静な口調で反論をくり出した。
「あの日、俺は五時十五分に開始された会議に定刻どおり出席した。仮に俺が翼を殺し、五時十五分まで加賀と通話をしていたのだとしたら、会議に遅刻していたはずだ。この205教室から職員室へ移動し、会議の資料を持ってからさらに一階の会議室へ移動するとなると、どうがんばっても一、二分は遅れてしまう」
もっともな意見だったが、想定内の弁解だ。
羽柴の言うとおり、本館二階の205教室から南館二階の職員室へ移動するだけで、走っても三十秒弱はかかる。そこからさらに一階の会議室へ下りる場合、どれだけ急いでも一分は必要だ。しかし羽柴は会議には遅刻していないというのだから、五時十五分まで205教室に残り、駆け足で会議室へ向かったというルートを取ったというのはあり得ない。全力疾走で会議室にすべり込んだのだとしたら、それはそれで会議に出席した教員の誰かが覚えていたはずだろうから、証言が上がっていないということは、羽柴はごく自然に会議の開始時刻に間に合っていたということになる。
では、彼は実際どのような行動を取っていたのか。
「翼を刺し殺してすぐ、教室を出たんでしょ」
冷静さを意識していたはずの口調がだんだん崩れてきていることを実感しながら、太樹は言った。
「翼は心臓を刺され、即死だったと聞いています。仮にその時刻が五時十二分だとして、あなたはそのとき加賀さんと通話しながら、翼のスマホを持って205教室を出たんです。いかにも翼がすぐ隣にいるように装いながら通話を続け、渡り廊下を渡って本館へと移動したあなたは、職員室へ立ち寄り、会議の資料を持って、一階の会議室へと下りた。その時点でようやく通話に区切りをつけ、あなたが加賀さんからの電話を切った。そして、翼のスマホを持ったまま、職員会議に出席した」
羽柴が軽くあしらうように鼻で笑った。
「遺体が見つかったとき、翼のスマートフォンは翼が持っていたはずだが」
「あんたが戻したんだろ。翼の遺体を最初に見つけたのは守衛の武部さんだったけど、あの人は翼の遺体には触れていない。翼の背中に刃物が刺さっていたことに驚いて、慌てて職員室へ駆け込み、応援を頼んだ。武部さんからの要請に応じたのは養護の先生とあんただったって俺に教えてくれたのはあんただったよな、先生。そのときだろ、翼のスマホを翼の手もとに返したのは。あんたが我先にと翼に駆け寄ったのは、それが一番の目的だったんだ」
翼宛てにかかってきた電話を五時十五分に切ったのが羽柴で、その羽柴は五時十五分に開始された職員会議に遅刻することなく出席している。それを可能にするためには、羽柴は翼のスマートフォンを持ったまま会議に出席する他にない。警察による捜査が始まった時点で翼のもとにスマートフォンがあったことは間違いないのだから、遺体に真っ先に駆け寄った羽柴の手によって戻されたとしか考えられない。
物的証拠は得られないかもしれないが、この不自然な時間のズレを論理的に解決するにはこの方法しかあり得ないのだ。羽柴以外に、翼を殺せた人物はいない。