2-1.
最終下校時刻である午後六時の時点で、首都学園高校に残っている人間は四人だけになった。それが美緒の希望だった。
生徒を追い払うことは訳なかったが、教職員を退勤させるのには少々苦労したようだ。西本が警察による緊急の点検作業があると嘘をつき、午後六時までに全員帰宅させるよう仕向けた。理事長や校長などの役職者を納得させるのには特に骨を折ったらしい。
美緒の指示に従い、太樹は一人で205教室にいた。日々献花が寄せられる窓際の翼の席に座り、静かに目を閉じ、翼のことだけを考えた。
あれをやりたかった。こんなところへ行きたかった。そうした希望はいっさい思い浮かばない。太樹が翼に望んだのは、二人で一緒に、普通の学生生活を送ること。ただそれだけ。
特別に生まれ、いつしか笑い方を忘れてしまった太樹の隣に、翼は笑顔で寄り添ってくれた。それで十分だった。それ以上の望みはない。
翼がいてくれるだけでいい。この命が尽きる最期の一瞬まで、誰よりも近くにいてほしい。
そんなことを願う傍ら、太樹にはずっと考えていたことがあった。
最後には必ず、翼に「ありがとう」と伝えたい。そのためには、魔王にからだを乗っ取られてからも自我を保つ必要がある。
その方法を知りたかった。翼が勇者として魔王を倒したその瞬間が名実ともに二人の別れのときとなる。最後に翼の聞く声が魔王の断末魔の叫びであってほしくない。太樹の、太樹の声で紡ぐ、心からの「ありがとう」であってほしい。
翼にこの話をしたことはない。ずっと一人で考えていた。答えなんて出ないし、そんな都合のいい方法などないと頭ではわかっている。
けれど、最後の最後くらい、こんな小さな望みだけでも叶えてほしいと願わずにはいられなかった。叶わないことのほうが圧倒的に多い人生を送ってきたのだから。
「なぁ、翼」
ゆっくりとまぶたを持ち上げ、太樹は献花でいっぱいの翼の机にそっと手を触れた。
「俺、やっぱり嫌だよ。おまえのいない世界なんて」
考えれば考えるほど許せなかった。翼を殺した犯人は、翼のこれまでの苦労や努力をすべて無駄にした。一年後、魔王を倒したあとの翼に待っていたはずの人生までをも奪い取った。太樹と過ごす、魔王討伐のことばかり考える人生ではなく、自由を手にし、好きなように生きていけるはずだった人生を。
許せない。犯人のことも、原因をつくった自分のことも。
だからこそ、この手で幕を下ろさなければならない。
翼のために。太樹自身のために。
それから、想い人を失った美緒のためにも。
「鬼頭」
太樹だけがいた205教室に、太樹以外の声が響いた。午後六時に205教室で、と待ち合わせたその人は、教室前方の扉からゆるやかに足を踏み入れ、静かな足音とともに教卓へと歩み寄った。
太樹は音もなく立ち上がる。許してはいけない。この人のことを。
「なにを始めようと言うんだ、いったい」
どこまでもとぼけたようなことをその人は口にした。怒りの感情が少しずつこみ上げてくるのがわかる。
翼の席を離れ、太樹も教卓の前へと歩み寄る。向かい合って立ったその人に、太樹は前置きを据えることなく告げた。
「翼を殺したのはあなたですよね、羽柴良輔先生」
*
一年八組のホームルームである北館の108教室から、隣の校舎である本館205教室の様子を見上げることはできなかった。
美緒に与えられた座席は、窓側から二列目の一番後ろだった。一人きりの教室で自分の席に着き、深い呼吸をくり返しながら美緒は心を無にしようとしていた。
なにも考えない。ただ課せられた使命だけをこなせばいい。
頭ではわかっているのに、どうしても邪念が湧き上がるのを抑えられない。
幼い頃から知っている人だった。もともとは監視班ではなく戦闘サポート班にいた人で、美緒に高度な体術をたたき込んでくれたのもあの人だった。
思い返せば、あの人が監視班に異動したいと言い出したことこそ始まりの合図だったのかもしれない。監視班に身を置いていれば、魔王のことも勇者のことも逐一行動を把握できる。自分に都合のいいタイミングで目的を果たすためにはもってこいのポジションだし、総務省出身でITにも強いとくれば、人事権を握る連中に対する印象もきっといい。
柄にもなく、ため息がこぼれ出る。
いつからあの人はこんなことを考えていたのだろう。そもそもなぜこんなことをしなければならなかったのだろう。勇者を殺して自分が勇者に、なんて、あの人には似合わない。似合わない、全然。
「覚悟は決まりましたか、美緒さん」
西本が108教室に入ってくる。太樹からの頼まれごとを果たすため一度学校を離れていたが、その手にジュラルミンケースを持って戻ってきた。
美緒のために取ってきてくれたそれから目をそらし、美緒は首を横に振りながら立ち上がった。
「ありがとう、龍ちゃん。精いっぱいのことはやるつもり」
「ダメですよ。そんな曖昧な答えなら、こいつは渡せません」
西本はジュラルミンケースを持ち上げ、赤子を抱くように胸にかかえた。
「中途半端に戦えば、あなたがやられてしまう。あの人は強いですから。あらゆる意味において」
「わかってる。でも……」
美緒の表情は晴れない。こんな未来が待っているなんて、いったい誰が予想しただろう。そんなことばかり考えてしまい、踏み出す勇気が持てずにいた。いろんな意味で、できることなら戦いたくない相手だった。
「お気持ちはわかります。あなたはあの人を信頼していましたからね」
ジュラルミンケースを美緒の座席の机に置き、西本は美緒の正面に立った。
「でも、自分も鬼頭さんの意見に賛成です。翼さんと同じように、あなたもこの世界を守りたいという気持ちを強くお持ちの方だ。あなたになら、自分もこの世界の未来を自信を持って託せます。翼さんの無念を晴らせるのはきっとあなただけですよ、美緒さん」
「龍ちゃん」
「大丈夫です」
笑みを湛える西本の右手が、美緒の左肩をポンとたたいた。
「あなたは強い。あなたが常に胸に秘めている正義感は、必ず悪を討ち滅ぼします。鬼頭さんもそれをわかった上で、あなたにこの役目をまかせたんだと思いますよ」
「あの人が」
魔王の器の、どことなく頼りない顔が脳裏をよぎる。
生きたいという意思が感じられず、まるでのっぺらぼうのような無表情。発する言葉にも力がない。生きながらにして死んでいるような立ち姿。
来る日も来る日も、彼は背負わされた運命に悲観し、絶望しながら生きてきたのだろう。けれど、そんな彼の願いは奇しくも、美緒たち人類の願いと完全に一致していた。
勇者が抜かりなく魔王を倒し、世界の平和を取り戻すこと。
魔王の魂をその身に宿し、自身は長く生きられないと知りながら、彼の心は一人の人間としての希望を今でも持ち続けている。魔王復活と同時に自我を失い、勇者に倒され、魔王の魂の容れ物としての役目を終えたあとの世界が平穏無事であることを、魔王復活に伴う犠牲が最小限で済むことを、この世界で誰よりも彼が強く願っている。
その願いを、彼は翼に託していた。けれど今、翼はもうこの世にいない。
新たに願いを託す者が必要だった。心から信頼できる人に、彼は勇者になってほしいと願った。
美緒も同じだ。勇者として正しく魔王を倒してくれる人が勇者になるべきだと考えている。それは本来魔王の望みではなく、勇者側の、人類側の望みであるべきなのだが、なにがどうしてあの人の願いとして聞き入れることになっているのだろう。気に入らない。
美緒は静かに立ち上がり、西本に運ばせたジュラルミンケースを開けた。ハンドガンや小型のナイフが整然と収められる中、一本の真っ赤なリボンがケースの片隅で活躍のときを待っていた。
真っ先にリボンに手を伸ばす。今結んでいるピンクのリボンをほどき、赤いリボンに結び替える。
気合いを入れたいとき、美緒はいつもこの赤いリボンをポニーテールのてっぺんに結ぶ。「派手すぎる」と翼に何度も顔をしかめられた、お気に入りのヘアアクセサリーだ。
「よくお似合いですよ、美緒さん」
西本が嬉しそうに笑った。バカにされているのかと一瞬考えたが、相手が西本であることを思い出す。この人は昔からそうだ。場違いなほど能天気で、けれど理知的で勘のいい、明るい光と前に進む力をチームにもたらす冴えた若者。
制服の中に仕込めるだけの武器を仕込み、「よし」と美緒は小さく吐き出す。
魔王の、いや、意図せず魔王の器となった男子高校生の願い。
そして、人一倍悩み、苦しみながら、誰よりも勇者らしくいようとした翼の願い。
正しく勇者となれる者が剣を振るい、世界の平和を守ること。それが、相対するはずだった二人の願い。
叶えられるのは、わたしだけ。
「行こう、龍ちゃん」
覚悟は決まった。ジュラルミンケースを席に残して歩き出し、美緒は誰にともなく宣言した。
「翼くんの望んだ未来は、わたしが守る」