5-2.
「申し訳ありません。お食事中でしたか」
「いいよ。こっちこそ、あなたが来るってわかってたのにのんびりしすぎちゃったかな」
臼井が箸を置くと、仲間の女子たちが「席、はずそうか」と臼井に尋ねた。臼井は彼女たちを部屋から追い出すことはせず、座ったまま太樹たちと話をする体勢を整えた。
「明城くんの事件のことだったね」
「えぇ。事件当時、学校に残っていた方全員にお話を伺っています」
ふぅん、と美緒の返しに対し相づちを打った臼井だったが、口もとこそ笑みを浮かべているものの、いかにも聡明で気の強そうな印象を受ける涼やかな目もとはまるで笑っていなかった。太樹のことを警戒しているのか、他の女子二人も表情をこわばらせている。
「おもしろい話はできないよ」
どこか挑戦的な口調で、臼井は事件当時の自らの行動について語った。
「あの日は最終下校時刻の直前までずっと203教室にいた。最初から最後までずっと一人だったから、アリバイがないって指摘にはろくに言い返せないんだけどね」
「最初からというと、三時半頃からということでしょうか」
「そう。クラスのみんなはさっさと帰っちゃって、私一人が教室に残った。学校を出たのは五時五十分頃だったかな」
美緒はうなずき、太樹も心の中で納得した。西本が美緒に渡した捜査資料によれば、確かに臼井は午後五時五十二分に正門のゲートをくぐっている。スマートウォッチの位置情報についても、彼女の証言どおり、放課後は終始彼女のホームルームである203教室にいたと示されていた。今のところ、彼女の話に矛盾した点はない。
「ご存じのことと思いますが、事件は205教室で起きました。あなたのいた203教室の二つ隣です。なにか物音を聞いたり、話し声が聞こえてきた、なんてことはありませんでしたか。翼くんの声なども含めて」
「警察にも聞かれたけど、よく覚えてないの。私、勉強中はずっとイヤフォンをしているから、余計に聞こえなかったんだと思う」
「そうですか。では、誰かが廊下を通ったのを見た、ということは?」
「ごめんなさい、それも記憶になくて。何人かは通ったような気がするんだけど、具体的に誰だったかまでは、ちょっと」
そんなもんだよな、と太樹は口には出さないまでも臼井の話は理解できた。集中力を保つためにイヤフォンをしていたのだろうから、廊下の様子や些細な物音に気が向いたとは考えにくい。
ただし一点だけ、太樹はきちんと確かめておきたいことがあった。
「本当に、なんの音も聞かなかった?」
はじめて太樹が口を開くと、臼井はあからさまに敵意のある目をして太樹を見た。
「言ったでしょ、よく覚えていないって」
「本当に? 本当になんの音も思い出さない?」
「なにが言いたいの?」
臼井は立ち上がり、怒りを露わにして太樹をにらんだ。
「どんな音を聞いていたらあなたは満足するわけ? 勉強に集中してなにが悪いの?」
「いや、悪くはないよ。ただ……」
太樹の言葉を遮るように、誰かのスマートフォンが机の上で振動した。臼井のものだったらしく、臼井はクリーム色のケースに入ったそれを手に取ると、画面の表示を見るなり太樹に向けていた怒りの表情を収め、明るい声で応対し始めた。
「うちのOBからの連絡だよ」
臼井とともにランチタイムを過ごしていた女子の一人が教えてくれた。電話の相手は首都学園高校の卒業生で、卒業生全員で構成される同窓会の役員をしている人だそうだ。九月に開催される文化祭の件で、今日の昼休み中に連絡を取り合う約束になっていたのだという。OBとの連携も生徒会の仕事の一つということなのだろう。
電話は長くなりそうで、太樹と美緒はひとまず生徒会室をあとにした。教室の扉を閉める前に、太樹はもう一度だけ、スマートフォンを左耳に押し当てる臼井の姿を瞳に映した。細い指の隙間から、優しいタッチで描かれた小さな女の子のイラストが覗いていた。
「気になりますか」
扉を閉めるなり、美緒が間髪入れず口を開いた。
「彼女、嘘をついていますよね」
「嘘?」
「そうでしょう。彼女が本当に午後五時五十分頃まで203教室にいたなら、円藤さんが聞いたのと同じ音を聞いていたはずです」
「脚立の音のことを言ってるのか」
えぇ、と美緒は自信を持ってうなずいた。
確かに、太樹もその点は気になった。彼女の証言に嘘がなければ、彼女は間違いなく聞いているはずの音を聞いていないことになり、矛盾が生じる。
事件当時、レスリング部の円藤正宏は翼の殺された205教室のすぐ隣の204教室で例の脚立の倒れる音を聞いている。時刻は午後五時三十分頃。もしも臼井が証言どおり、午後五時五十分頃まで203教室にいたのなら、円藤と同じように中庭で脚立の倒れた音を聞いていたはずだ。203教室は円藤のいた204教室のすぐ隣で、いくらイヤフォンをしていたとはいえ、大きな脚立が勢いよく倒れる音ならまったく聞こえないということはないだろう。実際、円藤は窓越しでもすごい音だったと証言している。
だが、その点についてはたった今解決した。美緒の言うとおり、彼女は嘘をついていた。
「あんたの言いたいことはわかる」
太樹は静かに足を踏み出し、生徒会室の前を離れた。
「でも、その件に関しては、俺は事件とは無関係だと思う」
「なぜです? たとえば脚立が倒れたちょうどその瞬間、彼女は翼くんを殺していたかもしれないじゃないですか」
「翼が殺されたのは205教室だ。隣の204教室で音が聞こえたのなら、205教室にいたって同じように聞こえたはずだろ」
「気がつかなかったんですよ、翼くんを殺すことに夢中になっていて。あるいは、殺害直後の彼女は興奮状態にあり、外界の音を無意識的にシャットアウトしていたのかもしれません」
「あぁ、そうかもな」
適当にあしらうような返しになってしまい、案の定美緒は頬を膨らませて太樹の前に立ちはだかった。
「なんですか、その気のない返事は! わたしの見解が間違っていると言うのなら、どうぞはっきりとおっしゃってください」
「怒るなよ」
「怒りますよ! やる気あるんですか!」
「あんたこそ、本気で翼を殺したヤツを見つけ出したいなら、もう少し観察眼を磨いたほうがいいぞ」
目を点にする美緒の隣をすり抜け、太樹は別館の建物の出入り口へと向かう。美緒は駆け足で追いかけてきて、扉をふさぐように回り込み、やっぱり太樹の前で仁王立ちした。
「どういう意味ですか、今の」
「どうって、言葉どおりの意味だよ」
「またそれですか。ちゃんと説明してください」
素直だな、と太樹はつい感心してしまった。だからこそ、彼女は強いのかとも同時に思う。できないこと、わからないことを素直にそうと認めること、自分の弱さを受け入れることは、強い人間でなければできないことだ。
生徒会室のほうへと半分振り返りながら、太樹は美緒の気持ちにこたえた。
「見たか、彼女のスマホケース」
「スマホケース?」
「そう。臼井さんの持っていたクリーム色のケース、女の子のイラストが描かれてただろ」
「そう……でしたか」
「あぁ。どこかで見たことあるイラストだなと思って、ずっと考えてたんだ」
「思い出したんですか」
「うん。ベースの色は違うけど、同じデザインのケースを使ってる人がいた」
「誰です?」
美緒が仁王立ちでふさいだ扉を、見知らぬ男子生徒二人が迷惑そうにくぐり抜けて別館に入ってきた。太樹たちをにらむように脇を通り過ぎ、彼らは生徒会室へと消えた。
廊下が再びしんと静まりかえるのを待ってから、太樹は回答を口にした。
「大久保先生」
「大久保先生が?」
「覚えてないか、昨日物理科準備室で先生から話を聞いたときのこと。あの人、机の上にスマホを置いてただろ。画面をうつ伏せた状態だったから、ケースのデザインがよく見えてた。男の人が使うにしてはやけにかわいらしいイラストのケースだなと思ったんだけど、今ならその理由がわかるよ」
まさか、と美緒は両眉を跳ね上げた。
「臼井さんと、おそろい……?」
「そういうこと。大久保先生のケースは、水色のベースに小さな男の子が赤い風船を持ったイラストが描かれてた。一方、臼井さんのケースはクリーム色のベースに女の子のイラスト。大久保先生のケースと同じように、女の子は紐付きの赤い風船を手にしてた。たぶん、二台のスマホを横に並べると、二つの絵柄が一つにつながるんじゃないかな。いわゆる、ペアケースってやつ」
太樹もはじめはまさかと思った。だが、理由がわかればすべてのことが一つにつながる。
彼女は嘘をついておらず、またある意味では嘘をついていた。そしてその嘘は、翼殺しとはまるで無関係の嘘だ。
彼女は殺人の罪を隠すために嘘をついたのではない。かよっている学校に務める教員と恋愛関係にあり、学校内でこっそり会っていたことを隠したかったのだ。
「信じられません」
美緒はいまだに驚きを隠せない顔をしてつぶやいた。
「彼女は生徒会長ですよ。それなのに、大久保先生とそういう関係だったなんて」
「まぁな。でも、賢い彼女が選びそうな手段だと思わないか。教師と生徒の恋愛じゃ大っぴらにはできないけど、スマホケースならペアにしていてもバレにくい」
「えぇ、まさに。だとすると、彼女が例の脚立の音を聞かなかった理由は」
「その時間、彼女は203教室にいなかったから、ってことになるんだろうな」
「大久保先生のところにいたということですか。確かに、物理科準備室にいたのなら脚立の音を聞いていなくてもおかしくありませんが……」
「そう考えるしかないだろ。先生は事件当時、物理科準備室に一人でいたと言ってた。それもおそらくは嘘で、本当は臼井麻里花と二人でいたんだ。彼女は彼女で、そのことを隠すために203教室にスマートウォッチを残し、ずっと自分のホームルームにいたように演出した。二人とも、まさかその日に翼が殺されるとは思わなかったはずだから、彼女がスマートウォッチを教室に残したのは純粋に大久保先生と一緒にいたことをごまかしたかっただけだろう。もしかしたら、大久保先生の指示だったのかもな。生徒に手を出したことがバレたら、この学校にはいられなくなるだろうから」
「ですね。臼井さんだって、ヘタをすれば退学なんて話にもなりかねません。二人で協力して、密会を続けていたのでしょう」
気持ちはわからないでもないが、よくやるよな、と太樹はひとごとのように心の中でつぶやいた。二人ともが捜査関係者の前でさえ嘘を突き通したのだから、それだけ本気の恋愛だということなのだろうが、それにしても、だ。
「臼井さんと大久保先生、二人ともシロなのでしょうか」
ぼそりとつぶやかれた美緒の口調は、わかりきった答えをあえて尋ねているようだった。「俺はそう思う」と太樹は答えた。
「二人が共謀して翼を殺したとは思えないし、嘘をついた理由は事件当時のアリバイのためでもない。たぶん、二人とも事件とは無関係だ。そっとしておいてやろう」
太樹たちが暴きたいのは教師と生徒の情事ではない。そんなことにかまっている余裕はないし、大久保と臼井のことを無意味に傷つけるようなこともしたくない。「そうですね」と美緒も納得したようにつぶやいた。
「しかし、残る容疑者はいよいよ一人になってしまいました」
「有野芽以、だっけ」
「はい。一年五組の生徒ですが、今日は珍しく欠席していると聞いています」
「珍しく?」
「基本的に休まず学校へ来ている生徒だそうです。家庭環境に問題があるようで、家にいるほうが苦痛なのだと警察の事情聴取で話したとか」
「なるほど。だから彼女は最終下校時刻ギリギリまで学校に残ってたのか」
「えぇ。翼くんが本部の加賀さんとの電話を終えた午後五時十五分以降、五時五十分に守衛の武部さんに声をかけられるまで、南館一階の多目的教室に一人でこもっていたそうです。彼女は映画研究部の部員で、南館の多目的教室は部室として使用されています」
家に帰りたくなくて、学校に残れるだけ残っていた、か。それだけを聞くと、翼を殺すためにわざわざ学校に残ったということはなさそうだ。おそらく彼女は毎日のように放課後を学校で過ごしていただろうから、むしろ彼女に話を聞けば、いつもと違う放課後の景色について教えてもらえるかもしれない。
「今日はどうして学校を休んでるんだ」
「さぁ、そこまでは。仲のいいクラスメイトさんに当たってみたのですが、皆さん知らないと言っています」
「学校に連絡は?」
「確認してみましょう」
別館から出ようとからだの向きを変えた美緒の行く手を遮るように、美緒のスカートのポケットが振動した。なかなか鳴り止まないのは電話がかかってきているからで、美緒は画面の表示を確認し、太樹に「龍ちゃんからです」と告げた。
「もしもし。……え?」
相手は西本だというが、警察官としての彼か、あるいは魔王対策チームとしての彼か、どちらの立場からの連絡だろうか。翼の事件の捜査になにか進展があったなど、いい報告であることを太樹は大いに期待したが、美緒の表情は電話に向かって返事をするたびに厳しいものへと変わっていった。
「最悪です」
電話を切るなり、美緒は神妙な面持ちでつぶやいた。
「始まってしまったかもしれません」
「始まったって、なにが」
スマートフォンの画面を消灯し、美緒は太樹と視線を重ね、言った。
「『勇者の剣』の奪い合いですよ」
西本からの電話は、最後の容疑者、有野芽以の死を知らせるものだった。