1-2.
「やめて」
しばしの沈黙ののち、翼が不意に太樹の胸に顔をうずめた。
「きみは魔王になんかならない」
「バカ言うな。運命は変えられない」
「わからないだろ」
顔を上げた翼ににらまれる。
「なにか……なにか方法があるかもしれない」
太樹をにらんでいるのに、翼の瞳はなにかにすがるように潤んでいた。
見ていられなくて、太樹は静かに目を伏せる。優しいのはどっちだよ、と言ってやりたくてたまらないのに、それさえもただ虚しいだけだとわかっているから口にできない。
どんな慰めの言葉も、二人の間には響かない。
たとえ世界が反転しても、二人が倒し、倒される関係であるという事実だけは決して翻らないから。
「ないよ、方法なんて」
太樹の左の手のひらが、おもむろに翼の座っていた窓側の列の席に向けられる。次の瞬間、机の上に転がっていた翼の青いシャープペンが淡い光を帯び、宙に浮いた。
重力に逆らい、教室の中をひとりでに漂うシャープペン。太樹はそれを見ようとしないまま静かに左手を下ろし、目を見開く翼の首筋に視線をやる。
宙を舞うシャープペンが勢いよく動き出す。まるで放たれたボウガンの矢のように、鋭いペン先が太樹の見やった翼の首筋に向かい、目にも止まらぬ速さで飛んでいく。
翼が大きく息をのんだ。一直線に翼の首めがけて突き刺さりかけたペン先は、首筋からわずか一ミリの隙間を作ってピタリと止まった。
「こんなことができるんだから、俺には」
太樹は顔色一つ、声色一つ変えず言った。
「現状、この地球上で魔力を使えるのは、魔王の魂を宿した者だけ。魔王の復活を待たずして魔力が使えるってことは、俺はいずれ、魔王になるってことだ」
変えられない現実。定められた宿命。
あきらめる以外に道はない。何年も前から、太樹はあきらめてしまっている。
太樹によって与えられた魔力から解放されたシャープペンが重力に従って床に落ちる。息を詰めていた翼が呼吸の音を響かせると同時に、太樹のからだがふらりと傾いだ。
「太樹」
窓に向かって倒れていく太樹の肩を翼が腕を伸ばして支えてくれた。
「大丈夫?」
虚ろな目をする太樹はかすかにうなずいて返す。魔力を使うにはそれ相応の体力を消費しなければならず、使い終えたあとには百メートルの短距離走を全力で走った直後のように息が上がる。今回はそれに加えて軽い眩暈まで起こしてしまい、立っているのもつらかった。
数年前まではもう少し体力があったような気がするけれど、最近では今みたいに微量の魔力を使っただけでこのザマだ。百メートル走でたとえるなら、ろくなインターバルもないまま三本連続で走らされたような疲労感。呼吸が整うまで時間がかかるし、汗もかくし、なにより全身がだるくてたまらない。意識も遠のきかけていた。
翼に抱きかかえられ、太樹は翼の席の一つ前の席を借りて腰を下ろした。少しずつ呼吸が整ってきて、太樹はぐったりと机に突っ伏した。
「カッコ悪。勇者に介抱される魔王とか」
「きみはまだ魔王じゃない。僕もまだ勇者じゃない」
顔を伏せたまま太樹は笑う。翼がどれほど真剣な目をしているか、想像するまでもない。
過去の記録をたどれば、魔王になる少年が十八歳の誕生日を迎えるか否かというタイミングで魔王は復活するという。俺はどうかな、と太樹は最近よく考える。
自宅の庭に植えられた桜の木が、毎年太樹の誕生日を祝うかのように美しい花を咲かせてくれる。見られるだろうか、次の春にも。桜で有名な観光スポットの風景も素敵だけれど、太樹は自宅で見る桜が一番好きで、一番きれいだと思っていた。
十八歳の誕生日を迎えられたらなにをしようか。庭先で桜を眺めながら、大きなバースデーケーキを一人で食べきるというのはどうだろう。それがきっと最期の贅沢になるのだから、少しくらい派手なことをしたっていいはずだ。
休ませたからだが元気を取り戻し始めている。魔王になったら、こんな風に体力を奪われることなく魔力を使えるようになるのかなと考えたら複雑な気持ちになった。
そんな風になりたいとは思わない。魔力なんて、この世界にとってプラスになる力じゃない。
考えるたびに、さっさと倒されてしまいたいと強く思う。魔王の力なんてろくなものじゃない。暴力によって創造された世界が平和になるとは思えない。独裁と専制に明るい未来がなかったことは人類がすでに証明している。
だからこそ、勇者の存在は唯一無二の希望なのだ。
太樹の中の魔王が目を覚ましたとき、翼が秘密裏に所持しているという『勇者の剣』もその本能を覚醒させ、翼に勇者としての力を与えると言われている。太樹は魔力の限りを尽くして世界を壊し、翼は大剣を振るってそれに立ち向かう。
馬鹿馬鹿しい。太樹はため息をついた。
そんな未来を、魔王と勇者が戦う未来をいったい誰が望むだろう。
太樹は魔王として世界を破壊する未来を望まないし、翼もまた、勇者として世界を救うことを望まない。
誰しもが望むのは、このままなにも起こらないことだけだ。これまでどおりの平凡な日々が続くこと。
けれど、その望みは叶わない。
一年後に魔王が復活する未来を避けることは、この星に住む限り、絶対にできないのだ。
「あと一年だ。一年もないかもしれない」
血の気の引いている顔をゆっくりと上げ、太樹はすぐ隣で立ち尽くしている翼を見上げた。
「そのときが来たら、一息に斬り殺してくれよ、翼。おまえにだったら、殺されてもいい」
笑みを向けたつもりだった。翼にならば命を奪われてもかまわないと思う気持ちも本心だ。
中学時代からの親友。翼が友達になってくれていなかったら、こんなにも穏やかな気持ちで運命を受け入れることはできなかったかもしれない。
一生懸命笑っているのに、翼は苦しそうに目を伏せた。机の上の太樹の左手に、翼はそっと自らの右手を重ねる。
「そばにいる」
太樹に寄り添う翼の右手は、汗が引いて冷たくなった太樹の左手を強く握った。
「最期の一瞬まで、そばにいるから」
どれだけ想い合っていても、いつかは別れなければならない。二人にとって、そのときは一年後に迫っている。
時刻は午後五時を回った。もう少し勉強していくと言った翼を残し、太樹は「また明日」という言葉を彼に贈って教室を出た。閑散とした廊下に、上履きで鳴らす足音が異様なほど高く響く。
学年、学級によって場所の決められた靴箱は一つ一つに電子ロックがついていて、タッチパネルに表示される0から9までの数字のうち任意の四桁を暗証番号として設定し、扉を開け閉めする。中は上下二部屋に分かれていて、下段は靴を入れるスペース、上段には学校から一人一つずつ貸与されるスマートウォッチの充電器が設置されている。下校時に充電器にセットして、登校したら腕に巻く。学校側からの突発的な呼び出し連絡などがある場合にもこのスマートウォッチが利用されるため、校内にいる間は常に携帯しておくよう太樹たち生徒は学校から指示を受けていた。
スマートウォッチの充電器を画面の裏側にセットし、靴を履き替え、正門のゲートへと向かう。ちょうど駅の改札のような設備であるそれがアーチ状の門の下に備えられているのは、近隣の高校では首都学園高校ともう二つほどの私立高校だけだ。
太樹たちのかよう首都学園高校の正門では、電子チップの内蔵された生徒カードをタッチすることでゲートが開き、登校、下校が可能になる。生徒の出欠状況を電子管理するために設けられたシステムで、教職員も生徒と同じくカードによって出退勤を管理されている。生徒と違って制服のない教職員については、校内にいる間は身分証としてストラップで首からカードを提げる。生徒、教職員にかかわらず、カードには運転免許証と同様に顔写真が掲載されていて、教職員に身につけさせることで不審者が紛れ込むのを防ぐ役割も果たしていた。
午後五時三分。太樹は青く光っている読み取り機に生徒カードをタッチし、開いたゲートから敷地の外へと出た。そこから最寄りのJRの駅まで徒歩五分。好立地、好待遇とはまさに国内トップクラスの名門私立高校にふさわしい。
電車で三十分をかけて家に帰る。太樹の家は両親ともに健在で、どちらも自らが魔族であることを知っている。太樹の中に眠る魔王が目覚めたとき、今はまだ使えない彼らの魔力が解き放たれ、太樹こと魔王の意に従い、彼らも人類滅亡のために力を尽くすという。人類の希望の光、勇者によって魔王が封じられることのない、魔族が治める世界の構築を目指して。
風呂から上がり、母と談笑しながら夕食を食べていると、一本の電話がかかってきた。取ったのは母だったが、太樹宛てだった。
「ちょっと、太樹」
受話器の口に手を当て、食卓を振り返った母の声がかすかに震えていた。太樹は頬張っていた唐揚げを咀嚼し、のみ込んでから返事をした。
「ん?」
「警察が、あなたと話がしたいって」
「警察?」
やましいことなどなにもないはずなのに、警察というワードを聞いただけで太樹は身が竦むのを感じた。腰の重さを覚えながら食卓を離れ、母から受話器を受け取って耳に押し当てる。
「はい」
『夜分に申し訳ありません。警視庁刑事部の勅使河原と申します。鬼頭太樹さんでお間違いないでしょうか?』
溌剌としているが、年齢を感じさせる男の声だった。太樹が「そうです」と答えると、勅使河原と名乗った刑事はやや声のトーンを落とした。
『突然のご連絡で驚かれたでしょう。申し訳ない。どうか落ちついて、私の話を聞いてください』
嫌な予感しかしない前振りだった。太樹は黙って相手が再び口を開くのを待つ。
『明城翼さんをご存じですね?』
受話器を握る手が震えた。「はい」と太樹は喉の奥から絞り出すような声で答えた。
『大変残念ですが、つい先ほど、明城さんが亡くなられました。あなたがたのかよわれている首都学園高校でご遺体が発見されましてね』
世界から音が消え、時間が止まったような気がした。
なにも聞こえない。なにも目に映らない。
勅使河原の紡いだ言葉だけが、頭の中をぐるぐると無秩序に回っている。
亡くなった。
翼が、死んだ――?
『鬼頭さん』
勅使河原の落ちついた声がようやく太樹の耳に届いた。
『大丈夫ですか』
この人はなにを言っているのだろうと思った。大丈夫なはずがない。気づかいのつもりなら逆効果だ。そんなことより、もっと伝えてほしいことがたくさんある。
呼吸をすることを思い出し、太樹は意識的に息を吸い、吐き出した。
「あの」
声が震えているのが自分でもわかった。勅使河原は『はい』と太樹が次の言葉を紡ぐのを待ってくれた。
「遺体って……翼は、なんで。だって俺、さっきまであいつと一緒で」
『落ちつきましょう、鬼頭さん。詳しいことは現在捜査中です』
捜査中って。まさか。
まさか、翼は。
「翼に会わせてください」
前のめりになりながら、太樹は電話の向こうの勅使河原に言った。
「学校だって言いましたよね? 俺、今から行きます」
じっとしていられなかった。自分の目で確かめるまで信じられない。
翼が、親友が死んだなんて。
ついさっきまで一緒にテスト勉強をしていたはずなのに。
『ほう、お越しいただけますか。それは助かります』
勅使河原の声がやや明るめのトーンに転じた。
『ちょうど今、我々からそちらへ伺おうとしていたところだったのですよ。すぐにでもあなたにお会いしたいと思っていたものですから』
「どういう意味ですか」
警察が太樹に会いたがっている。翼の死と無関係ではないだろう。
一拍おいて、勅使河原は太樹に告げた。
太樹の想像を裏切らない、最悪の事実だった。
『明城さんのご遺体は、背中に鋭利な刃物が刺さった状態で発見されました。事故や自殺を疑うまでもない。明城さんは、何者かに殺害されたようです』