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魔王に愛を、勇者に花束を  作者: 貴堂水樹
第二章 魔王の慧眼
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3-1.

 物理室は東階段のすぐ脇にあり、準備室はその隣だ。物理室とは教室の中からも行き来でき、廊下からも入れる扉がある。

 美緒は迷わず廊下に面した準備室の扉の前に立った。軽く握った右手で扉をノックしようとしたとき、部屋の中からくしゃみの音が聞こえてきた。

「いますね」

 つぶやいてから、美緒はノックした扉をスライドさせた。「失礼します」と言った美緒の声に、二度目のくしゃみの音が重なった。

「すまん。こんな調子でも気にならなければ、どうぞ入って」

 白い不織布マスクを顎のほうへと下げ、物理科教師の大久保卓哉はティッシュで派手に洟をかんだ。太樹は今年も彼の物理の授業を受けているが、美緒の言ったとおり、いつもはさわやかで聞き取りやすい彼の声は鼻にかかり、しゃべりにくそうだった。キリッと男らしい目もとも今は潤み、頬もやや赤らんで、せっかくの男前が台無しだった。

「大丈夫ですか、先生」

 大久保に気づかう声をかける美緒に続き、太樹も物理科準備室へと足を踏み入れ、扉を閉めた。「最悪だよ」とマスクをつけ直した大久保の返事は冴えない。

「学生の頃はちょっと風邪をひいたくらいじゃ全然平気だったのに、社会人になったら急にしんどくてさ。おまけに殺人の疑いまでかけられるし、もう踏んだり蹴ったりだよ」

 洟をすすりながら肩をすくめた大久保は、美緒から太樹へと視線を移した。

「つらかったな。いや、今でもつらいか。きみと明城くんが仲よくしていたことは俺も知ってる。許せないよな、こんなことになって。俺でも許せないんだから。殺人なんて……そんなの、あんまりだ」

 太樹はなにも言わず、大久保の潤んだ瞳に映る悲しみの色を見つめていた。

 心が麻痺し始めているのを感じる。どれだけ悔やみ、悲しんでも、翼は帰ってこないのだと頭ではすっかり理解してしまっている。それがなににも勝る悲しみだった。今すぐ翼に会いたくてたまらない。

 大久保の座るデスクの上で、水色のケースに入れられたスマートフォンが短く鳴動した。赤い風船を持った幼い男の子のイラストが描かれたケースは、大久保が持つにしては少しかわいらしすぎるのではと太樹は思った。

 大久保はスマートフォンの液晶画面を確認し、すぐにまた机の上にそれを伏せて置いた。

「それで、俺に訊きたいことっていうのは?」

 太樹は美緒に視線を送る。美緒が代表して質問を始めた。

「昨日の放課後の、先生の行動を教えていただきたいんです」

「なるほど、アリバイの確認ってやつだね。警察にも話したけど、俺はずっとここにいたんだ。三時半頃からだったかな。あまりにも体調が悪かったんで、他の物理科の先生たちに一声かけて、ここを一人で使わせてもらえるよう頼んだんだ。だから、残念だけどアリバイは証明できないな。明城の遺体が見つかるまで、ずっと一人だったから」

「誰もこの部屋を訪ねなかったんですか? 他の先生方とか、質問のある生徒とか」

「全然。おかげで少し仮眠を取ることもできたよ。あぁ、この話は内緒ね」

 大久保は立てた右の人差し指をマスク越しに口もとに添える仕草をする。なるほど、学校で教師がこっそり昼寝とは、バレたら問題になりそうなことではあった。

 美緒は少し質問の角度を変えた。

「事件にかかわりがあるか否かは問いません。昨日の放課後、なにか気になることや、いつもと違うようなことはありませんでしたか。誰かの叫び声を聞いたとか、大きな物音を聞いたとか」

「いや、特になかったよ。なにせこの北館は陸の孤島みたいな場所だからね。ひとけがなければ物音なんかしようもないし」

「事件は隣の本館で起きています。窓からなにか見えたとか、そういったことも?」

「ないな。期待にこたえられなくて申し訳ないが」

 いえ、と首を振った美緒の横顔から、心底残念がっている様子が窺い知れる。無理もない。有益な手がかりが増えない限り、足踏みを強いられている現状は打開できないのだ。

 大久保が表情を歪ませる。ずっと我慢していたのか、二度連続でくしゃみをした。

「あぁ、くそ」

「大丈夫ですか、先生」

「すまん。薬が切れてきたかな」

 つらい風邪の症状に悩まされる大久保の顔は、この部屋に入ったときよりもさらにぐしゃぐしゃになっていた。こんな状態でも仕事を休めないのだから、社会人は大変だなと思う。

 苦しそうな大久保の様子をなにげなく見ていただけなのに、また翼のことを考えてしまう。

 太樹の知らないところで、翼はたった一人で苦しんでいた。勇者としてこの世界の運命を背負い、一方で命を狙われ、そんな中でも太樹のことを健気に支え続けてくれた。

 これまで太樹は、自分が世界で一番不幸だと思っていた。魔王の魂を宿して生まれ、人々に忌み嫌われるなんて、これ以上の苦しみは他にないだろうと。

 翼が殺されていなかったら、そんな愚かな考えにいつまでも溺れたままだったかもしれない。だが、翼のおかげで今は気づけた。

 苦しいのは自分だけじゃない。翼と二人だけでもない。翼を守ろうと必死に動いていた美緒も、ひどい風邪をひいても仕事を休めない大久保も、羽柴や西本だって、それぞれがそれぞれの苦しみをかかえながら生きている。

 どうしてこれまでひとりぼっちだったのか、今ごろになってわかった気がした。

 太樹自身が、自分の意思で自分の殻に閉じこもっていたからだ。羽柴も、円藤も、大久保も、西本も、太樹が心を開きさえすれば拒まず受け入れてくれただろう。

 どうせ嫌われる。どうせ人間扱いされない。どうせ。どうせ。そんな風に相手を拒絶していたのは太樹のほうだ。普通に生きることをあきらめて、特別を自分自身で選んでいた。

 変われるかもしれない。翼が大切なことに気づかせてくれた今なら。

 翼が命がけで教えてくれたことを、学び、かさないわけにはいかない――。

 太樹は大久保に向けて右手をかざした。淡く白い光が音もなく現れ、大久保のからだをふわりと包み込んでいく。

 こういうときだけ、魔王の力を授かったことに感謝できた。魔力は殺戮の道具ではない。傷を癒やし、誰かを助けることもできる。

 その力を、今は大久保のために使う。風邪を治すことくらい朝飯前だ。彼を苦しみから救えるなら、自分はどうなったってかまわない。

「少しは楽になりましたか」

 光が消え、右手を下ろした太樹は大久保に尋ねる。目を丸くした大久保が「あ、あぁ」と言った声は普段どおりのものに戻り、ぐずぐず言わせていた鼻水もぴたりと止まったようだった。

「すごいな。嘘みたいに元気になった。鼻は通るし、熱っぽさも……」

「だったら、よかった」

 笑いかけようとしたけれど、できなかった。眩暈に襲われ、太樹のからだがぐらりと揺らいだ。

「鬼頭くん」

 大久保が椅子を蹴るように立ち上がる。息を弾ませ、その場に倒れかけた太樹の腕を取ってからだを支えたのは美緒だった。

「大丈夫です。魔力を使うと、この人はいつもこうなので」

「そう、なのか」

 大久保は驚き、心配そうに太樹の様子を見守っているが、美緒は「ありがとうございました」と大久保に礼を述べ、太樹をやや乱暴に引きずって物理科準備室を出た。

 廊下に放り出されることを覚悟したが、美緒は太樹の腕を支え続け、乱れた呼吸が整うのを待ってくれた。額ににじんだ汗をハンカチで拭うことまでしてくれる。どういう心境の変化だろう。

 速まっていた心臓の鼓動が徐々に落ちつきを取り戻す。太樹は美緒に支えられたまま、かすれた声で言った。

「悪い」

 頭痛はひどいが、ようやく足に力が入り始め、太樹は美緒から静かに離れた。美緒はうんざりした様子でため息をつき、手にしていたハンカチをスカートのポケットにしまった。

「さっきも言いましたが、チームの人間としては、無闇に魔力を使うことは推奨できません」

「わかってる」

「ですが」

 ほんの少しだけ、美緒は表情を和らげた。

「見直しました。案外、優しいところがあるんですね」

 こんなにも穏やかな顔をする美緒を見たのははじめてだった。怒られ、責められるばかりの時間を過ごし、それが当たり前になりつつあった中、まさかこんな風に褒めてもらえる時間が来るとは思わなかった。

 この子、こんな顔もできるんだな――。今になってようやく、太樹は美緒が同じ高校にかよう後輩の女子であることをちゃんと理解できた気がした。母親以上に口うるさいと彼女を評した翼の気持ちも。

「案外ってなんだよ」

 親に口ごたえする幼い子どもみたいに、太樹は美緒の言葉尻を拾って投げ返した。

「翼も俺のことを優しいって言ってくれたぞ」

「へぇ、そうですか。よかったですね、褒めてもらえて」

 いじっぱりな小学生のような言い方をして、美緒はそっぽを向いてしまった。なんて幼稚な争いだろう。ため息をつけば殴られるような気がして、太樹は美緒にバレないようにのみ込んだ。

「探しましたよ、鬼頭さん」

 不意に背後から聞こえてきたその声は、できればもう二度と聞きたくないと思っていたものだった。見た目のわりに溌剌とした、しかしその口調はとことん嫌味な男。

 心を無にして、太樹は声の主を振り返る。姿を目にするだけで頭痛を加速させてくれるその男、警視庁刑事部の勅使河原警部補は、ヘビのようにギラつかせた陰湿な瞳をしてゆっくりと太樹たちに近づいてきた。

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