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前編 ローア

 

 縁談相手が姉に懸想していたことに、ローアは気づいていた。


 地元の名士の息子で、容姿も良く真面目な好青年。町でそんな風に評される彼が、ただひとり——ローアの姉に対してだけは不躾な態度をとる。姉の一挙一動をあげつらって、「そんなことでは駄目だ」と偉そうにのたまう。


 ローアの姉は素直で優しく聡明な女性だった。彼に何か言われるたび、上手く言葉を使って、穏便に場を収めていたように思う。けれど、決して傷つかないわけではない。

 いつも和やかな笑みを浮かべていた姉の表情が、あの男と会う時だけは強張っていた。幼い頃からしょっちゅう姉の傍をついて回っていた妹のローアだけが分かるくらいの、些々な変化だった。


 ローアは静かで大人しい子供だった。姉と比べると愛想はそこまで良くはなかったが、冷静に周囲を見ることに長けていた。「いつも落ち着いていて、よく気のつく子だ」と両親と姉に褒められるのが嬉しかった。


 だから、あの男が姉との会話を終えるたび、姉が見ていないところでどんな顔をしているかにも気づいていた。

 あの男はいつも、後悔の色を滲ませた、自分を責めるような顔をして、決して振り向かない姉を見つめている。姉の傍らで、ひっそり彼の方を振り返ったローアだけがそれを知っている。


 もちろん、そのことを姉に伝える選択肢はあった。けれどローアはそうしなかった。姉が彼のことを苦手にしていたのもあるし、ローアも姉を無闇に傷つける彼のことが正直嫌いだった。嫌いな奴の肩を持つのは癪に障る。


 しかし、たったひとつだけローアには彼に対して負い目を感じていることがある。

 それはローアが十四の時のことである。ある日の女学校の帰り道、ローアは偶然ばったり彼と出くわした。今まで彼が出没するのは大抵が姉と一緒のときだったので、二人きりで顔を合わせるのは初めてだ。

 いくら嫌いとはいえ無視するのも気が引けて、適当に会釈をしてすれ違おうとしたその刹那、ローアは彼に呼び止められた。


「なぁ君、ローア、だったか」

「え……、あ、はい」


 まさか名前まで認識されているとは思わなくて、ローアは驚きつつも男の方を向いた。

 男は若干バツが悪そうな顔をしながらも、口を開く。


「その……、君の姉さんの好きなものを知っていたら、教えて欲しいんだ」


 男は目を幾度か泳がせながら、そう問うた。

 ローアはその様子をじっと見つめて、しばし思いを巡らせる。

 どうして彼が姉の好きなものを探ろうとするのか。その答えを察せないほどローアは愚鈍ではない。ひとつふたつと、己が知る姉の好物が脳裏をよぎっていく。

 ローアが素直にそれを口にしようとしたところで——ふと、魔が差した。


 彼は今まで散々、姉に不愉快な思いをさせてきた男だ。そんな男に自分が親切に教えてやる義理がどこにある?

 仮にローアが素直に姉の好物を教えてやったとして、姉に対する彼のご機嫌取りに協力した形になるのが妙に腹立たしい。この男に今さら挽回の余地など与えてやるものか。


 そんな正義感と反骨心と、それから少しの悪意が混ざった感情がローアの心の中に湧いた。


「……姉が好きなものは、蜜柑です」


 だから、ローアは姉の好物ではなく自分の好物を男に告げてしまった。それは彼女にとっての、彼に対する意趣返しでもあった。

 奇しくも「蜜柑」は、ローアの大好物であると同時に、好き嫌いがほとんど無い姉が、唯一苦手とする果実である。


「そうか……蜜柑か。教えてくれて、ありがとう」


 そんな彼女の思惑を露とも知らず、男は素直に礼を言う。その表情が余りに真摯なもので、まさかそんな反応を返されるとは思わなくて、ローアの良心がズキリと痛む。


 だが今さら訂正しようにも手遅れで。そのまま男は颯爽と去ってゆき、その場には何とも後味の悪い思いをしたローアだけが残された。

 それは数日経ってもなかなか消えず、それどころか日を追うごとに後ろめたさが大きくなった。


 極め付けは、実際にその男から木箱いっぱいの蜜柑が贈られてきたことだった。ご丁寧に最高品質のものである。

 当然姉は「なぜ急に蜜柑が?」と困惑していたが、とうとうローアは真実を話すことが出来なかった。


 そのあとも何度か彼から蜜柑が贈られて来るたび、ローアはじわじわと罪悪感に苛まれた。あのとき素直に教えておけば良かったと後悔したり、何故ここまであの男のことで思い悩まねばならないのかと謎の怒りに駆られたり。色んな感情がないまぜになる。

 そしていつも最後には、八つ当たりをするかのように、あの男が贈りつけてきた最高級蜜柑を食べて落ち着くのだ。食べ物に罪はない。


 そんな妹の様子を知ってか知らずか、いつの間にか姉も蜜柑が贈りつけられることに対して疑問を持たなくなった。それどころか、蜜柑が来るたびに「ローア! 蜜柑の彼からよ!」とローアを呼びつけてくる始末だ。

 姉の中で彼の印象が変わったのは間違いないだろうが、それはきっとあの男が望んだ形ではないだろう。せいぜい「よく突っかかってくる嫌な人」から「よく蜜柑を贈ってくる変な人」程度の変化だ。


 その証拠に、ほどなくして姉は結婚した。もちろん相手はあの男ではない。ちょうど蜜柑が届き始めた頃に知り合った男性で、縁談ではなく大恋愛の末の結婚であった。


 姉が素敵な相手を見つけたことは喜ばしいことだ。正直、相手があの男でなかったことに安堵しているくらいだ。

 けれど時々思うのだ。もしあの時ローアが彼に協力していたら、彼の恋路は上手くいっていたのだろうかと。


 あの時、ローアは彼の挽回の余地を問答無用で奪った。しかし、本当にそんな権利は自分にあったのだろうか?


 彼の恋路にとって、きっとローアは部外者でしかなかったのに。




 ◇




 姉が結婚して家を出てからも、時おり蜜柑は届いた。


 男が姉の結婚を知らないわけではない。なにせ彼はきちんと姉の結婚式に出席していたのだから。

 本当にあの時はローアの方が気が気ではなかった。男が自棄になって式を台無しにでもしたらどうしよう、ショックのあまり泣き出してしまったらどうしよう。お祝いムードの中で、ただ一人そんな想像をしてハラハラしながら男を見ていた。尤も、結局それは杞憂に終わり、男は終始大人しく式に参加していたのだが。


 それからもう四年近く経つが、未だに男は蜜柑を贈ってくれる。おかしな話だ。この家に贈る相手はもう居ないのに、蜜柑が美味しい季節になると必ず贈りつけてくる。

 この行為の意味は一体何なのか。惰性か未練か、当てつけか。おそらく全部当てはまるのだろうなとローアは思う。


 橙色の皮を剥き、一房(ひとふさ)果実を口に放り込むたび、あの男の姉に対する恋情を味わわされているようで、なんとも気分が悪かった。


 だから、縁談の話を持ちかけられて、相手があの男だと知ったときには何の悪い冗談かと思った。

 だがそれは冗談でもなく紛れもない事実で、何よりその縁談にローアと同居している家族——父、母、弟が乗り気だったことも意外だった。


「彼ならいいんじゃないか。いつも美味しい蜜柑もくれるし」

「お母さん、蜜柑の彼なら良いと思う」

「俺、蜜柑の人なら嬉しい」


 彼らの発言はどう考えても最高級蜜柑に絆されているようにしか思えなかったが、とにかく家族のお墨付きである。

 無下にするわけにもいかず、とうとうローアは男との顔合わせに赴くことになってしまった。





 数日後。

 両家の顔合わせは、拍子抜けするほどスムーズに進んだ。なにせ参加者全員初対面でもなんでもなく、顔見知りである。決して広くはないこの町ではよくあることだった。


 特にあの男に関して言えば、ローアはつい先日——縁談の話を聞く少し前に、また届いた蜜柑のために彼に会ったばかりである。蜜柑の礼を彼に伝えるのも、返礼品の名義も、姉が家を出てからはローアの役目になっていたから。


 緊張でほとんど味が分からなかったが、会食は無事に終わった。

 問題はその後である。「あとはお若いお二人で」とよくある台詞を吐かれ、ローアは半ば強制的にあの男と二人きりにされた。


 仕方なしにレストランを後にして、川沿いの煉瓦道を男と歩く。川の方に目をやると、観光客らしきカップルが小舟を漕いでいるのが見えた。何の気なしに、その光景をぼうっと眺める。


「……あれに乗りたいのか?」

「え?」


 横から躊躇(ためら)いがちに声をかけられて、ローアは少し驚く。それから慌てて首を横に振った。

 男は「そうか」と頷いて、そのまま小舟を凝視していた。もしかして彼の方があれに乗りたかったのでは?とも一瞬思ったが、わざわざそれを訊く度胸は持ち合わせていなかった。


 二人揃って小舟を眺めたまま、気まずい沈黙がしばらく続く。

 先にそれを破ったのは、男の方だった。


「……君は、俺と夫婦になるのは嫌かもしれない」


 予想外の言葉に、ローアは反射的に隣を見る。

 男もまた彼女を見ていた。下まつ毛が長く、垂れ目がちな藍色の瞳と視線が交わる。いつもは凛々しい筈の彼の吊り眉が、今は少しだけ下がっているみたいだった。


「君が俺に対してあまり良い感情を抱いていないことも承知しているつもりだ。……自分が過去に君の前でした行動を(かえり)みれば、それくらい分かる」


 彼の話を聞いて、すぐにローアは姉の顔を思い浮かべた。いつもの柔和な笑みでなく、少しだけ強張った表情の。

 それから、この男が姉の好物を尋ねてきた時の真摯な表情も脳裏に蘇る。その後に部外者の自分が彼にした、出過ぎた真似も。


 どろりと、何か汚いものが心の奥から漏れ出た心地がする。口の中は空のはずなのに、あの恋情に(まみ)れた蜜柑の味がした。

 ローアは半ば無意識に目を伏せて、黙り込んでしまう。その様子を男はどう捉えたのか、彼の声が若干焦ったような、上擦ったものになった。


「だが俺は、君を妻にしたいと考えている」

「……え」

「——いや待て。今のは少し直球すぎた。その、つまりだな、俺はこの縁談を非常に前向きに考えている、ということを伝えたかった」

「…………」

「だから出来れば、君にも前向きに考えてもらいたい……と、思っている。随分と虫のいい話だと呆れられるかもしれないが」


 途中しどろもどろになりながらも、彼は真っ直ぐ前を向いてそう言う。彼は見ている。他の誰でもなく、ローアを。


 その事実を意識した途端、今まで感じていたはずの蜜柑の味が口の中から消えた。それから不思議な高揚感にとらわれる。カッと瞬間的に、両耳と頬に全身のありとあらゆる熱が集中する感覚がした。


 しかしその熱は、あっという間に奪われる。


「どうか俺に、()()()()()()()()()()()()()()()

「!」


 彼の紡いだ言葉が、ローアの頭を後ろからガツンと殴りつけた。


 ああ、再び蜜柑の味がする。彼は間違えている。

 ローアには彼に挽回の余地を与えることなど出来ない。与えるどころか奪ったのだから。部外者の分際で。

 彼にここまで真摯な眼差しを向けられるほどの資格がローアには無い。

 ずっとずっと、知らずのうちに降り積もっていた彼への気持ちが——嫌悪が、嫉妬が、後悔が、恋慕が、そして何より罪悪感が、どっと溢れ出してきて、ローアの足を掬う。


「……わたし、は、貴方にそんな風に想ってもらえるほど、立派な人間じゃない」


 思ったよりも、冷たい声が出た。

 男が目を見開く。彼に何か言う隙を与えないうちに、ローアは続けた。


「貴方にはもっと、いい人がいると思う」


 ローアより、もっと優れていて。

 明るくて、優しくて、前向きで、話が上手で、かしこくて。姉さんみたいな人がいい。


「……だから、貴方の意には添えない。ごめんなさい——ラニアスさん」


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