蜂蜜色の初恋と
繊細で美しい細工を施された、そんな砂糖菓子によく似てる。
絹のような細い細い白金の髪。とろりとした蜂蜜のような、金色の瞳。
どうにかして手に入れたいものは、決して手に入らないものだった。
◇
「久しぶりじゃない。この薄情者の冷血漢」
王女専用の庭園に一歩足を踏み入れた途端、待っていたのは金色の瞳を怒りに染め上げているエリザベスの姿だった。
彼女はエリザベス・ラン・クリンテッド。この王国の王位継承権第一位を持つ、誇り高い第一王女だ。
「久しぶりといっても、二週間だよ」
「長すぎるわ!この二週間、私は一人でレニーニャ夫人の指導を受けていたのよ。あの鬼に」
「あのさ、僕が一緒に授業を受けても、レニーニャ夫人はエリィだけを叱ってるでしょ」
「授業の後に愚痴を言いながらお茶を飲みたかったって言ってるの!」
アーサーが肩をすくめてソファに座ると、当然のようにエリザベスはアーサーの隣に座った。花の香りがふわりと香る。
何だかんだ言って、二人のお喋りはいつも尽きない。
喉が痛くなるまで話した後は、ボードゲームをやることにした。
エリザベスは真剣そのものだ。水晶で作られた駒を動かすその指先を眺めていると、不意にエリザベスが口を開いた。
「ねえ知ってる?私とあなたが婚約したらどうかって、周りがやいやい言うのよ」
「今更だよね。ていうか、僕の父はもう僕が王配になるものだと思ってるよ」
ため息を吐くと、エリザベスが眉を咎めるように顰めた。
「何。あなた嫌なの?」
「嫌も何も。僕が決めることじゃないでしょ。エリィが決めることだよ」
「……他の男と結婚したら、私はもうあなたの側では泣けないのね」
「それはそうだね。あ、僕の勝ち」
アーサーはエリザベスに皮肉めいた笑みを向けながら、ほらな、と思った。
彼女はいつでも、ほんの少しの寂しさだけで僕を手放せる。
「ああ、悔しいなあ」
負けず嫌いの彼女が嘆いている。
彼女はもう一回、と告げて盤上の駒を片付ける。そうして何でもないように口を開いた。
「あのね、アーサー。私、好きな人がいるのよ。その人と結婚したいの」
何の脈絡もなく告げられた言葉に、駒を並べるアーサーの手が一瞬止まった。
エリザベスの金色の瞳が、真っ直ぐにアーサーを射抜く。少し恥じらうような瞳が、綺麗だった。
「そうなんだ」
声は震えなかった。
やっととどめを刺してもらえたような不思議な気持ちで、目の前の少女に微笑んだ。
「君なら大丈夫。兄上以外の全ての男が、君に夢中になると思う」
「あら、本当にそう思う?私の恋は叶うかしら」
「叶わないわけがないよ。大丈夫」
アーサーはエリザベスの頭に手を伸ばしかけて、やめた。
そして目の前のお姫様が、泣き虫だった頃のことを思い出した。
◇
ほぼ同時期に生まれた公爵家の次男であるアーサーと王女であるエリザベスは、幼馴染としてそれはそれは仲良く育った。
いつも二人は一緒に庭園で遊び、王宮図書館でかくれんぼをしては叱られ、悪戯をしては二人で一緒に罰を受けた。王宮に勤める父に連れられ、アーサーは毎日エリザベスと一緒に遊んだ。生意気なお姫様と遊ぶのは、腹の立つことも多かったけれど楽しかった。
エリザベスが物心ついた頃、彼女はアーサーの十歳離れた兄に恋をしていた。
兄はいつも柔和に微笑んでエリザベスとアーサーの面倒を見てくれた。優しく余裕のある兄に、いつも彼女は夢中だった。
公爵家嫡男である彼と、この国の第一王女である彼女とだったら、身分的にふさわしい。実際エリザベスのあまりの熱の上げように、兄とエリザベスを婚約させてはどうかという声も上がっていた。
しかし、当時王位継承権第一位だったエリザベスの兄である王太子と、アーサーの姉との婚約がすでに固く決められていた。
王族の兄妹が、揃って公爵家の者と結婚するわけにはいかない。エリザベスには不幸なことだが、兄は他の有力貴族の娘と結婚した。
◇
彼女が一番泣いたのは、八年前に開かれた王宮舞踏会でのことだった。
まだ兄が結婚する少し前のこと。
幼く、けれど確かな恋心を抱いた彼女は一度だけでも兄と踊りたいのだと言っていた。
その夢は叶ったけれど、良い思い出にはならなかった。
意を決してダンスに誘ったのに、彼の兄はどこか上の空だったという。
おまけにダンスを踊った後、エリザベスを残してすぐに婚約者の元へ行ってしまった。八歳の女の子の心を傷つけるには充分だ。
彼女の意気込みを知っていたアーサーは、黙って彼女の手を引き庭園へと抜け出した。
会場では堪えていた涙が、庭園についた途端ぼとぼとと落ちる。
アーサーはため息をついて、エリザベスをベンチに座らせる。ハンカチで彼女の頰を拭いながら、呆れまじりに口を開いた。
「エリィは本当にばかだね」
「ばかじゃない」
「あのね、恋なんて愚かなものに振り回されるのはばかだよ。だから兄様もばか。君もばか」
呆れるアーサーに、エリザベスがしゃくり上げながらきっと睨む。
「うるさい!恋もしたことのない子どもには言われたくない」
「恋をすると大人なの?君、いつもよりも子どもにしか見えないけど」
「うるさい……あんたなんか大嫌い。本当に嫌い!」
彼女は本格的に声をあげて泣き出した。顔を抑える手に涙がとめどなく滴っている。なぜか込み上げた不快感に任せて、酷いことを言ってしまった。アーサーはまた小さくため息をついて、エリザベスの横に座る。震える肩をそっと抱くと、小さな体がビクッと震える。そのまま毛並みの良い子猫のような柔らかな髪を、そっと手櫛で梳いた。
「エリィ、エリザベス。意地悪言ってごめん。元気出して」
泣き声が大きくなる。
「僕は君が世界で一番可愛いことも、兄様のことを本気で好きだったことも全部知ってるよ。君はすごく頑張ってた。兄様のことは残念だったけど、これから君が好きになる人は絶対に君を好きになる。君はこれから大人になって、さらに素敵な女性になっていくんだから」
言葉を尽くして慰めているうちに、少しずつエリザベスの嗚咽はおさまってきた。代わりに体が震えている。いじらしくて、アーサーはさらに優しく髪を撫でた。
「君が悲しくなった時、僕はいつでもそばにいる。約束するから」
しばらくそのままで、震えるエリザベスの髪を撫で続けた。
それからどれくらい、時間が経ったのか。
会場からは相変わらず音楽と喧騒が聞こえてくる。それでもなぜか、世界に二人だけしかいないような気持ちになった。
どこかで虫の声がする。月の光が降り注ぐ。
浸っていると、エリザベスの掠れた声が聞こえた。
「アーサーは女たらし。女の敵」
「……ひどくない?」
彼女が顔を上げ、真っ赤な目でアーサーを見た。長い睫毛に涙が雫となって溜まっている。
「でもアーサーがいてよかった。これからあんたを私専用の泣き枕にする」
「泣き枕ってなに……最高に頭悪いな」
「いいの!私が泣く時は絶対そばにいてね。約束よ」
泣きすぎて腫れた目を和ませて、彼女が言った。
仕方ないなあと苦笑したあの時に、アーサーは自分の恋心を自覚した。
そして彼女の恋が実らないのと同じくらい確実に、自分の恋が実らないことも理解した。
その日からアーサーの初恋はどんどん捻くれていく。兄とはしばらく口を利かないことにした。
それでも日々美しくなるエリザベスの側にいられることは苦しくなるほど幸せだった。
エリザベスは兄への好意を口にしなくなった。
話す言葉の端々に、まだ好意が残っていることは感じたけれども、兄の結婚式にも笑顔で参列していた。式の間中ずっと、アーサーの手を握っていたけれど。
だけどその頃から、エリザベスは兄の妻と同じ、花の香りの香水を身につけている。
哀れで、いじらしくて、どうしようもなく腹が立った。それでもアーサーは、ずっとエリザベスの側にいた。
◇
ずっと変わらないアーサーとエリザベスの関係は、ある日を境に少し変わることとなる。
王太子である彼女の兄が、アーサーの姉に婚約破棄を突きつけた。
紆余曲折を経て、王太子は王位継承権を失い、エリザベスは王位継承権第一位を持つこととなった。
彼女は毅然とした顔をして、何も言わずにまっすぐ前を向いていた。
それが、六年前のこと。
そして、アーサーとエリザベスの婚約話が持ち上がった。
◇
初めてエリザベスと婚約の話が持ち上がっていると聞いた時、湧き上がったのは怒りだった。
大人同士が勝手に決めた婚約のせいで、大迷惑だ。自分も姉もエリザベスも、その兄も。
自分が彼女と結婚できる権利があるというのなら、エリザベスが兄と結婚したってよかったはずなのに。それでも持ち上がった話に喜ぶ自分を心底恥じた。絶対に彼女と結婚しないと、拒否することもできなかった。
未だに兄の妻と同じ香水を身に纏う彼女が脳裏に浮かんで、刻みついて離れない。
心のどこかで期待している自分が、嫌いで嫌いで仕方なかった。いつか彼女の役に立つかもと、必死で帝王学を学ぶ自分が嫌だった。それも彼女に知られないように、隠れて必死に、こそこそと。
呪いに似た恋だった。
けれども彼女が新しい恋をしたときは、笑顔で見送ると決めていた。
だから、僕は彼女を祝福する。
◇
「ちょっと、どうしたの。ぼーっとして」
彼女の声でふっと我に返った。
幼かった時の彼女が、今の怪訝そうな彼女の顔に変わる。
「ああ、ごめん。考え事してた」
「このタイミングで!?あなたって本当にひどいわよね。信じられない」
物思いに耽ったっていいだろ。こっちは今失恋したんだ。あの時ビービー泣いてたくせに。
一瞬かなりムッとしたが、アーサーの気持ちを知らない以上エリザベスに全く非はない。唇を尖らせながらごめん、と言った。エリザベスはまだぷんぷんと怒っている。顔が赤い。ああ、ムカムカする。
しかし次に彼女が言った言葉に、アーサーは耳を疑った。
「もう!私たち恋人になるのよね?なってくれるのよね?結婚、するのよね?」
「えっ」
「えっ」
目を見開いて絶句するアーサーに、エリザベスが少し驚いた顔をした。
「誰と誰が恋人だって?」アーサーは、信じられないものを見る目で言った。
エリザベスが戸惑う。金色の瞳が一瞬伏せられて、悲しそうにアーサーを見た。
「……どうしてそんなに意地悪なの。私の恋は叶うって言ったじゃない。私とあなたに決まってるでしょ」
「えっ」
「…………ねえ、まさか私の気持ちに気づいてなかったってこと?嘘でしょう、あなた私のことなら何でもわかるってあれだけ偉そうに言ってたじゃない」
「それ子どもの頃の話でしょ……覚えてないよ……」
「私はあなたの言葉、覚えてるのに!」
エリザベスの顔を凝視する。怒りと羞恥で赤くなった頰が可愛い。金色の瞳に涙が浮かんでくるのを見て、アーサーは混乱した。自分だけは彼女を泣かすまいと決めていた。けれどこれはどういう状況なのだろう。
「ご、ごめんエリィ。泣かないで」
「嘘。嘘でしょう、最悪!また振られた!」
ぼろぼろと涙をこぼす彼女に手を伸ばすと、彼女はいやいやと首を振り拒絶した。しゃくり上げながら、出て行って、とこぼす彼女を抱きしめる。金色の柔らかな髪の毛が頰に当たった。抱きしめたのは、初めてだった。
ああ、彼女が僕のために泣いている。
湧き上がってきたのは罪悪感と、震えるような喜びだった。
彼女にだけは知られたくなくて、何も言えずにさらに強く抱きしめた。
「女たらし……女の敵……大好き……」
腕の中で呪詛ととんでもなく可愛いことを吐き続ける彼女の声が掠れている。
可愛さが鈍器となって、アーサーの心臓を殴り続けた。
ここまで悶える自分はどこかおかしくなったのではないかと心配になる。今まで抑えつけていた恋心の反動と、自分を好きだと告げる言葉の攻撃力が凄まじかった。必死で息を整えて、口を開く。
「僕も君が好きだ」
腕の中の彼女がピタッと止まる。息を吸い、「ーー騙されないわ」と彼女が言った。
「どうせそんなこと言って、臣下としてお慕いしておりました、とニヤニヤ笑うのでしょう。最低よ」
「それは本当に最低だな……違うよ、僕も君が好きなんだ。恋人になりたい、結婚したい。ずっとそう思ってた」
必死で言葉をかき集める。捻くれまくった初恋を、告白する日が来るなんて夢にも思っていなかった。うまく言えない。
もし彼女と政略結婚したとしても、僕は一生彼女に思いを告げることはないのだと。彼女を困らせることはしたくないと、祈りに近い気持ちでずっと思っていた。
「君は兄上が好きだったろう。義姉上と同じ香水をつけてるから、まだ兄上が好きなんだと。だから僕は君に思いを告げないでおこうって、ずっと……。なのに君が好きな人ができたとか言うから、すごく嫌だけど、君が幸せになれるならって」
「ちょっと、それこそ何年前の話なの……!?」
動揺したエリザベスが顔を上げる。まさか未だに初恋を引きずってると思われていたとは露ほどにも知らない顔をしていた。
「香水は、あなたが花の匂いを好きだと言ったから。その頃は失恋したてだったしどうせあなたのお家と縁のある人とは結婚ができないと思ってたから、あなたに恋してはなかったけれど。結婚するならあなたみたいな人がいいと思ってた」
「僕が好きと言ったから……」
自分でも覚えていない自分の好みを、今でも彼女は覚えていてくれた。
「兄様があんなことになって、私は本当に本当にショックだったし、あなたのお姉さまにも心の底から申し訳なかったのだけれど……あなたと結婚できるのかもって思って、ほんの少し嬉しかったの。それがショックで、何でそんな最低なことを思ったのかしらって考えて、あなたが好きだと気づいたの。……ごめんなさい」
「姉上は今、ものすごく幸せそうだから大丈夫」
泣きたいような甘やかな気持ちで、アーサーはエリザベスの髪を撫でた。込み上げてくる愛しい気持ちを抑えかけて、もう抑えなくても良いのだと、たまりかねて掬った髪の一房に唇を落とす。
きっと愛しているとは、こういう気持ちなのだと思う。そんなことはまだ恥ずかしくて、言えないけれど。今言える精一杯は、せめて。
「僕が今、どんなに幸せなのか伝えたら君は驚くと思うよ。大好きだ」
「あなたもばか者の仲間入りね。でも、絶対に私の方があなたを好きよ。ずっとこうして欲しかったの」
エリザベスが額をアーサーの胸にこすりつけた。許されることならこの場でのたうちまわりたいほどの可愛さだったが、グッと堪えて微笑を浮かべた。そんな彼を見て、「ようやく恋が実った」とエリザベスが無邪気に笑った。
さっきの彼女の言葉を、今は甘い気持ちで思い返す。
「……待って。エリィは僕が、君の恋心を知っていると思ってたんだよね?」
「ええ、そうよ」
「知っていた上で、結婚相手はエリィが決めることとか、君の恋は叶うとか言ってると思ってたの?どんだけ調子に乗ってる奴なの、それ」
「スカした男だなあ……ってイラッとしたわ。他の男と結婚したら、って言ってもあなた眉一つ動かさないし。悔しくて悔しくて、絶対いつか好きで好きでたまらなくさせてやるって思ったの。だけど、あなたはモテるって聞いたから。誰にも取られたくなくて告白したの」
はにかむエリザベスの笑顔は、アーサーの心にとどめを刺した。
「恋人同士になった私は、とっても可愛いはずよ。覚悟しててね」
アーサーの真っ赤になった姿を見て、エリザベスは声をあげて笑った。幸せそうな顔だった。
泣いている顔を見た時よりももっと大きな歓喜がアーサーの胸を突いた。
たまらなくなって、噛み付くようなキスをした。