寂寥
いま、私はパソコンを使ってこの文章を書いている。そして読み手の方々は様々な媒体を通してこの本を読んでいるのだろう。
他人と自分との違いとはなんなのだろうか。僕は横断歩道を赤信号で止まりながら対向車線の横断歩道を横切る人を見るたびにふとどこからともなくそんな考えが生まれてくる。しかし、そんなことを四六時中考えている訳ではない、別の物事に目を囚われ視線を追ってしまう。
他人と自分との違いとはなんなのだろうか。パソコンのキーボードを自分が打ち込んでいる間この同じ時間の中でも電車の中にいる人、食事をとっている人。ましてや本とは時間を超えたものだから読み手がいつ、どこで読んでいるなぞ見当がつかない。
他人と自分との違いとはなんなのだろうか。小林秀雄の『無常ということ』を読んだ。意味はてんで分からなかったが何かを分かったようにさせてくれる本だ。この本の中で小林秀夫は『現代人には、鎌倉時代のなま女房ほどにも、無常というとがわかっていない。常なるものを見失っている』と書かれていた。頭の中はクエスチョンマーク(?)で一杯であった。小林秀雄自身も彼の美学の萌芽に気づけてもそこから美学に到達でかなかったというよりも到達しようとしなかった。だからこそ、こうも不親切なぶんしょうになったのだと思う。私は別段小林秀夫のこの終わり方が嫌いではない。寧ろ彼の答えを知れたからだ。彼だけの答えに余人が口を開ける場所それ自体がないからだ。
小林秀夫が彼の答えを知れたように私の問題である。他人と自分との違いとはなんなのだろうか。この問いにもいつの日か私は答えに辿り着けるのだろうか。真相は闇の中である、しかし私には心地の良い闇である。




