78話 早朝の街角で
朝。昨夜からの雨は弱まったが止んではいない。濡れた早朝の街は空気がひんやりとしていて肌寒い。
まだ人影は少なく、新聞配達のバイクのエンジン音と、雨除けのビニールで包まれた新聞が玄関先に投げ置きされる音がそこかしこからまばらに聞こえてくる。
時計を見ればまだ午前5時だ。やけに早く目が覚めてしまった。血の門のボスを暗殺なんて映画みたいな仕事を前に緊張しているのかもしれない。
俺は昔から行事の前日は眠れなくなるし、早く目が覚めてしまうタイプなのだ。
隣のベッドのエクセリアはまだクー、カーと寝息を立てていたので、起こさないようこっそり部屋を出て散歩している。
散歩と言ってもホテルと同じ区画をぐるりと一周するぐらいだけど。
こんな時間でも使える無人ATMを見つけて、俺は昨晩ドミニコから渡された金を預け入れる。
もらった100万のうち90万クレジットを預けて、残りは非常時に備えて手元に残した。どうせなら全額持っておけばいいじゃないかと頭によぎるが、俺はどうも大金を持ち歩くことに慣れていない。不必要にドキドキしてしまって心臓に良くない。ああ小市民。
街の治安を見分ける簡単な手段はいくつかあるが、その中でも自動販売機や無人ATMはわかりやすい基準だ。
これが置かれている場所は基本的に治安が良い。まあ考えてみれば当たり前だ。暴徒だらけな地域にそんなものを置けば金の入ったボーナス箱も同然。壊されて中身を抜かれておしまいだ。
つまり無人ATMが置かれてまともに機能している五番街はそれなりに治安が良いってことで、顔役の凱士安の睨みがしっかり効いてるってことなんだろう。
だとすれば、あの暴力性も抑止力としては有効に働いているのかもしれない。
「世の中って複雑だな」
大金を預けて軽くなった懐を叩きながら一人呟いていると、スマホに一件のメッセージが届いた。
エクセリアか? いや、起きるにはまだ早いよなと思いながら画面を見ると、送り主はシエナだった。
『早朝にごめんね。時間がある時に連絡もらえるかな?』と。
どうせすることもなくて暇なので、俺はすぐにシエナへと電話を入れる。
二度目のコールを待たず、シエナの声が聞こえてきた。
「あ、ごめんアリヤ! 起こしちゃった!?」
「いや、起きてたから大丈夫だよ」
「本当? ならよかった〜。あ、たいした用事じゃないんだけど、私も目が覚めちゃってたからさ、情報共有しときたいなと思って!」
早朝だがシエナの声は元気だ。出会った頃の死の影がつきまとっていた頃とは違い、健康を持て余している。
ちなみに、今日血の門に乗り込むということはシエナには伝えてある。無断で敵対するのはいくらなんでもまずいだろうと思って連絡は入れておいたのだ。
イリスを連れ去られたエヴァンの意思を尊重すると言ってくれたので、俺は心置きなくここにいる。
素顔を晒して現れたドミニコのこと、生きていたリズムのこと、血の門自治区の街並みと雰囲気、暴力的な士安と温厚そうな秀英の凱親子のこと。
そんな話をかいつまんで語ると、シエナは興味深そうに相槌を打ちながら聞く。
俺は話が上手い方でもないのだが、シエナは聞き上手だ。「ははあ〜」「ひえっ……」「ふーん?」「へえー」「ほぉ……」と、とにかく声の表情が豊かで楽しげに聞いてくれるからこっちも嬉しい。
聞きのテクニックとしてそうしているわけでもなく素で楽しそうなのだ。天性の彼女の人柄だろう。
「と、まあ……大体そんな感じかな」
「なるほどなー。その血の門料理屋いいね、行ってみたい。店主のおじさんとは関わり合いになりたくないけどさ」
「それは言えてるよ、本当に。で、そっちの方はどう?」
一通り話し終えて、今度は俺がシエナに問いかける。
すると珍しく、シエナは少し言い淀んだように言葉に空白を開ける。
時間にすればほんの数秒だが、俺が違和感を抱くには十分な間だった。
「……シエナ?」
「……あ、ごめんね! ボーッとしちゃって。朝だからかな? えーと、こっちは順調だよ。方針をちょっと変えてさ、ランドールからの依頼に集中することにしたんだ。浮気調査のやつね」
「ふうん。群狼団の方はどうするんだ?」
「そっちはやめたよ」
「やめた?」
「交渉しないことにした。あっちもこっちも手を出して、全部失敗しましたじゃ取り返しが付かないからね」
そう言うシエナの声は明るいが、なんだか少し不自然だ。
群狼団には旧知の憧れの人がいるだとかで交渉にこだわっているように見えたけど、突然それを撤回するなんて何かあったんだろうか。
「それは、ユーリカと揉めたから?」
「違う違う、自分で決めたよ。群狼団と交渉するなら代表の私が出向かないと話にならないし、そしたらランドールからの依頼は放っておく形になる。こっちが没交渉になるのは致命的だし、優先順を考え直しただけ」
「それならいいけど……」
言ってることは間違いじゃない。エヴァンと俺が血の門に喧嘩を仕掛けてしまう以上、現状繋がってるランドールとのラインは保つのが正しい判断だろう。
なのにどうして、今のシエナの声はこうも揺れて聞こえるんだろうか。
そもそも、こんな早朝にメッセージを送ってくること自体が彼女らしくない。
何を悩んでるんだろう。何か秘密にしていることがある?
いや……もしかしてもっと単純なんじゃないか。そもそもシエナの中でも自分が何に対してもやついているのか言語化できてないんじゃないか?
「こんなこと言うのは失礼かもしれないんだけど、もしかして不安だったりする?」
「……………………」
俺の問いかけを受けて、シエナは今度こそはっきりと黙りこくる。
それからワシャワシャと髪をかくような音がして、通話口から「あ〜!!」と大きな声が聞こえてきた。
「……そ、そうかも! それだよー! 私、不安なんだ!?」
「疑問形で言われても」
「あ〜、なんで自分でわかんなかったかな〜……そうだ、自分でも気付いてなかったけど私、アリヤのことをかなり頼りにしてたみたい」
「俺を? まだ新参だけど」
頼ってくれるのは嬉しいことだ。シエナのさっぱりとした性格にも好感を抱いている。一時的な教頭じゃなくて友達だ。
ただ疑問は疑問として口にすると、シエナが言いにくそうに「うーん」と唸る。
「……これ言うと、もしかしたら気を悪くするかもしれないんだけど……」
「いいよ、言ってくれ」
「……私、リズムの役割をアリヤに重ねてたのかも。少し年上で、結構冷静で」
「な、なるほど……?」
リズムって言われると確かに嫌だな。あの意識高い系裏切り野郎と重ねられるのは独特の拒否感がある。
ただ、わからないではない。学園自治連合を設立して以来、シエナの隣には幼馴染のリズムがずっといたわけだ。
年齢が上がってからは性格は合わなくなっていたみたいだけど、相談できるサブリーダーとして彼の存在があった。
もちろん学園の中には他にも優秀な人材はいるけれど、戦闘班と戦略班は基本的に別々だ。
俺は突然加わった外様で、別に頭がいいわけでもないのに立場の特殊さから成り行きで話し合いにも参加する場面が多かった。
結果、“戦場で肩を並べて話し合いにも参加する少し年上の仲間”というリズムとのポジション被りを起こして、リズムが裏切って抜けた。
そんな経緯で、シエナは無意識のうちに俺を頼っていたのだろう。何の分析だこれ。
「って言ってもいけ好かないリズムよりよっぽど親しみやすいけどね。エクセリアも可愛いしさ!」
そう言ってシエナは笑う。気持ちのモヤつきの原因がわかったからか、声色に少し快活さが戻ったみたいだ。
ひとしきり笑ってからすうっと息を吸って、声を引き締めたシエナが口を開く。
「アリヤ、絶対無事に戻ってきてよね。エクセリアと一緒に」
「もちろんだ」
「あと……エヴァンとイリスのこともお願い。できれば二人とも助けてあげて。あの二人は結構、辛い思いしてきてるから」
「ああ、死なせない。じゃなきゃこっちに来た意味がないからな。期待して待っといてくれ」
「ふっふふ、頼もしいね」
無事に帰る。エクセリアとオーウェン兄妹を連れて。
シエナと約束を交わして電話を切ったところで、ビル群の隙間からまばゆく朝日がのぞいた。雨が止んだのだ。
時刻は午前6時。街が動き始めている。
わずかに暖まり始めた排ガス混じりの空気を吸って、俺は今日の戦いに意識の照準を定める。
「よし、やるぞ」




