58話 グッドモーニングパンドラ
「おーい、或也」
……誰だろう、男の声が聞こえる。俺よりずっと年上の大人の声が。
「ご飯できたぞ。降りといで」
ああそうだ、これは父さんの声だ。
鏡に自分を映してみると、そこにいる俺は中学生ぐらいの姿。
だけど不思議と自意識ははっきりとしていて、自分が異世界で戦っていること、エクセリア、燃さん、学園の面々。そんな諸々をしっかりと思い出せる。明晰夢ってやつだろうか。
二階にある俺の部屋を出ると、階下からふわりとカレーの匂いが上がってきた。本当に懐かしい……俺は父さんがたまに作ってくれるカレーが大好きだったんだ。
父さん、藤間良吾は作家だった。
作家と言っても文壇に名を連ねているような大物でもエンタメ最先端の売れっ子作家でもなく、三流……いや、まあ辛うじて二流くらいのオカルト作家だ。
魔法に超能力、超常存在に疑似科学、UFOや幽霊妖怪に異世界に、節操なく雑多なテーマを手掛けるようなうさんくささこの上ない感じの作家。
ただ一応胡乱ななりに信念はあったみたいで、何を書くときも徹底した取材を欠かさないタイプだった。
そんな父さんが死んでしまったのは3年前、俺が17歳だった頃の夏。
白昼堂々家に侵入した強盗と書斎で鉢合わせになって刺し殺されてしまった。というのが警察の出した結論。台風でも通り過ぎたのかってぐらい、書斎がめちゃくちゃに荒らされていたのを覚えている。
真相は分からず、犯人も結局捕まらないまま。父さんの死に関しては、姉さんの死のように復讐の対象を見つけることすらできなかった。
だけど……今、俺は考える。
もしかすると父さんは、取材の過程で誰かにとって都合の悪いことを知ってしまったんじゃないか。
そしてその誰かは都合の悪い何かを揉み消すために、父さんを殺して部屋を荒らし回ったんじゃないか?
「どうだ或也、うまいか?」
テーブルを挟んで座った父さんは、俺の記憶にあるままの優しい笑顔で笑いかけてくる。……なんて懐かしい。
カレーも美味しい。驚くほど美味しい。多分、ここまでの味じゃなかったはずだ。あくまで素人がちょっと頑張った、ってぐらいのカレーだったはずで、きっと記憶の中でとびきり美化されているんだろう。
そうだとわかっていても、もう二度と食べられない味をもう一度味わえた感慨で少し泣きそうになる。
俺は父さんに笑いながら頷いて、一つの質問を口にする。
「父さんは星の意思を知ってた?」
父さんの存在を疎んじた“誰か”。父さんが触れてしまった“何か”。それはきっと星の意思なんだろ? と。
だけど父さんは困ったように笑うだけで何も答えてくれない。当たり前だ、これは俺の夢。俺が知らないことを教えてくれるはずもない。
父さん、大丈夫。俺は一人で頑張れるよ。何をすればいいのかも少しわかったから、安心して見守っててくれ。
そんな思いを込めて、俺は父さんへと笑顔を向けた。
「カレー美味しいよ、父さん」
・
ホーホホッホホー、ホーホホッホホー。
目覚めた俺の耳に聞こえてきたのは、窓の外から一定のリズムで聞こえてくる鳴き声だ。
「……こっちの世界もハトの声は同じかぁ」
ここは星影騎士団が運営している病院だ。
俺は燃さんとの共闘で騎士団に貢献したと見なされているようで、なんだか豪華な個室をあてがわれている。
二日間の入院でカラスに投与された殺鼠剤の効果もすっかり抜けて、体の調子はなんなら前より快調なぐらいだ。
今日退院して構わないそうなので、俺は大きなベッドでググッと手足を伸ばしながら「腹減ったなあ」とぼやく。
一人部屋は人の目を気にしなくていいから気楽でいいな。
「お早う。藤間或也」
「うおおっ!?」
黒人男性にぬうっと上から顔を覗き込まれて、俺は絶叫してしまう。
誰だこいつ!? いや見たことあるぞ。そうだ、燃さんがいけすかない上司とか言っていたマイロンとかいう深層六騎!
部屋には自分しかいないもんだと思い込んでいた。俺の心臓がドッドッドと早鐘のように鳴っている。
「こ、ここは俺の個室のはずなんですが……!?」
「燃との関係は良好か」
「は、はい?」
何の用か、何故この部屋にいたのかとかの説明をすっ飛ばして質問されて、俺の困惑は余計に深まる。
燃さんとの関係? 良好……うん、結構良好なんじゃないだろうか。
とりあえず「はあ、まあ」と困惑混じりに頷いておく。
「迷惑はかけられていないか」
「全く、と言ったら嘘になりますけど、それ以上にこっちが面倒見てもらってるんで助かってます」
「そうか」
「…………」
で? と聞きたくなる。どうしてそこで黙るんだ。この人思った以上に言葉足らずだぞ。
俺は別に自分のコミュニケーション能力がそんなに低いとは思わないが、早朝の個室で初老の黒人男性が黙り込んだシチュエーションに向いた会話を思いつくほど器用でもない。なんなんだこの状況。
……と、三十秒くらい無言が続いただろうか。再びマイロンが重い口を開く。
「燃は言動が軽薄で、虚言癖があって、自己愛が強く、目上を敬う心を持ち合わせていない。だが決して悪い人間では…………いや、致命的なほどに悪い人間ではない」
(めちゃくちゃ言い淀んだぞ)
「極めて能力が高いが性格に難がある。怠惰かつ粗雑、職務に積極性が見られない」
(保護者面談で子供に苦言を呈される親ってこんな気分か?)
「だが藤間或也。お前と関わり出して以来、あれは日々に充実を感じている。星影騎士団にとっても非常に好ましい変化だ」
黒人天使の思慮深げな目が俺を見据える。
何を考えているのかよくわからない眼差しだが、天使というだけあってなんかこう慈愛のようなものを感じないでもない。
彼はやけに響く低くて良い声で、ゆっくりと俺に語りかける。
「あの性格に嫌気が差していなければ、これからも燃を頼りなさい」
「あ、ありがとうございます。……そうだ、燃さんの左腕はどうですか? メッセージ送ってみても「大丈夫大丈夫」とかしか返ってこなくて」
「傷口は塞がっている。命に別状はない。だが、元の通りとはいかないだろう。我々はそれほど高度な義肢技術を所有していない」
「そうですか……」
気が沈む。昔転んで片腕を骨折したことがあるけど、一ヶ月少し片腕が使えないだけでとんでもなく大変だった。
燃さんにはこれから一生その苦労が付きまとうのか? 俺のせいで……
思わずうつむいてしまった俺を励ますように、マイロンは厚みのある手をそっと肩へ乗せてきた。
「気に病むことはない。戦いを生業とする以上、避けられぬことだ」
ちょっとした気休めのような言葉だが、彼の良い声でそう説かれると神父から教えを受けたような説得力がある。
俺が頷くと、彼もまたゆっくりと頷き返してきた。
「親しくしてやってくれ。燃だけでなく、困ったことがあれば我々に言いたまえ。可能な限り便宜を図ろう」
「わざわざありがとうございます」
なんだよ燃さん、嫌な上司とかなんとか言っちゃって。確かに物言いはぶっきらぼうだけど良い人じゃないか。
俺がそんなことを考えていると、マイロンは『聖門』と呟きながら背中に光翼を展開させる。
まばゆい光が暗い部屋を満たして、何もなかった場所に光の扉が開く。
マイロンがそこを潜ると扉は閉じて、彼は姿を消し、何事もなかったかのように病室に静けさが戻った。
ワープ能力、的なものなんだろうか。もしかして病室にもあれで入ってきたのか?
やろうと思えばどこにでも侵入できる上司。なるほど、そう考えるとちょっと嫌かもしれないな。
マイロンが去ってから、俺はそれなりに慌ただしい時間を過ごす。
朝食を済ませ、体調面の簡単な最終チェックを受けて、いくつかの書類にサインを書いてから部屋に置いてあった私物を片付ける。
他にも諸々の雑事を済ませていると、いつの間にか退院の時間になっていた。
そろそろ部屋を出るかな。伸びをしながらそんなことを考えていると、廊下の外からダダダダと激しい足音と「走らないでください!」と叱る看護師の声が聞こえてきた。
なんだろうと首を傾げていると、俺の病室の扉がバン! と激しく開かれた。飛びかかってくる人影!
「アリヤー!!!」
「ぐううっ!?」
エクセリアだ。アメフトのタックルぐらいの勢いで飛びついてきたせいで俺の腹に頭突きがめりこむ。
いい具合の腹パンを受けたみたいになってうめく俺にお構いなしで、エクセリアは俺の胸板やら肩を追撃でべしべし殴ってくる。
「アリヤお前! 私のいないところで勝手に死にかけるな! ダメだぞ! そういうのはよくない!」
「ご、ごめんごめん。痛い、痛いってば」
「この私に心配をかけた罰だ! 食らえ!」
「いたた……悪かったよ。ごめんね」
仕方なく殴られていると、「すみません、すみません」と看護師に謝りながら病室に入ってきたユーリカがエクセリアの首根っこを掴む。
「こら! 駄目でしょエクセリアちゃん! 病院でも学校でも廊下は走っちゃいけません!」
「む、ユーリカか……うん……」
おっ、言うこと聞いてる。その光景を俺は少し意外に感じる。
ユーリカはそれほど押しの強い性格ではない。優しくやんわりしたタイプで、そんな子に叱られたところで大人しく言うことを聞くとは思えなかったのだが。
と、俺はエクセリアがユーリカに頭が上がらなくなっている原因にふと思い至る。
「ユーリカ、エクセリアが迷惑かけたみたいで……本当に申し訳ない」
「ん? ああ〜圧力鍋のことね。ふふふ、びっくりしたけど凄すぎて笑っちゃった。使用法を守らないとあんなに派手なことになっちゃうのね」
エクセリアから鍋爆発の連絡を受けて返ったら一緒に掃除しようと約束していたが、俺は入院の憂き目に遭ってしまった。
天井に鍋のフタが突き刺さってカレーがぶちまけられた部屋をまさかそのままにしておくわけにもいかなかったので、やむなくユーリカに連絡を入れてエクセリアの掃除を手伝ってもらったのだ。
ユーリカから送られてきた部屋の写真はなんとも無惨なものだった。ほんの数日間で大迷惑をかけたことで、どうやらエクセリアはユーリカに頭が上がらなくなっているみたいだ。
「本当に何から何まで迷惑かけちゃって……ありがとう、助かったよ」
「ううん、気にしないで。私もシエナちゃんがいなくて寂しかったし……あ、エクセリアちゃんどこに行くの?」
「アリヤ、私はちょっと凄いことができるようになったぞ! 窓から下を見ていろ!」
「あ、こら〜! 一人で出歩かないの!」
部屋を出たエクセリアを追ってユーリカが出ていく。
それと入れ違いに、シエナとミトマの二人が病室へと入ってきた。
「やっ、元気そうじゃん」
「なんだ、もう身支度は済ませているのか。手伝おうかと思っていたんだが」
「もう退院手続きも済んでるよ。来てくれてありがとう」
退院の出迎えに来てくれたのだ。俺は片手を挙げて挨拶を交わす。
シエナは狙われる立場だから市中に出ない方がいいんじゃないかと言ったのだが、この病院がある区画は星影騎士団の完全統治下。休戦協定を結んでいる今は出入りしても襲われる心配はない、ということだそうだ。
窓際に立ったシエナが、階下を眺めながら俺を手招きする。
「いや〜エクセリアは凄いね。まさかあんなことが出来るようになるなんて」
「あんなこと? あんなことってなんだよ」
「あ、聞いてない? ほらこっち、実演しようとしてるよ」
シエナに呼ばれて下を見下ろすと、芝生広場でエクセリアがこっちに向けて両手を振りながらぴょんぴょんと跳ねている。
「見ていろアリヤー!!」
次の瞬間、俺はエクセリアが見せた行動に本気で驚かされることになる。
5/29に5話、31話、57話の次に人物紹介1、2、3を追加しています。




