36話 世界骨・深層
燃が深層に足を踏み入れて、最初に気付いたのは奏でられているピアノの音だ。ちょっとシックな飲食店で流れるような静かな環境音楽ではなく、誰かが激しく鍵盤を鳴らしている。
ペールグリーンの薄明かりで照らされた暗い円形ホール。ダンスフロアみたいにだだっ広い部屋の右端に据え付けられたグランドピアノに目を向けると、そこに座っている男が燃の目に映る。深層六騎の一人、研究所でアリヤが交戦したブリークハイドだ。
金髪で端正な顔立ちの彼は、何かを主張するみたいに一心不乱にピアノを弾いている。弾き狂っている。
「え? ちょっ、何何何? どしたんブリ坊、なんでここでピアノ弾いてるん? 変なもん食べた?」
燃はブリークハイドがピアノを趣味にしていることを知っている。
彼が弾いているのはベートーベンのピアノソナタ第14番、月光の第3楽章。たまたま手に入れたが興味のなかった礎世界産の楽譜を捨てるように押し付けた覚えがある。
きっとそれを弾いているのだろう。というのはわかるのだが、何故今ここでそれを弾いているのかが燃にはわからない。
「めっちゃ速く弾くやん。怖っ、きっしょ。何なん? もらった楽譜を弾けるようになりましたよ〜って燃さんに一芸お披露目したかった? え、もしかして燃さんのこと好きなん? マ? ごめん守備範囲外やわ。ゆで卵の茹で時間とかめっちゃ細かそうで無理。自分絶対「これは 15秒長く茹ですぎている」とか言っちゃうタイプやん? 嫌〜。嫌いやわ〜。そんなタイプと絶対結婚できんわ。まあそもそも私結婚願望ないんやけど」
「……よくも私を置き去りにしたな」
「え? 何が?」
「車だ!! 研究所で! 私を乗せず一人で撤退した! 何を考えている!?」
強く鍵盤が叩かれて、ババーン! と憤怒の音が響いた。
ブリークハイドの生真面目な瞳に恨みの炎が灯っている。
燃は(そういやそんなこともあったわ)と内心で渋い顔をしつつ、申し訳なさはおくびにも出さずに眉をしかめ返す。
「いやあれは仕方ないやんブリ坊が姫様怖がらせて保護に失敗した上にアリヤくんに一発かまされたんやろ? アホちゃう? そのフォローを燃さんがしてあげた形なんやからむしろお礼言ってくれてもいいと思うわ、うん。お礼言って」
「ふざけるな。あの後、私がどうやって帰ったと思う。徒歩だぞ!! 交通機関もないあの場所から、真夜中に、徒歩でだ!!」
「おもろいやん。向こう一ヶ月はお酒の席のトークネタに困らんやろそれ」
「私は酒は飲まん!!」
「ほらそういうとこがアカンわ! 燃さん別に飲みニケーションみたいな古臭いこと言う世代やないし下戸にアルコールむりくり飲ませたりはせぇへんけどね、同僚との酒の席に一回も顔出してないブリ坊は論外やと思うよ。良くない。直してこな?」
「……」
「っていうかそうそう、なんでここでピアノ弾いてるん? ギャグ? あんまおもんないけど。そもそも私上からお呼び出し食らったんやけど誰も居れへんなら帰っていい?」
「……マイロン様が来ているぞ」
「うげっ」
マイロン様という名前を聞くなり、燃は露骨に顔をしかめた。
そんな反応に応じるように、薄暗い部屋の奥から影のように一人の男が姿を見せる。フード付きのローブを纏った壮年の黒人男性だ。
彼は薄闇の中に思慮深げな瞳 を爛々と輝かせて燃を見る。
「燃。お前は人から注意を受けそうになった時、先んじて相手を責めることで優位に立とうとする悪癖がある。改めなさい」
「あ、はい……すんません」
「研究所での一件はブリークハイドにも落ち度はあったが、あくまで不可抗力の範囲だ。お前が彼を置き去りにしたのは防げたミスだね。謝りなさい」
「……いやあ〜、ほんとごめんブリ坊」
「真面目に、謝りなさい」
「……すみませんでした。ブリークハイド君」
「フン! 始めから謝っておけばいいものを!」
ようやく受けた神妙な謝罪に、ブリークハイドが満足げに鼻を鳴らした。
対して燃は不満顔だ。まあ謝るべきだったのは事実かもしれないが、あの時はあくまで敵の敷地内だった。自力で脱出できるだろうブリークハイドを待つよりも、少しでも早くエクセリアをあの研究所から出すべきだと考えての行動だった……という言い分がある。
燃が嫌いなことランキングを定めるとしたら、TOP3には間違いなく「怒られること」が入ってくる。
怒られるのは誰だって嫌だが、燃は人一倍、いや人三倍ぐらいはそれを嫌っている。ヘラヘラした性格だが、実のところ気位はかなり高い。
だがそれでも言い訳せず謝罪せざるを得なかったのは、目の前に立つマイロンが燃を遥かに超える実力者だから。
彼は肩書きこそ燃と同じ 深層六騎だが、明確に格上の存在だ。
燃は首をすくめながら、恐縮した目線で彼にお伺いを立てる。
「えーっと、今回の呼び出しはその件でした? これで終わりなら帰っても……」
「別件だ。学園自治連合の一件について説明しなさい。独断で学園の援護をしたことと、シエナ・クラウンと休戦協定を結んだことについて」
「あ〜、ハイ……」
大方その件についての呼び出しだろうとは予想していた燃だが、いざ説明しろと言われると気が滅入る。
マイロンという男の何が苦手かと言えば、全てを見透かすような漆黒の瞳に尽きる。
仕方なしに、燃は事の経緯を詳細に説明していく。
「…………ってなわけで、七面會に利を取らせるよりはいっそ介入して事をうやむやにしてしまった方が上手いこと転がるかな〜と考えての行動やったんです。休戦協定についてはあの状況で真っ向からシエナ討つのは無理やったし、ああせざるを得なかったです。これはホントに。そもそも、アリヤくんって子が私をあの場に呼び出してアホみたいな二者択一を迫ってきたのが原因でですね、あの場の責任は彼が取ってくれるってバッチリ言質を」
「責任転嫁はやめなさい。外部の人間に責任を求めても意味はないだろう」
「は、はい……あ、ちなみにそのアリヤくんって子なかなか面白い子でですね、なんか知らんけど結構戦えて料理がわりと上手くてついでに性格がちょい痛いとこあるからイジりがいがあって私なかなか」
「都合が悪くなると、意図的に無関係の話をして相手を煙に巻こうとする。それもまたお前の悪癖だ。自覚し、改善を心がけなさい」
「すみません……」
気楽に適当に無責任に。そんな燃の処世術が、マイロンには通用しない。看破されて叱られる。
しかも感情的にドヤしつけるのではなく、淡々とした口調で痛いところを的確に突いてくる叱り方なのだ。躱せないし逃げられない。
苦手な先生に職員室に呼び出されて説教を食らうような嫌〜な感触が燃の心を占めている。頭の中にある思いはただ一つだ。
(はよ終わらんかな)
「まだ終わりではない。最後まで真面目に聞きなさい」
「……マイロン様、相手の心読む的なことできましたっけ?」
「顔に出ている。学園自治連合の件については、経緯と意図は理解した。だが、責任は取らなくてはいけないね」
「え、ちょっ待って!? まさかクビですか!?」
「そうは言っていない」
「じゃあ降格!? い、嫌ぁ! 部下の子らに今日から対等なんよ〜よろしくね! とか言いたくない!」
「そうも言っていない」
「え、じゃあまさかあれですか? 死を以て責を償え的な……無理無理無理! 私めっちゃ抵抗しますけど!?」
燃が顔を真っ青にして腰のバーナー刀に手をかけたのを見て、マイロンが少し呆れ気味の表情を浮かべて口を開く。
「人の話は最後まで聞きなさい。……燃。私は五歳児と話をしているのだろうか?」
「す、すいませんホント。黙って大人しく聞いときます」
「……お前は責任を取らなくてはならない。星影騎士団の名の下にシエナ・クラウンと協定を結んだ以上、期間内はそれを前提として騎士団は動く。そのために、お前はいくつかの仕事をこなさなくてはならない」
「はあ……できる範囲で頑張ります」
マイロンから手渡された紙を見て、燃はあからさまではなく、しかしハッキリと顔をしかめる。面倒臭い案件が並んでいたのだ。
適当に簡単そうなのからこなして後はお茶を濁すかな。内心そんな事を考えていると、またしても、マイロンは燃の心を見透かすような視線を向けてくる。
「燃。これは決して懲罰ではない。我々星影騎士団の、亜人種の悲願へと歩みを進める崇高な職務だ」
そう告げたマイロンの背に、巨大な光の翼が展開される。
鳥ような羽ではなく、幾何学図形が組み合わさって形成されたような、プリズムめいて神々しい翼だ。
そして彼の頭上には光の輪が浮かぶ。それは彼の体に内蔵された膨大なエネルギーの漏出。名を、天使の輪。
星影騎士団に籍を置くための秘匿された条件の一つは、“亜人種である”こと。
オーウェン兄妹が人狼でありバーガンディが鳥人であるように、マイロンは亜人種の一種、天使だ。
マイロンの眩さに目を細めた燃は、神託めいた彼の声を強光の中に聞く。
「部隊を三つ使いなさい。それと、深層六騎からフッコを帯同させよう。彼の助力を得れば、全ての案件を解決できるはずだ。やれるね?」
「……やります」
(無理のない範囲で)と、内心で付け加える。
燃に星影騎士団への帰属意識はそれほどない。たまたま属せるだけの能力があって、色々な条件が偶然噛み合ったから給料のいい職として選んだだけ。
彼女もまた亜人種だが、別にこの世界に亜人種差別があるとかそういうわけでもない。ちょっとレアというだけ。普段の姿は人間と何も変わらないし体の仕組みもそう変わらない。不便を感じたことはない。
マイロン。この壮年の黒人天使の何を燃が一番苦手にしているかと言えば、亜人種の悲願だとかなんとか口にしてしまう仰々しさだ。
(ま、睨まれん程度ほどほどに頑張りながら、後は好きにやらせてもらうわ。私は私でやりたいことできたし)
そんな事を考えながら、ようやく説教から解放された燃は「はあ〜」と長いため息を一つ残して深層を立ち去った。
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ガリガリに焼けたベーコンと山盛りのポテト。甘ったるいメープルシロップとバターまみれの三段重ねパンケーキ。お代わり自由のまずいコーヒー。
銀のアルミ缶みたいな外観のプレハブ店舗の中に、雑然と並べられたテーブル席。
この都市に来てから一番の感動を俺は覚えている。古き良きアメリカ的大衆食堂、ハリウッド映画とかでよく見るアレ! ダイナーってやつか!
「アリヤ、なんか楽しそうだね。こういう店がそんなに珍しい?」
「ずっと来てみたかったんだ。日本にはこういう店があんまりなくてさ!」
「なるほどね。地区にもよるけどパンドラには結構こういう店多いよ。ここは味イマイチだけど……」
「それがいいんだよ! この脂っぽい味、雰囲気がある!」
「変わってるなあ」
バーガンディの店を出た俺たちは、雑居ビルから近隣にある店で昼食を食べている。
ダイナーのショボい料理に喜ぶ俺を不思議そうに見るシエナはミートパイを、ミトマとバーガンディはハンバーガーを食べている。
ポテトの塩が付いた指をペロリと舐めながら、バーガンディが俺の視線に割り込むように身をよじる。
「ねえ聞いてアリヤちゃん。クソマズいお食事でもテンション上げてる姿は可愛いけどアタシの話を聞いて。アタシのことを知って」
「はあ……」
「アタシは亜人種って言ったでしょう? けどこの街では亜人種ってそんなに珍しいものでもないのよ」
「へえ」
「あーんパンケーキに夢中でつれない反応! 興味示して! 仕方ないからマル秘情報あげちゃう。星影騎士団なんかも構成員は全員亜人種なのよ? あんまり知られてないけどネ〜」
俺はパンケーキをナイフで削ぎ切る手を止めて、バーガンディへと顔を向ける。
「騎士団が? 燃って人と友達……? いや、知り合いなんだけど、彼女もそうなんですかね」
「燃って深層六騎の? もちろんそうなんじゃないの。でもあんまり知らな〜い。アタシ、メスには興味ないの」
「亜人種……どういう亜人種なんだろう」
「よく知らないけど雑なウソつき女なんでしょ。性悪女なんて妖狐か何かに決まってるわよ。女狐」
「なるほど」
バーガンディにそう言われて、狐なら確かにイメージ合うなと俺は思う。
っていうか、確かあの人のSNSのアカウント名が【紅狐】だ。
「狐だな、きっと」
そう決め付けて、俺は甘くてクドいパンケーキを炭酸の強いジンジャーエールで流し込んだ。




