192話 嵐
その日の朝はあいにくの雨模様だった。
パンドラの雨は暗い。それは自然が生み出す天然の雨ではなく、大気中に充満した魔素の濃度を調整するための人工降雨だからか、アリヤが知る元の世界の雨雲よりも重く分厚い雲だ。それが重油のようにべったりと空にまとわりついている。
「こんな天気じゃ何をするにも気分が乗らないな」
寝覚めの一言にそう呟いたアリヤは、昨日の燃との喧嘩を思い返して余計に二重に重苦しい気分に襲われる。
ただ、そうしてばっかりもいられない。人間誰だって喧嘩になることぐらいある。自分たちのことで揉めたわけじゃないし、もう少しだけ時間を空けてから連絡を取ってみよう。自分が悪かったとは思わないが、声を荒げてしまったことについてとりあえず謝ろう。そもそも他所の家庭の話に首を突っ込んだのがトラブルの原因なわけだし、これ以上の深入りを避ければ済む話だ。
そんなことを考えながらリビングに移動すると、エクセリアが「おはよー」となんだか上機嫌な声を掛けてきた。
「おはよう」と返事をしつつ、アリヤは屋内をきょろきょろと見まわしてからエクセリアに問う。
「雷は? 見当たらないけど」
「知らん。あいつなら朝早く出かけてったぞ。あ、そこのテーブルの缶は昨日雷のやつが買って帰ってきたお土産だ。食べていいって」
「へえ」
クッキー缶を手に取ってみると、そこに記されていたロゴはパンドラ北西部にある都市一番の規模を誇るテーマパークのものだった。
案外エンジョイしてるな、という印象を抱きつつ、缶を開けてジャム付きのクッキーを齧る。
するとエクセリアがニコニコと褒めてほしそうな笑顔を浮かべながら、アリヤの前に皿を運んできた。
「ほらアリヤ、朝ごはんだぞ!」
そう言ってエクセリアが持ってきたのは、ウインナーとスクランブルエッグ、サラダ、ロールパンがワンプレートに盛られたもの。
スクランブルエッグはオムレツにしようとして失敗した挙句諦めてグチャグチャに崩した形跡があるし、サラダはレタスを手で適当にちぎったのに冷蔵庫にある市販のドレッシングをかけただけ。ロールパンも市販のものを軽く焼いただけで、てっぺんが少し黒焦げている。お世辞にも丁寧な朝食とは言えない出来栄えだ。
だがウインナーは湯で焼きにしてあるアリヤ好みの仕上げ方だし、ついでに置かれたインスタントコーヒーはしっかりと混ぜてあって粉っぽさが残っていない。
「これ、エクセリアが?
「うん、私が作った! 食べていいぞ!」
「……」
アリヤは困る。想像以上に嬉しいのだ。
考えてみれば、誰かが朝食を作ってくれるのは本当に久しぶりだ。学園でユーリカの手料理をごちそうになったことはあったが、朝食にこういう生活感に溢れた料理を口にする機会は家族を失って以来本当に経験がなかった。
燃の家に泊まった時も燃が家に泊まった時も、自分で料理を作らないことに情熱を燃やしているタイプの燃が料理を作ってくれたことはない。
プレートの底越しに微かにじんわりと伝わるスクランブルエッグの熱に幸福を感じつつ、アリヤは「いただきます」と卵を口に運んだ。
「どう? どうだ?」と味わう前から気を急いた質問が飛んでくる。アリヤはそれを片手で制しつつ、もぐもぐと噛みしめるように咀嚼してからコーヒーをすすって頷く。
「美味しい!」
「うまいか!」
「うん、美味しいよエクセリア!」
「そうかそうか! はははっ! 私には料理のセンスもあったかー!」
ちょっと焦げてるとか塩が強いとか殻の破片が混ざっていたとか、コーヒーが思ったより薄味だとか遠目に見える台所が悲惨なほど散らかっているだとか色々言うべき点がないわけではないが、そんな全てよりも作ってくれた嬉しさが先立つ。
アリヤが勢いよく食べていると、お代わりを持ってきてやろうと言ってエクセリアがフライパンを片手に持ってくる。
そこには異様な量のスクランブルエッグが入っていて、一体何個の卵を使ったんだろうとか塩味きつめのこれをこの量食べるのは流石に厳しくないか? とか色々な思いがよぎったが、お玉で掬ってニコニコとよそってくるエクセリアの横顔がとても愛おしく感じて拒否する気にならない。
バターロールの焦げをフォークで削ぎながら齧っていると、山のような量のスクランブルエッグに大量のケチャップをぶちまけたエクセリアがアリヤの顔を見つめてきた。
「アリヤ、二人で遊びに行きたい。二人でだぞ。他の誰もいてほしくない」
「え? ああー、急にどうしたんだ?」
「最近お前と二人でゆっくりできる時間がほとんどない。誰か一緒にいるし、仕事も忙しいし。たまにはいいだろう!? 私に構え!」
「全然いいけど、どうしたんだ急に」
「……お前が燃とばっかり仲良くするから」
ムッとした表情で訴えてくるエクセリアに、アリヤは思わず小さく笑みを漏らしてしまう。
確かに、最近二人で遊んだ記憶がほとんどない。忙しさにかまけて彼女に構えていなかったし、息抜きの時も他に誰かがいる状況ばかりだったかもしれない。
人の手作りの朝食を家族のいないアリヤが喜んだように、エクセリアだって記憶がないから天涯孤独だ。頼れる相手はアリヤしかいない。
アリヤはエクセリアが自分に幼い恋愛感情を向けてくれていることを理解しているが、それは恋心と呼ぶには拙い無邪気な好意だ。
他に深い関わりを持った頼れる相手を知らないから、同年代の友達との付き合いもないわけで、現状のエクセリアにはアリヤ以外の選択肢がない。
アリヤはエクセリアのことを愛している。姉の夜とも別個の人間だと認識している。だがそれでもエクセリアはやっぱり妹のような存在であり、彼女に向いている感情も家族愛に類するものだ。
仮にエクセリアがユーリカの部屋で少女漫画の類を読んで恋愛ってものに対する知識をそれなりに培っていたとして、アリヤに彼氏彼女といったような関係性を求めてきたとしてもそれに応える気はない。
エクセリアが記憶を取り戻す前にそこに付け入るような真似をするのはフェアじゃないと感じているのだ。
(そんなことをゴチャゴチャ考えている時点で我ながらキモいな……やめようやめよう。エクセリアの方からなんか言ってきたわけでもないのに)
気を取り直して、アリヤはエクセリアに笑いかける。
「よし、遊びに行こう!」
「ほんと!?」
「朝ごはんのお礼だ。どこでも連れてくよ。行きたいとこある?」
「じゃあじゃあ、この前テレビで見た――――」
ズズ、ズズ、ズンと重く、深く、長く街が揺れた。
建物が崩れるような地震ではない。どちらかと言えば揺れたのは空が揺れたかのような、喉元を締め付けてくるような違和感がパンドラの街を痺れさせる。
三秒区切りに三度に分けて、計十秒ほどの轟きは、何か重大な事柄が起きたのをアリヤたちに報せるのに十分だった。
さらに、窓の外に光の柱が立ち昇ったのをアリヤは目にする。体感三秒ほどの束の間、しかし見間違いではなくはっきりと、巨大な剣を思わせる輝きが都市中心部の方向に上がったのだ。
直後、アリヤとエクセリアのスマホが同時に鳴った。アリヤのスマホの着信画面に表示されたのはエヴァンの名前だ。急いで電話に出ると、聞こえてきたのはエヴァンの苦悶の声色だった。
『アリヤ……! イリスが、暴走した!』
「暴走? エヴァン、何がどうなってる?」
『俺にもわからねえ!! 何が起きたのか……クソッ、とりあえず報告はしたからな!! 俺はイリスを追う!!』
「ま、待てよ! もう少し詳しく! 俺に手伝えることは」
『ねえよ!! いや、ないことはないが、多分お前はこっちにかまってる場合じゃねえ』
「他にも何か起きてるのか!?」
『他の奴に聞け! じゃあな!』
そこで一方的にエヴァンからの通話が切れた。
何が起きてる? 困惑したアリヤが横を見ると、エクセリアもまた眉をしかめた深刻な面持ちで誰かからの話を聞いている。
だがアリヤがエクセリアに話を聞くよりも早く、再びアリヤの電話が鳴り始めた。
エヴァンか? そう思って画面を見ると、そこに表示されているのはシュラの名前だった。
激しさを増す雨脚と共に、燻っていた全ての事態が一斉に歯車を回し始める。




