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191話 安居酒屋にて

 生まれ、育ち、今に至るまでの大部分が造られた記憶?

 アカン無理。自分やったら絶対耐えられへんわ。


 燃が始まりの魔女の打倒を目論んだのは魔女に弄ばれたアリヤへの好意と同情がトリガーだったが、それだけではない。

 他者の尊厳や最低限の意思すら踏みにじるような魔女の存在は、いつかこの街の全てを飲み込み蹂躙しかねない。アリヤが魔女の思惑通りの魔王へと置き換えられて歯車が回ってしまったならきっともうその流れは止められないし、自分もその渦から逃れることはできないだろう。

 そんな確信が燃の心でガソリンのように燃えて、魔女殺しの道へと彼女をひた走らせている。

 目的は選ばない。手段も選ばない。使えるものはなんだって使うと決めた。決めたが……今の状況は燃にとって、大いに想定外だ。


「だから……ぐすっ、石のように生真面目なあの子が私だけにふと垣間見せる羽のような笑顔はこの上な愛おしいもので、ッ……私は弟のためならどんな非道にも手を染める所存でッ!」

「あー、うん。そうなん」

「だけど私は! 罪深い私は同時に弟の……ブリークハイドの猛き竜としての、悪魔のような、破壊的な側面を望んでしまうのです……自らのッ!! 私自身の、汚らわしく薄暗い欲望のためにっ!!」

「ま、女子だってそういう時はあるやろ。気にせんでええんちゃう」

「燃っ!! あなたも!?」

「あー、せやね。はいはい」


 酒だ。深酒に付き合っている。

 ラクリとブリークハイドの話し合いを茶番めいた流れでぶち壊しにした後、なにやらラクリに懐かれてしまった。

 鉄面皮のようだった彼女の表情は一枚皮を剥いだ途端にグデグデに崩れるほど脆いもので、ラクリが希望した安居酒屋で延々と話を聞かされているのだ。

 500円の梅サワーを喉を鳴らして飲み下しながら、ラクリが据わった目で燃の手を握ってくる。

 熱っぽい語りに適当な相槌を打ちながら手を握り返してやって、燃は浅く漬かった大根のピクルスをコリコリと齧りつつ視線を斜めに逸らした。


(ほんっとに想定外やった。まあそりゃラクちゃん味方に引き込めたらラッキーとは思ってたけど、ここまで醜聞さらけだしてくるとは思わへんかったわ。できる女風の雰囲気どこ行ったん? 鶏皮ばっか食べてるけどそんなに好きなん? 大量に食べたら脂きつくない? これあれやろ、普段ずっと行ってみたかった安居酒屋に来てテンション上がって色々はしゃいで飲み食いしちゃってるパターンやろ。あとでダメージ来そ。ま、私には関係ないけど……)

「燃、私はどうすればいいんでしょう……今日の対応でもしブリークハイドに嫌われてしまっていたら……いえ、嫌われてもいいんです。むしろ憎んでほしい。あの制御を失った暴力性を私に叩きつけてほしい……! だけど、そうなるかしら。あの子は基本的には生真面目だから、私との諍いを仕事や生活の邪魔だと判断してしまうかも。もう姉弟仲は修復不可能なものだと割り切って、私に目を向けなくなってしまうかも。それは、それだけは嫌……無関心は嫌!! 廊下で行き違う時、あの子の遠慮と罪悪感が入り混じった目が私に向けられるのが私はたまらなく好きなの。それがなくなってしまったら……! ああっ、あああ! どうしよう燃、私、それには耐えられませんッッ!!」

「ラクちゃん声、声抑えて」

「わああっっ……!!!」

「な、泣かんといてよ。ええ? なんなん、情緒不安定すぎひん……? こっちが不安になるわ……」


 ラクリは燃の右手を強く握って、机に突っ伏しながらわんわんと泣き始めた。半個室のような席で助かった。周囲の視線があったら気になって仕方がないところだ。

 それでも声は漏れるから、店員が注意に来るんじゃないかと気が気じゃない。困った。燃は奔放にふるまって周りに迷惑を掛ける方が好きで、迷惑を掛けられるのは全然好きじゃない。

 げんなりしつつ、それでもラクリが自分に友情? 好感? ラクリの中での分類はよくわからないが、とりあえずポジティブな感情を抱いてくれているのであれば、戦力計算が立てやすくなる。ここで放って帰る手はなしだ。

 それに戸惑いはあるが、年甲斐もなくわあわあ泣いている同僚を置いて帰れるほど非道な性格でもない。自認こそしていないが、なんだかんだで面倒見は良い方だ。


「ほらラクちゃん、酔いすぎやって。姉弟の関係性そんな簡単に切れへんやろ。水飲み水」

「嫌です、私はまだお酒を……」

「あーもう、イキった若者みたいなペースで安酒飲んだらアカンって。こういうお店に慣れてへんのやろ? 飲み放題のお酒なんてやっすい業務用の蒸留酒とかでバイト店員が雑に割ったやつやから頭にも胃にも響くんやって」

「これが飲まずにやっていられますかっ!!」

「かーっ面倒臭い……」


 ラクリは今日の喧嘩めいたやりとりを思った以上に気に病んでいるようだが、実際のところ姉弟が言い合いをしたわけではない。

 そう、喧嘩になったのは燃とアリヤの方だ。

 いわゆる代理戦争のような格好になってそのまま、お互いに怒り心頭のまま喧嘩別れの状態になっている。

 魔女を殺そうとしている今、アリヤとの関係性を悪くしてしまうのは絶対に避けたいところだ。


(っていうか計算抜きで困るわ。こんなんで仲違いってのは嫌すぎる。腹立つのは今日の件だけで判断するなら、どう考えてもアリヤくんが正しくてこっちが悪ってこと。向こうは円満に話し合いを進めようとしただけで、私は邪魔するつもりで邪魔したわけで。でも魔女を倒すためにはラクちゃんの協力が欠かせへんわけで、私の言動はそのためには必須やった。じゃあどうすればいい? アリヤくんに電話でもして今日のこと謝る? 冗談! なんでこっちが頭下げなアカンわけ。アリヤくんのために必死こいて奔走してるってのに。それに謝ったとして、じゃあもう一回この姉弟に話し合いをさせようなんて言われたらどうする? 私の立場からすればまた邪魔するしかないわけで、結局堂々巡りやん。でもその理由を説明するわけにもいかない。だってそしたらアリヤくんに魔女のことと、アリヤくん自身のことを説明せなアカンくなる。それは駄目。隠すしかないし、それなら謝るわけにもいかへん)


 そんなことを脳内でぐるぐると考えながら、燃は自分の表情が曇るのを自覚する。

 燃はのらりくらり、他人との決定的な衝突は避けながら生きてきたタイプだ。そういう立ち回りは得意だし、喧嘩になるくらいなら真剣にならずにその道を回避してきた。というか、これまでの生涯で本気になったこと自体がほとんどなかった。

 それが今回は本気だ。本気で魔女を殺し、本気でアリヤを守ろうと考えている。そうなった途端にこのザマ。

慣れないことをすると上手く回らないものだと、苦虫を嚙み潰したような心持ちになる。

 と、そんな燃の顔をラクリが見つめていることに気付く。


「燃……ごめんなさい。私のせいで……その、あなたのお気に入りの藤間或也と仲違いをさせてしまって」

「え? ああうん。まあ……ね。気にせんといて。なんとかなるやろ」

「でも燃、気を悪くしないでね。私は……あまり藤間或也に愛情を抱かない方がいいと思うわ」

「あー、本物の人間じゃないからとかそういう話? 大丈夫大丈夫。燃さんリベラルな人なんよ。別に出自がどうだろうと人型してれば別にかまへんから」

「……そう」


 逡巡するような表情を浮かべて、ラクリは何か言いかけた言葉を飲み込んだ。

 それから少し沈黙して、目を上げたラクリは酔いに赤らんだ顔で燃へと微笑む。


「道ならぬ想いはお互い同じ。私は全霊を賭してあなたの力になるわ、燃。一緒に想いを遂げましょう」

「ん、うん。なんか言い方が重いし、私の方はそんな道ならぬとかやないと思うけど……ま、せやね。頑張ろ」


 気を取り直して、燃は遠い目で魔女打倒の日を見定める。

 だが全ての事態が一斉に動き出したのは、この翌日のことだった。

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