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188話 血に塗れた過去

 全て私が悪い。

 そう前置いてから、ブリークハイドは重苦しい声色で語り始める。


「あれはちょうど、私が13の誕生日を迎えた翌日だった。いつものように屋敷の地下で手合わせをしていた私と姉は、少し興が乗って練習時の安全のために身に着けていたグラブを外した。グラブは指を保護して動きを制限するためのもので、同時に相手の保護も兼ねている。だが大人の竜人種が訓練をする際にそんなものを着けはしない。あくまで未熟な子供が力加減を誤らないよう、保険の意味合いが強いものだった。それを外してしまったんだ」


 青年の顔が曇り、うつむき加減に長い五指を眺める。

 

「初めは問題なかった。これまで単純な打撃と簡易な組み合いだけで行っていた訓練に掴みをはじめ、さまざまな駆け引きの要素が加わって楽しかった。……ああ、そもそも姉弟で格闘の訓練というのを奇妙に思うかもしれないが、我々竜人種は共通の気質として好戦的だ。老若男女を問わず、ある程度の格闘を嗜むのは普通のことだ。だが……親の許可を得ずにグラブを外したのは誤りだった。姉の手首を取ろうと手を伸ばした時、私の爪が避けようとした姉の二の腕を浅く裂いてしまったのだ」

「爪が裂いた?」

「……爪と言っても竜人種の爪だ。気が昂っていた私の爪は鋭利なナイフほどに尖っていた。不意を突かれた姉の肌には切り傷が刻まれ、血が床に飛び散った」


 そこでブリークハイドは暗い目をして口を閉ざす。言葉を続けようとしている雰囲気はあるが、ここに来て話したものか迷っているような様子だ。

 ここで話を切られても困る。アリヤは眉をしかめて、とりあえずの所感を相槌として口にする。


「あー……それで終わり? いや、傷の程度がどれくらいだったのかは知らないけど、ちょっとした悪戯心とか凡ミスで怪我をさせちゃうなんて普通の兄弟姉妹でもよくあることだと思うけどな。それともまだ続きが?」

「それだけなら悩むものか。……私は、自らの爪で血を流してしまったことに驚いた。息を飲み、青ざめ、敬愛する姉を怪我させてしまったことを悔いた。だがそれを凌駕するほどに、私は大きな興奮を覚えてしまったのだ」


 彼は唇を噛みしめ、眉間に深くシワを寄せる。

 


「爪で皮膚を裂く感覚、肉を切る感触。温かい血が爪をしたたり、姉が束の間痛みに身を固くする。丸く開かれた目、一瞬の反射としての怯え。その全てが竜人種としての狩猟本能に……いや、私自身のひどく愚かな部分に火を灯してしまった」

「……」

「私は姉へ飛び掛かった。目は爛々と、息を荒げ、歯を剥き出しにしていたと思う。驚いて静止の声を上げかけた姉の口に前腕部を噛ませるようにして塞ぎ、肉食獣がするように体重をかけて姉を引き倒した」

「……おお」

「……自らの愚行は客観的な映像で見たかのように覚えている。姉の頬に拳をぶつけた。肩や頭を殴打した。尖らせたままの爪で腹を掻いて、顔を庇うように覆った姉の腕に爪痕をいくつも付けた。暴力衝動は秒増しに高まって、見る間に姉の着ていた服は無残な様に裂けてしまっていた。……姉は困惑しながらも、優しかった。私の名前を懸命に呼び、自衛しながらも私を正気に戻そうとしてくれていた。だが竜人種の血の昂ぶりは止まらない。私は姉へと殴打を続け、爪で傷付け、首を締め上げ、高揚のままに牙を首筋に立てたのだ。顎の力を加減さえせずに。頸動脈が傷付いて、だくだくと血が溢れて、頬に血が付着して……そこでようやく私は気を取り直した。ちょうど物音に気付いた家の使用人たちが地下へ入ってきて、自らのしてしまったことに気付いた私は茫然自失のまま姉から引き剥がされた。その日を境に私と姉が手合わせをすることはなくなり、会話もぎこちなくなり……今に至るというわけだ。……今でも血に塗れた自分の手を夢に見る。本当に愚かで、申し訳ないことをした」

「……ははあ、そういう感じね。なるほどなるほど。ふーん……」


 アリヤは相槌を打ちながら、正しいリアクションを脳内で探す。

 いや正直、こういう路線の話だとは思っていなかった。もっと些細な仲違いが不和の原因で、なんなら誤解から来るすれ違い程度のもので、真正面から誠意を持って話せばきっと解決できるさという適当なアドバイスで快方に向かう程度の相談じゃないかとタカをくくっていた。

 だが蓋を開けてみれば大変だ。ブリークハイドのやらかしは姉から避けられるのも当然なで、話を聞く限りではなんなら危うく殺していたんじゃないかというレベルのもの。

 見積もりが甘かったのは認めよう。だが誰だって女子ウケ抜群のフォトジェニックなアイスクリーム屋でそこまで重大な相談を持ち掛けられるとは思わないじゃないかとアリヤは思う。

 だったらもう少し落ち着いて長居できるタイプの喫茶店とか……あるだろう、もう少し。

 そんなアリヤの動揺を尻目に、ブリークハイドは無言で席を立つ。

 え、どうしてここで立つ? アリヤが驚いて「ちょ、ちょっと」と声をかけると、彼はさも当然のような顔で「喉が渇いた」と言って注文カウンターへ再び足を向ける。

 真面目一辺倒で杓子定規なお堅い奴とばかり思っていたのだが、それに加えて下の子特有の奔放さとマイペースさを持ち合わせているようだ。併せて人格の出来がよろしくない。

 まあそれはさておき、どうしたものだろうとアリヤは悩む。

 いくらかつて仲の良かった姉弟だと言っても、一度殺されかけて狂った間柄は元に戻るのだろうか。

 悪意があっての行動ではなく、自分を見失っての暴走なようだったが、それもあくまでブリークハイド視点での語り口。姉のラクリの方がそんな事情を正確に把握しているかは定かじゃない。

 親や周りの大人がどうケアをしたかはわからないし、なんなら彼の家でその話題はタブーになった可能性すらある。

 そうだとしてもそのことの是非はわからないし、今更部外者がひょいと首を突っ込むような話題じゃないことは間違いない。

 そもそもブリークハイドはアリヤが姉と親しかったと知って相談を持ち掛けてきたようだが、アリヤの姉の夜はずっと入院暮らしだったからその関係性はかなり特殊だ。参考になるとは思えない。

 加えて言えば、アリヤは姉と両親の死を経て以来、他人との関わりを極端に避けて暮らしてきた。

 人と人の関係性に関する知識は極めて乏しく、相談を受けたからって含蓄のある助言ができますよというタイプでは決してない。

 ただ一つわかるのは、子供の頃の不和がお互いになっても尾を引いているパターンなんて十中八九こじれきっているし、正しい形への修復は容易ではないということぐらい……と言った具合にアリヤは考える。


(これ、何をアドバイスしろって言うんだ? ……いや待て、焦るな俺。事務所を開くときに人の話の聞き方は一応勉強しただろ)


 狼狽しながらそんな考えを巡らせていると、ブリークハイドがホットコーヒーを二杯持って戻ってきた。

 そのうち一杯を無言でアリヤの前に置き、飲むように促してきた。

 アリヤが礼を言って代金を払おうとするも、彼は手を出さずにそれを拒否する。一応、相談料代わりということだろうか。

(なんだ。自己中なマイペース人間かと思えば気の利くところもあるじゃないか)

 そう思いながらコーヒーに口を付けて、アリヤは思わず顔をしかめてしまう。


「あっま!!」


 舌がざらつくほどにグラニュー糖が溶かし込んであるのだ。苦味と風味の面影が残っていない。

 だがブリークハイドはおそらく同じような砂糖入りコーヒーを平然と飲みながら、「普通だろう」と事もなさげにうそぶく。

 アリヤは確信する。こいつは唐揚げの大皿に無許可でレモンを回しかけるタイプだ。

 さておき……一応、彼の中にアリヤが相談に乗ってくれたことへの感謝はあるらしい。そうだと知れば、少しくらいは貢献してやりたくなるのが人情だ。


(人が人に相談をする時は別視点での答えを求めてる時、答えは求めてなくてただ聞いてほしいだけの時、自分の中で定まってる答えの後押しをしてほしい時の三パターンだ。こいつの性格を見た感じ、ただ話したいだけって雰囲気じゃない。で、俺は別視点での答えは正直出せない。だとして対応できるのは三つ目ぐらいだ。無責任でいいさ、ただ背中を押してやれ)


 そう考えて、アリヤは口を開いた。


「ブリークハイド。お姉さんに謝ったことは?」

「あるに決まっている」

「大人になってからは?」

「……ある、と思うが」

「申し訳なく思ってるのは伝わってきたけど、問題が起きたのは子供の頃だろ。大人になってからはお姉さんとの間ではその話を持ち出すのを避ける雰囲気になってたりしないか?」

「それは、ある」

「時間が解決する問題は多いって言うしさ、このことも大人になってから改めて頭を下げて、一度腹を割って話してみることで進展するかもしれない。正直、お姉さんがまだ怒りを抱えてるとしたらどう転ぶかわからないけど……お互いに気まずいだけの状態なんだとしたら、謝って解決する話かもしれないぜ」

「だが……」

「不安なら間に第三者を置けばいいんだよ。同じ職場なんだから共通の知り合いはいるだろ? そこを頼ってさ」

「……ふむ」


 納得した様子で小さくうなずいたブリークハイドは、スマホで手早く誰かとメッセージのやりとりをする。

 数分の後、彼はおもむろに顔を上げた。


「姉に連絡を取った。一時間後に会う」

「え、一時間後!? そりゃまた急な……いや、行動が早いのは偉いと思うよ。頑張ってな」

「? 何を言っている。お前も来い」

「え、は?」

「第三者だ。言ったからには役割を果たせ」

「い、いやいやいや……! 共通の知り合いじゃないだろ! 俺はお前のお姉さんのこと知らないぞ!? おい! 話を聞け!」


 予想以上の自己中心主義。こいつ、思った以上に根っから末っ子気質だとアリヤは呆れる。

 もしアリヤに予定があったらどうするつもりだったのか。まあないんだが。


 そして結局一時間後、アリヤは針の筵に座るような気持ちで話し合いの場に同席することとなる。

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