179話 追う黒猫
(はーいやだいやだ、めんどくさい)
エヴァンから頼まれてランドール家の老メイドを追うコンブは、小さな猫の口からため息を漏らしながら四肢をテクテクと動かしている。
雑居ビルの合間の薄暗く細い路地を、ポイ捨てされたタバコのヤニが染みた水溜りを飛び越えて、気持ちに反して足取りは軽快に。
(オレは猫だぜ。アホ面ひっさげて舌垂らして人間サマにシッポ振ってる犬連中とは違って、自由を愛する奔放な黒猫だ。なのになんでこうなっちゃったかな……せこせこ人間の婆さん追っかけまわしてさー。それもよりによって犬人間のパシリで! 超の付く屈辱ってやつだよこんなのさ)
猫であるコンブは本能的に犬が好きじゃない。
何か嫌な思い出があるわけじゃないが、同じ四つ足で自分より体が大きく、挙動の全てが大袈裟な犬という生物が気に食わないのだ。
エヴァンにそういう特徴があるわけではないけれど、なんだか同じように気に入らない。
(そもそもオレが気を許したのはエクセリアだけだぜ。アリヤはなんだか嫌いな匂いがするから好きじゃないけど、まあ本人が嫌いかって聞かれればそういうわけじゃない。一応、あいつらには助けられた恩があるから多少手助けしてやるのもやぶさかじゃないさ。でもここまで人間の仕事みたいなのをやらされるとは思ってなかったんだよなあ。どいつもこいつも猫遣いが荒すぎだろ)
そんな不満を抱えながらも、コンブは極めて優秀だ。
猫の感覚は人間とは比べ物にならないほど鋭い。本来は小さな獲物を追ったり危機回避のために用いられるそれを追跡に向ければ、人間一人を追うことくらい朝飯前だ。
老メイドに気付かれないよう大きく距離を空けつつ、それ以上距離を話されることもなく的確に追いかけていっている。
雑居ビルの裏口ドアが開いて、飲食店の店員が空のビール瓶を収めたケースを置いてガシャンと音が鳴る。
どこかで響いたクラクションが残響して、ネズミが「ヂチ」と声を漏らしながら壁沿いを駆ける。
それを追って飛び出してきた野良猫を横目に見ながら、コンブは小さく首をすくめた。
(……人間みたいに仕事させられる現状に不満があっても、野良猫に戻りたいかって聞かれるとそういうわけじゃないんだよね。なんていうか、知性が芽生えちゃったせいで本能任せにネズミを追っかけるのとかはちょっと野蛮に思えちゃうし。じゃあ家猫になりたいかって言われるとそういうわけでもないんだよなー。暇そうだし……っと?)
路地に敷かれた湿った段ボールはホームレスの寝床だ。気が立った酔っ払いを刺激しないよう迂回しつつ、コンブはぴょんぴょんぴょんと雨水管に足をかけつつ雑居ビルの上へと駆け上がる。
おかしい。追っている老メイドが、急に進行方向を変えたのだ。
まさか尾行に気付かれた? いやいや、ありえない。念には念を入れて、本来安全な距離感からさらに倍ほど距離を空けて追っている。
だが老メイドは、明らかにランドール邸とは違う方向に足を向け始めている。
何か買い忘れがあった? 小腹が空いた? いや、そういう足取りじゃない。コンブの動物的な勘が、これは情報を掴めるチャンスだと訴えている。
(あの婆さん、リシェルとかいうランドール家の嫁の祖母なんだっけ? 人間の親の親がどうとかよくわかんないんだよな。ピンとこないや。でもまあ、追っといて損はないだろ)
そう判断したコンブは屋上から屋上へ、雑居ビル街の狭い路地を飛び越えながら素早く進んでいく。
それから5分ほど駆けただろうか。老メイドが足を止めたのは、ビル街の外れにある廃墟然としたオンボロビルが並ぶ区画だった。
雰囲気としては放棄区画に近い。土地の所有者が死んだか失踪したかのパターンだろうか?
蜘蛛の巣があちこちに張っていて、古ぼけてしなびた映画のポスターが張りっぱなしになっている。
田舎ではなく都市部に位置しているにも関わらず、10年は人の手が入っていないようなムードが醸し出されているのだ。
(なんでこんなとこに来てんだよ、あの婆さん。物騒だなあ)
コンブは元々廃墟化した地下道に出入りしていた猫だ。こういう場所には慣れているが、慣れているからこそ恐ろしさも知っている。
人間に比べてガラス片や古釘を踏めば怪我をしてしまうかもしれないし、老朽化したコンクリートや禿げた塗装の飛沫を吸えば体に悪影響が出てしまうだろう。
それ以上に死角が多い廃墟には何が潜んでいるかわからない。慎重に慎重に、コンブは極限まで気配を消すよう努めながら歩みを進める。
すると廃墟の屋内、割れた窓ガラス越しに老メイドが佇んでいるのを見つけることができた。
彼女は誰かと話をしている。誰だ? 死角になっていて見えにくい。
(……距離は十分あるし、ここからならもう少し覗き込んでも大丈夫かな……気を付けて、気付かれないように……)
そっと覗き込んだところで、コンブは思わず首を傾げた。
そこにいたのは黒ずくめの格好をした奇妙な影だ。
(え、誰? ……いや、そうだ。知ってるぞ。アリヤたちが言ってたし写真で見た。あれは黒貌王だ!)
ブラックホールめいて艶すらない漆黒の面を被り、体にも黒衣を巻きつけた異様な人物。
死者を使役し街の騒乱にあちこちで関与している怪しげな輩こそ、今コンブの眼前にいる黒貌王だ。
だけどどうして老メイドが黒貌王とここで会う? 偶然なわけはない。偶然でこんなところに踏み込むものか。待ち合わせをしていたに違いない。
(あの婆さん思ってた以上に食えないぞ……エヴァンにしたみたいに、黒貌王にも協力を要請してんのかも! あちこちにモーションかけまくってんだとしたらクセモノじゃん。なんならエヴァンたちを捨て駒にする可能性だってあるよ。黒貌王の方が大物だし)
コンブがいるのは建物の構造上、光が当たらない箇所だ。
そして幸いコンブは黒猫。影に紛れてしまえばちょっとやそっとじゃ人間の目では見つけられない。
婆さんと黒貌王は一体何を話してるんだ? それを気にしたコンブは、足音を立てないようにそっと二人への距離を詰める。
だが残念なことに、二人は会話を終えてしまったようだ。
老メイドは深々と一礼をして踵を返し、老齢のわりに伸びた背筋で部屋から立ち去っていく。
(ちぇっ、内容まで聞ければ良かったんだけど……でも、この接触を見られたことだけでも収穫だ。婆さんの追跡はここまでにして、情報を持ち帰るのを優先した方がいいかもね)
コンブはあくまで冷静だ。
保身の意味でも俯瞰の視点でも、ここで引くべきだと猫の勘が告げている。
情報を得られたことに満足しながら引き返そうとして……寸前、コンブは身動きを止めた。
(待った待った。あいつ、仮面外そうとしてない?)
……間違いない。仮面に手を掛けている。
側面にあるロックに指を掛けて、なにかガチャガチャといじったかと思えばガチンと音。
フルフェイスのヘルメットと兜の中間のような形のマスクに隙間が開き、そして気を持たせることもなくあっさりと、顔を覆っていた仮面が取り外された。
(……!? そ、そうか。あいつが黒貌王だったんだ……! だから……)
気配。
黒貌王の素顔に夢中になったコンブは、背後に迫る気配に気付けない。
人の出入りがない廃墟には空気が滞り、滞留した魔素が生物を凶暴化させることがある。
コンブの背後へと低く低く、牙を剥いて唸る殺意の獣が迫っている。




