173話 感情と論理
午前9時少し前。
仕事前の集合時間まではあと10分。ニキはコンブと共に、宿のロビーで微糖の紅茶のペットボトルを片手にエヴァンを待っている。
「……まだかな、エヴァンさんは」
ニキとコンブは学園が手配してくれた宿で一晩を過ごしたが、結局エヴァンは朝になっても帰っていなかった。
何をしているのだろう。何かトラブルがあったのだろうか。
荒事に慣れたエヴァンのことだ。心配するだけ杞憂かもしれないが、それでもニキは彼のことが心配でならない。
なにせ少年が想いを寄せているイリスの兄であり、昨日少しだけ自分のことを認めてくれた人。無事を願う気持ちは心からのものだ。
「ねえコンブ、どうしよう。エヴァンさんが無事か連絡してみてもいいかな? 迷惑かな。怒られるかな」
「んー、ほっときなよ。あいつだって小さい子供じゃないんだしさ、あと10分ぐらいあるんでしょ。仕事の時間までには帰ってくるんじゃない? 硬派ぶってるけど女の子でも捕まえて遊んでんだよきっと」
「そ、そんな人じゃないよエヴァンさんは。イリスちゃんが入院中なんだから」
「何を根拠に言ってるか知らないけどさ、あいつなんだかんだ不良じゃん。人間の不良って女癖悪いもんじゃないの」
「猫なのに偏見強いなぁ……」
「ま、オレもエヴァンとはまだ付き合い浅いからわかんないけどねー」
くあ……と大口を開けて、あくびをしながらコンブが言う。
猫は猫だ。気まぐれだし真面目とは言い難い。だが生真面目なニキはそんな適当なスタンスではいられない。
刻一刻と不安が募り、待ち合わせ時刻まではついに残り3分。
すっかり飲み干してしまった紅茶のボトルをゴミ箱へ捨てて、ニキはスマホを手に取った。
「ダメだ、やっぱり連絡してみるよ!」
「んー……あ、待った。来たみたいだよ」
ぐぐっとノビをしながら、コンブがエントランスの方向を見た。
そこには確かにエヴァンがいる。少し寝足りないような気怠げな面持ちをしていて、そしてその横には見知らぬ女の姿。
赤髪をツインテールにまとめた若い女がエヴァンと腕を絡めて歩いている。
「ほ、本当に遊んでる……!!?」
チャラい! エヴァンが「よう」と片手を挙げるが、ニキは思わず絶句してしまい反応を示せない。
代わりとばかりに、少年の横でコンブが声を上げた。
「ニキはお前がチャラくて失望したってさ。あーあ、人望なくなっちゃったね」
「ああ……? 何の話だよ」
・
エヴァンが手短にサイハイの立場と昨晩の経緯を説明して、ニキたちは事情を知って得心する。
(人騒がせな)という不満を瞳に湛えながら、コンブがエヴァンへと問いかける。
「でもなんで腕組んでたんだよ。あんな感じで出てきたら女遊びかなって誰でも思うって」
「知るか。文句言いたいのは俺の方だ。この女、病み上がりで体力が戻ってないもんだから俺のことを杖代わりにしてやがる。何度も離せって言ったのにやめねえから諦めたんだよ」
うんざりした調子でそう言うエヴァンへ、サイハイは何故だか偉そうに胸を張る。
「ふふん。感謝しなさいよ、あたしみたいな美女と腕組めることに」
「求めてねえ。さっき測ったら熱は下がってただろうが。だったら自分で歩きやがれ」
「嫌よ。人狼って頑丈なんでしょ? だったらもしあたしが狙撃された時にとっさに盾にできるようにそばにいないと意味ないもん」
「ふざけんじゃねえ! クソッ、どれだけ迷惑かければ……朝からコインランドリーでてめぇの服を洗わされて、朝食も調達してやった! その上盾にされてたまるか!」
そんなやりとりから一歩引いて、ニキはまだ状況を飲み込みきれていない。
とにかく疑問符が多い。四侠? この若い女の人が? 本当に味方に付いたのか? スパイじゃないのか? こっちの内部事情を聞かせても大丈夫なのか?
思わず不思議と訝しみが混ざった目を向けてしまうニキに、サイハイはにまっと笑みを向けてみせる。
「エヴァンが紹介してくれたけど、一応自分でも自己紹介しとくわ。あたしはサイハイ。言っとくけどあたし超強いから。あんたみたいなガキ相手なら指先一本で余裕だから。あたしのことはサイハイさんって敬意を込めて呼びなさい。ナメた口利いたらマジでワンパンだかんねワンパン」
「え? あっ、はい」
「それとそっちの猫ちゃん。あたしは猫って結構好きよ。あんた喋れるんでしょ? それって激レアじゃん。あたし珍しいものも好きなの。あんたあたしの飼い猫にならない? いい餌食わせてあげるわよ」
サイハイはズイッと踏み込むように勧誘してくるが、コンブはまるで取り合わずにフイッと横を向いた。
「遠慮しとく」
「は? なんでよ!!」
「物言いが上からすぎ。何があっても対等には見てくれないタイプじゃん。絶対嫌だね」
「イーッ生意気な猫ね! ゴチャゴチャ言わずにちょっと抱かせなさいよ!」
サイハイは両手を伸ばして捕まえようとするが、猫特有のしなやかさでするりとそこをすり抜けるコンブ。
背後に回って隠れたコンブを庇うように、ニキが戸惑いをあらわに口を開いた。
「あの、こんなこと言うのも失礼だと思うんですけど……エヴァンさん、この人が裏切らないって保証はあるんですか?」
「は!? マージで失礼なガキね! ねーエヴァン、あんたの説明が下手だったせいじゃないの!?」
病み上がりなのに元気も元気、噛み付かんばかりの表情でエヴァンを睨んだ彼女は、はいはいと両手を広げながらニキに面倒臭そうな視線を向ける。
「それとも、えーとニキだっけ? あんたの理解力不足の問題かしらね。仕方ないからもう一回わかりやすーく説明したげる。あたしは血の門にもう居場所がなくて黙ってたら始末されかねない身で、エヴァンは血の門に狙われてるわけ。あたしって超強いから血の門の雑魚どもがホイホイかかってきたところでそうそうやられやしないんだけど、それでもまあ……勝てない相手は一応いるし? 今の立場で一人でいるのは身の危険を感じるわけね? だから血の門の情報をくれてやる代わりにあたしを守りなさいよって交渉したの。ほら相互利益。ウィンウィンの関係ってやつじゃん。裏切る要素なくない?」
「仰る事情は理解できるんですけど、でもそれって全部自己申告ですよね。こっちに入り込むための筋道を立てるために理由を騙ってる可能性は拭えませんし……」
「は!? んなこと言われたって自己申告以外しようがないじゃん! あんた性格悪いわね! バーカ!」
「いえ、僕はバカとかそういう感情論の話をしたいんではなくて……」
そんな会話を横で聞きながら、エヴァンとコンブは思わず顔を見合わせる。
「どうすんのさ」とコンブ。顔をしかめるエヴァン。
サイハイとニキ、この二人は相性が悪い!
エヴァンは昨日、コンブは今朝サイハイと出会ったばかりだが、彼女が直情的で思慮深くないタイプだということはとりあえずわかる。
思考よりも気持ちを優先するタイプだ。自分の体調不良に気付かなかった辺りにも考えの浅さがよく出ている。
対して、ニキはかなり思慮深いタイプ。年上のエヴァンとの同行時には生来の控えめな性格からくる遠慮が強く出ていたが、そもそも15歳で学園の戦力として数えられている時点でかなりの優等生だ。
頭がよくロジカルな思考をする彼にとってサイハイの存在は不安要素だらけで、揉めるのを承知で指摘せずにはいられなかったのだろう。
そんな相性の問題を慮って、エヴァンは面倒臭さに眉間の皺を深くしながら口を開く。
「サイハイ、騒ぐな。ニキ、お前が言ってることはわかるぜ。もちろん俺だってこの馬鹿女の台詞を一字一句信じてるわけじゃねえ」
「は、はい」
「あんたは信じなさいよ!! あたしを孤立無縁にしようっての!? ひどくない!?」
「だから騒ぐなって。……ニキの言い分はわかる。わかるが、俺も結構感覚で生きてるタイプだからな、サイハイの言葉に嘘はねえ……と思う。100パーじゃないが」
「なんだ! あんたやっぱいいやつじゃん!」
コロコロと忙しなく表情を変えるサイハイをいよいよ無視して、エヴァンはエントランスへと目を向けながら口を開く。
「だから、保険を掛けることにしたぜ」
「保険?」
サイハイが玄関に目を向けると、ボーイッシュな少女とガーリッシュな少女の二人組がロビーへと入ってくるのが見えた。
シエナとユーリカだ。シエナが快活な調子で、「やっ」とエヴァンたちに片手を挙げた。




