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172話 縋り付く

 夜が明けきるよりも少し前。窓の外がまだ薄暗い時刻に、エヴァンはハッと目を覚ました。

 寝る気はなかったのにスツールに座ったままで、いつの間にかうつらうつらとしていたらしい。膝の上に落ちていたスマホの時計は午前4時半。4、5時間も寝ていたようだ。

 昨日の浮気調査とアブラとの戦いの疲労が残っていたので無理もないが、今はまずい。

 慌ててソファーに目を向けると、そこに寝ていたはずのサイハイの姿がない。彼女の手足を縛っていた紐とガムテープがちぎれて落ちている。


(逃げられた!? なんで俺を攻撃してない!? いや考えてる場合じゃねえ、あいつはどこに)


 そこでエヴァンの思考が止まった。シャワールームから水音が聞こえたのだ。何故?

 足元にそのまま置いてあったショットガンを手に取りつつ判断に困っていると、ちょうどピタリと水音が止まった。

 少しの沈黙を経て、ガチャリと浴室のドアが開いて髪を濡らしたサイハイが顔だけを覗かせた。


「ねえちょっとあんた。起きてる? バスローブ取ってよ。熱のせいで汗かいちゃったから元の服着たくないのよね」

「はあ……? お前、何のつもりだ? 縄はどうやってほどいた。テープも。それに風邪引いてた奴がなんで元気に風呂に入ってやがる」

「別に縄とテープぐらいどうとでもなるし。それに汗かいたんだからシャワーぐらい浴びるでしょ普通。薬飲んだから熱はたぶん下がったわ。一応あんたのおかげ。だから殺さないどいてあげる。感謝しなさい? それよりさっさと取ってって。投げてくれればいいから」

「何を偉そうに」

「偉そうにする権利ぐらいあるでしょ。言っとくけどあんたがうかうか居眠りしてた間に攻撃することだってできたんだから。ったく、呆れるほど甘ちゃん。人狼だかなんだか知んないけど所詮温室育ちのアマチュアのガキよね。はーやだやだ」

「このアマ……」


 サイハイの口ぶりにエヴァンは苛立つが、寝ているところを攻撃してこなかったのは確かだ。

 油断はせず……と言っても寝てしまった時点で既に最悪な油断だったが、これ以上は気を緩めないよう自分を律しつつ、ホテルの備品の安物のバスローブを投げてやる。

 受け取ったサイハイは「サンキュ」と一言、戸を閉めてしばらくゴソゴソと物音をさせてから浴室から出てきた。


「はーサッパリしたわ。ったく、風邪なんてほとんど引いたことないってのにどうしてこんな時に限って。まあガキの頃は風邪だろうがなんだろうが医者になんてかかれない育ちだったから認識してないってだけかもだけどね? あははは!」

「反応に困んだよ。なんだお前、マジでわからん。今どういう気持ちでここにいるんだ?」

「どういうって何がよ。気持ちなら言ったじゃない。はーサッパリした! って。なんならあんたも浴びたら。覗かないから」

「そういうことじゃねえ。敵の前で銃も奪わず風呂入ってケラケラ笑いやがって、頭のネジ外れてんのか? それとも何か企んでやがるのか」


 声を尖らせたエヴァンからの問いに、サイハイは片眉を寄せて(何言ってんのこいつ)とでも言いたげな表情を見せる。

 それから長い赤髪をグシャグシャとタオルで拭きつつ、嘲るように片頬を上げて笑う。


「バーカ。今更ビビってんの? だったらあたしに薬なんて飲ませなきゃよかったのに。言っとくけどあたしかなーり体が丈夫なの。そこに風邪薬なんて飲めば小一時間も寝ればソッコーで完治よ完治」

「んなワケねえだろ。39℃近くあったのに」

「ハッ、そこらの雑魚とは体の出来が違うのよ。あとその銃持ってても意味ないわよ。弾は抜いてあるから」

「あぁ!?」


 言われて驚き、サイハイから視線を切らないよう気を配りつつ確かめると本当に弾が抜かれている。

 道理でエヴァンの手に銃があっても落ち着いていたはずだ。

 サイハイはこれみよがしに抜き取った12ゲージ弾をコロコロと掌に転がして見せて、それをテレビボードの上にコンと立ててから「で」と口を開く。


「あんたの詰めがクソ甘いことはとりあえず承知した。まーその欠点にはギリギリ目を瞑るとして、あたしはあんたに交渉を持ちかけたい」

「断る」

「はぁ!? 聞きなさいよクソが!!」

「自分を殺そうとしてた相手からいきなり交渉がどうの言われて受けるバカはいねえだろ」

「ギィーッ……これだから素人のガキは!! だとしてもとりあえず相手の言い分は聞くでしょうが普通!? 条件提示させてから判断しなさいよ!!」


 イライラした様子で頭をかきむしるサイハイ。

 まあ彼女が「まず聞け」と言うのは理解できる。盲目的に拒否するのが良くないのはエヴァンもわかっている。

 だが彼女が何かしらの厄介ごとを口にしようとしているのは明らかで、聞いてしまえば面倒が増えるに違いないと予感しているのも確か。

 間違いなくエヴァンに何かしらの負担を強いようとしている。でもなければさっさと逃げるか寝込みを襲っているはずなのだ。


「言っとくが俺は頭が良くねえ。同時に抱えて処理できるトラブルの量も多くねえ。今は身内と職場のことだけで手一杯だ。だからお前の話は聞かねえ」

「ふーん。でさ、あたしの話ってのはあんたあたしと組まない? ってことなんだけど」

「話を聞きやがれ!!」


 エヴァンは人狼の牙を剥いて吠えるが、サイハイはそれを意に介さない。

 目を真正面から見つめながら、手をひらつかせて言葉を続ける。


「って言うのもさあ、あたし今回で立場ヤバくなっちゃってんの。あんたさっきなんか熱心にスマホの画面読んでたけど、私の経歴とか調べた?」

「だから話を聞けって……チッ、クソが。調べたよ。調べた。大体の立ち位置は知ってる」

「そ。じゃあわかるだろうけど、あたしには部下ってもんがいないわけ。ついでに正式にバックに付いてくれてる奴もいない。あたしみたいな可愛い女の子が誰かの下に付きゃ何かといいように使われるのは目に見えてたからそんなのはゴメンだって拒否って一匹狼スタイル貫いてきたワケ」

「そうかよ」

「そうなの。で、なんでそんなふわふわした立ち位置であたしがやれてきたか。強いからよ。勝って殺して勝ち続けて、あたしの立場は仕事をこなし続けることだけで保たれてた。でもうちの血の門(シュエメン)みたいなマフィアのお偉方ってのは強すぎる駒には警戒心を持つもんで、強いけど誰の首輪も付いてないあたしみたいなのは常に処分するかどうかって目で見られてるわけ」

「……」

「でも……ぶっちゃけた話すると、あたしの風邪が完治したってのはウソ。虚勢よ。だいぶ良くなったけどまだちょっとフラつくし、微熱ぐらいは残ってるかもね。そんな今のあたしの体調じゃ、たぶんあんたを殺しきれない」

「だろうな。風邪の臭いがする」

「は、何それ? 鼻良すぎでしょ。きっしょ。まあいいわ。あんたを殺せない時点であたしはもう血の門(シュエメン)のお偉方にとって価値なし。処分対象よ。だからぁ、血の門(シュエメン)なんて死に体の組織から鞍替えしてあんたと組んでやろうって話よ。良かったじゃん、可愛いあたしと組めて」

「断る」

「なんでよ!!」


 今度こそ話が通ると思っていたのか、サイハイが顔を歪めてブチギレる。

 だがエヴァンにも言い分はある。


「俺になんのメリットがある? 今の話を聞く限り、お前と組んでも余計に血の門(シュエメン)から狙われるだけじゃねえか」

「まあそれは……ね? ほら、こう、なんかいい感じに……あ! 血の門(シュエメン)の内部情報教えてあげる! そりゃあもう蛇口全開で! じゃんじゃんどしどし教えてあげちゃう! だから一緒に行動しましょうよ〜! 仲間に入れてよ! ってかぶっちゃけ守ってよ! 風邪薬恵んだからには最後まで面倒見る義務があるんですけど!?」

「知るか!! くそっ、風邪引いてる奴がしがみついてくんじゃねえよ!! 離れろ!!」

「お願いお願いお願いお願いっ!!」


 孤児からのスラム育ちの生き汚なさ故に、サイハイは驚異的なまでに押しが強い。

 これが生命線だとエヴァンに目を付けた以上、殺しでもしない限りは意地でも縋り付いてくるだろう。

 実際エヴァンはたっぷり30分の懇願を受けた末に、サイハイの要求に屈することになる。

 気まぐれに彼女を助けたことが吉と出るか凶と出るか。エヴァンは不愉快げに奥歯を噛み締めてから、重い息を一つ吐いた。

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