169話 車上の戦い
灼熱が宙に線を描く。
高熱で空気が蕩けたかのように歪んで、軌道下のバスの屋根が黒く煤けた。
だがエヴァンはニキとコンブを背負ったまま悠々とそれを避ける。
今日は彼の象徴であるガスマスクこそ被っていないが、その見覚えのある顔と炎は間違いなくドミニコ・グリス、七面會のアブラのものだ。
初見ならともかく、アブラの戦い方は把握済みだ。エヴァンの運動神経と反射速度は放射される炎よりも鋭く疾い。
「なんでテメェが浮気野郎の上着を羽織ってんだか知らねえが、ヤツと組んでんなら今回は敵ってことだな?」
イリスを血の門から救い出せた恩義がある。
一応の敬意の表れとして、エヴァンは仕掛ける前に敵意を確かめて探るべく問いかけた。だがアブラはそれを黙殺する。
普段の高圧的で声がデカくて大金をひけらかしながらベラベラと喋る彼とはどこか様子が違うが、少なくとも敵意は明確。
再び向けてきた掌には、ゆらゆらと炎が燻っている。
ああ、それだけわかれば十分だ。エヴァンはフンと鼻を鳴らして、車体の塗料が焦げた臭気に顔をしかめながら唸った。
「おいニキ、コンブ。お前ら降ろしたら狙われるからこのまま行くぞ。落ちないように捕まってろ」
「は、はい! すみません!」
「おいエヴァン、大丈夫なのかよ。七面會相手にして」
「見てりゃわかる」
エヴァンはそう言いつつ、“見てりゃわか”までで強く跳ね、“る”でアブラの側面へと回り込む。
一瞬だ。踏み込みは強く速く、バスの屋根を踏み抜かれる寸前まで凹ませるほど。
面識があっても容赦はない。力んだエヴァンの右腕が上着を膨らすほどにパンプアップして、ハンマーめいて振るって一撃!!
血の門の拠点で戦った時より格段にレベルアップしたエヴァンの殴打はアブラの脇腹を痛打した。
少なくとも骨を折った。内臓も壊したかもしれない。最高の手応えを伴った、致死寸前の会心の一打!
だが信じ難いことに、アブラはその被撃に声一つ漏らさなかった。
表情を変えず、怒りや苦悶の色もなく、ダメージを軽減するための自然な反射として生じる身を逸らす動きすらせず。
なんだこいつ。エヴァンが薄気味の悪さを感じて動きが止まったわずかコンマ数秒、アブラは口から血を吐きながら、怯む様子も見せずにエヴァンへと燃える手を伸ばす。掴まれれば無事では済まない!
「させるか!!」
刹那、エヴァンの背中から刃が伸びた。
しがみついていたニキが伸縮式の手槍を片手に、紙一重のタイミングで刺突を放ったのだ。
槍の穂先はアブラの肘を正確に突いて、その関節を壊しながら腕を上に逸らす。直後、アブラの手から灼火が空へと噴き上がった。
まるで噴火だ。受けていれば無事では済まなかった。
「上出来だぜ、ニキ」
「ありがとうございます!」
自分でも対処できる範疇だったが、エヴァンは短くニキを褒めた。
嬉しそうな少年の返事を背に聞きながら、エヴァンは人狼の膂力を今度は左腕へと結集させる。
七面會として私利私欲のままに悪事を重ねた男で大金をひけらかす腹立たしい面もあったが、陽気で気の良い面もあった。それに一度は死線で肩を並べた戦友だ。一定の敬意は払うが敵は敵。
どうにも様子がおかしいクソセレブ野郎にきっちり引導を渡してやる。
そんな意思を込めて、初撃よりも速く、激しく、強靭に振り抜く一打!!
「グォるァッ!!!」
人狼の咆哮を伴った掌底がアブラの胸部を叩いた。
胸骨がひしゃげる音がして、今度は確実に仕留めた手応えがある。
屋根の上で戦いが起きていることに気付いたのか、バスが路肩に寄ってスピードを落としていく。
一時停止した車の上でアブラはのけぞり、ダ、ダ、とよろけて屋根でたたらを踏んだ。
そのまま後ろへと倒れかける……が、踏み留まる。壊れたはずの上体をゆっくりと戻して、その目をエヴァンへと向けてきた。
「……その傷でなんで死なない? 何から何まで妙だぞテメー」
「っ、お……俺、は……ウ……」
「なんだ!! ハッキリ喋りやがれ!! ノド風邪でも拗らせてんのか!? あァ!?」
「ウ、ウ……ヴヴヴ……!!」
異様だ。倒れるでもなく、アブラは口から血の泡を吹きながら頭を抱えて獣のように唸る。
攻撃的な気性のエヴァンはその意味不明な反応に怒りを覚えるが、まともな性格のニキとコンブはそれよりも恐怖を感じて慄いてしまう。
「なあ、こいつどうしたんだよエヴァン。ヤバくないか?」
「よ、様子が変ですよ……」
少年と猫が怯えた声を漏らすのを聞いて、エヴァンは舌打ちを鳴らしつつようやく事の異常性に思考を巡らせ始める。
そもそもこいつは血の門からの襲撃を受けて行方不明になっていたはずだ。
それが何故アラン・ウィンターズとつるんでる?
「……アランとかいう間男野郎と血の門の残党共はグルってことか……? にしても解せねえ。アブラの野郎のこの様子はどうなってる。チッ、意味わかんねえな。まあいいや。ニキ、その槍貸せ」
「え? あ、どうぞ!」
「ん? 見た目よりは重てぇな」
背中から降りたニキから槍を受け取る。
石突きから穂先までが90センチほどの手槍をビュンビュンと無造作に振るって、エヴァンは呻くアブラへと歩み寄っていく。
捕らえて情報を聞き出すという発想も頭の片隅にはあったが、高熱の炎を操るこの男を捕まえておくのは手間だしリスクが高い。
それに、一度は共闘した男が無様に狂った様子を晒しているのがどうにも哀れに感じてしまう。
「首刎ねりゃ動かなくなんだろ。終わらせてやる」
そう告げて、エヴァンは槍を振りかざした。
だが振り下ろす寸前、何かを察して彼は背後へと飛び退いた。
エヴァンが立っていた場所の真上の空間が微かに歪み、パン、パン、パンと銃弾が三発車体の屋根を叩く。
瞬間移動。そこに現れたのは七面會の一員、シュラだった。
「アブラ、ようやく見つけたぜ。生きてて良かった」
彼は拳銃の銃口でエヴァンたちを牽制しつつ、安堵混じりの声でアブラへと話しかける。
だがアブラの様子は変わらない。相変わらずの不明瞭な唸り声を漏らしながら、近寄ってきたシュラを拒むように腕を振るう。だがそれも強くはない。糸の切れた人形のような、どこか壊れたような動きだ。
「どうしちまったんだよ。アブラ」
「ブッ壊れてるぜ、そいつ。なんか知らんが」
困惑するシュラにエヴァンが声を投げる。
その声に返事はせずに無言で睨み返して、シュラはアブラの手首を掴んだ。
「何があったかわからねえけど、帰ろうアブラ。あんたぐらいはマトモでいてくれないと、七面會はもう……」
独り言のようにそう呟いて、シュラはアブラと共にどこかへと瞬間移動で姿を消した。
エヴァンは追撃をすることもなくそれを見送る。
アブラが今どういう状態なのかがわからないし、神出鬼没の瞬間移動男を相手にするのはニキとコンブを連れた状態では分が悪いと考えたのだ。
「お疲れ様ですエヴァンさん! か、勝ちでいいんですかね……?」
「ああ、尻尾巻いて逃げやがった。俺らの勝ちだ」
わあ! とニキがコンブと喜び合う。
子供っぽい表情のニキだが、間隙を逃さずアブラに一撃を入れたことと彼の手槍の存外な重さを知ったことで、エヴァンは内心で少年の評価を少し上げている。
足手まといな場面もあるが、連れてそれなりに役立つ程度の能力はあるようだ。
バスを降りた運転手が恐る恐る車体の上の様子を伺う気配があったので、文句を言われる前にエヴァンはニキとコンブを抱えて脇道へと飛び降りて駆ける。
アブラが屋根を焦がした修繕費でも要求されたらたまらない。そういえば屋根は凹ませたが、まあ学園に伝えて弁償して貰えばいいだろう……と、そんなことを考えていると、上着の懐で電話が震えた。
画面を見ると、今度はミトマからの着信だ。
「もしもし。なんだよ」と電話に出ると、ミトマの冷静な声が耳に届いた。
「エヴァン、ご苦労だった。リシェル・ランドールとアラン・ウィンターズの浮気現場の写真はこちらで抑えたぞ」
「は? なんでお前が」
「フフ。そもそも今回、本命の尾行者は私の方だった。お前たちが雑な尾行をして、ウィンターズたちはそれを撒く。それで安堵した浮気カップルは警戒が薄くなる……という寸法さ」
「おい……俺を囮にしやがったのか」
「そうだ、気付かなかったろう。なにせお前が知っていては不自然になって意味がない。敵を騙すにはまず味方からというやつだな。ハハハハ」
気を良くしているようで、ミトマがやけに軽やかな笑い声を上げた。
エヴァンは思わずうんざりと顔をしかめるが、まあ目的を達成できたなら悪くはないかと唸るに留める。
一歩前進だ。だがアブラの件については報告しなければ。なにせ、アラン・ウィンターズが血の門と組んでいる可能性がある。
「面倒臭いことにならねえといいけどな」
そう呟いて、エヴァンは長い深呼吸と伸びをした。




