167話 クラブでの戦い
意識がグルグルと回転する感覚に喉からうめきを漏らしながら、ニキは辛うじて失神の淵で踏みとどまっている。
思考が浮遊、回転してまとまらない。喉がカッと焼けるように熱くて、目の前にある机が極彩色に発色している。クラブに流れている重低音のビートが爆発のように鼓膜を叩いてくる。酷い! なんだこれは!
アルコール? それだけじゃなさそうだ。じゃあ毒? 毒かもしれない!
死ぬかもしれないという知覚に脳の奥から痺れるような恐怖が湧き上がるが、その恐怖すらまともに認識できない。精神がバグったような異様な感覚だ。
(まずい、まずい……! なんとか、身だけでも起こすんだ……!)
言うことを聞かない腕を突っ張って渾身の意思で上体を起こすと、凄まじい光が視界を明るく染め尽くす。
世界が爆発炎上した? そんな光量に目を焼かれたような錯覚を抱くと、目の前に小さな黒い影が立ち止まって見上げてきた。
「おいニキ大丈夫か! もうちょっと我慢しろよ、オレがこいつら倒してやるから!」
黒い影はそう言うと、先端から真っ赤な光を放射した。
オレ? 誰? あ、コンブか?
視覚がおかしくなっているようで、色と形をまともに認知できない。
返事をしようとするが言葉にならず、口から漏れたのは「う、うう」と不明瞭な音だけ。
ぴょんぴょんと駆け回りながら火を吐いて敵を牽制していたコンブは、ニキの苦しげなその様子に思わず足を止めてしまう。
「だ、大丈夫かよホントに……死んじゃわないよな……うぐっ!? あ、しまった!」
その一瞬が仇になった。
ニキに怪しい液体を飲ませた女の仲間らしいガラの悪い大男がコンブの首根っこを鷲掴みにして捕まえる。
コンブは身を捩り、火を吐いて抵抗しようとするが、男は力が強い。しかも亜人種のようで表皮がぬらぬらとした鱗に覆われていて、多少の火ではビクともしない。
「荒らし回りやがってクソ猫が……カウンターがあちこち焦げたじゃねえか」
「殺すか?」
「いや、喋るし火を吐く猫なんて珍しいからな。金になるんじゃねえか」
「それにしたって好き放題されたのがムカつくぜ……お、そうだ! アレくれよアレ!」
そんな会話を交わした悪漢たちは、ふと閃いたようにカウンターの女へと声をかける。
女は性悪な笑みを浮かべて、ニキに飲ませたのと同じ緑色の液体をグラスに注いでみせながら口を開いた。
「ねえ猫ちゃん。別にアタシはそこのマジメ君に毒を飲ませたわけじゃないのよ? これはアタシたちだって飲んでる嗜好品。コカレロってお酒を知ってる?」
コンブが吠える。
「知るわけないだろ! 離せ!」
「おしゃべり猫ちゃんもお酒のことは知らないのねー? コカレロっていうのは麻薬の原料になるコカの葉を使ったお酒。もちろん本物は危ない成分はしっかり抜かれてるんだけど……マジメ君に飲ませたのはこの店のオリジナルカクテル。コカの麻薬成分たっぷりの特製コカレロに、おまけで色々なクスリを混ぜた一杯よ。綺麗でしょ、緑で。ねえボク、カッ飛んでる〜?」
「う、う……!」
「あはは。初めてだと効くでしょ? うちの店をコソコソ嗅ぎ回るからそうなんのよ」
ニキの耳は女の言葉を三割程度しか拾えていない。意識が朦朧としているせいか、エコーの調整を間違えたカラオケのように脳内でぐわんぐわんと音が反響している。
それでも一応、致死毒でないことは理解できた。怪しげな薬物ではあるようだが、死なないなら抵抗しようもある。
そんなことを曖昧に考えながら、おぼつかない手付きで後ろ腰を探り、伸縮式の槍を手に取ろうとする。
が、鱗肌の男に頭を鷲掴みにされて、そのまま机に叩きつけられてしまう!
「ぐえっ……!」
「ガキが。暴れようとしてんじゃねえよ。お行儀の良さそうな面してこんな場所に何の用だ?」
「猫にも飲ませてみようぜ! どうなるか試してやれ!」
「ギャハハハ!! そりゃいいや!!」
男たちはニキを床に放り投げて脇腹を蹴り、コンブの口をこじ開けて麻薬酒を流し込もうとする。
人は死ななくても猫が飲めば死に至る可能性だってある。まずい!
「よ、せ……! やめろ……!」
そう言ったつもりだが、多分もっと不明瞭な言葉にしかならなかった。
そんな間も男たちは無遠慮にいたぶるような軽い蹴りを全身にぶつけてくる。
ニキは回らない頭で必死に抵抗しようとするが、まるで体に力が入らない。どうすれば!
「よこせ」
「あ? なんだテメ、ぎゃっ!!!」
無理矢理コンブに酒を飲ませようとしていた男が殴られて、投げ上げられて天井に激突した。
グラスを奪い取ったのはエヴァンだ。緑色の液体を一瞥して鼻を鳴らすと、大口を開けて喉へと流し込んだ。
飲み下して顔色一つ変えず、大鎌のように脚を振るってニキを蹴っていた男たちの一人の肩を蹴る。
メシャッと圧壊するような音が確かに聞こえて、砲弾のように吹き飛ばされた男が店内の壁に叩きつけられた。
エヴァンが低く重い声で唸る。
「舐めたマネしてくれやがったなクソ共が」
「テメェ!! 舐めてんのはどっちだコがっ!? げ、ぐはっ!?」
「どう落とし前付けてくれんだ? あぁ?」
酒瓶を片手に殴りかかってきた男の一撃を軽く払い、もう片手で男の喉を鷲掴みにした。
椅子を凶器に背後から殴りかかってきた別の男には視線もくれずに後ろ蹴りを顔面へ当てて昏倒させ、喉を掴んでいた男を軽々と持ち上げてカウンター裏の酒棚へと猛烈な勢いで叩きつける!
一斉にひしゃげた酒瓶とぼたぼた滴る酒に慄然としながら、カウンターの女が恐る恐るエヴァンに問う。
「あ、あんた、なんでそれ飲んで平然としてんのよ!!?」
「うるせえよクソ女」
「ギャアッ!!」
エヴァンは女の鼻先に躊躇なく拳を叩き付けた。
好き好んで女を殴る趣味はないが、女だからと手加減するほどの紳士性もないのが彼だ。
人狼の体は極めて頑丈で、人間が耐えられる程度の薬物を摂取したところでビクともしない。彼をアルコールや薬で昏倒させようとするなら、まともな人間用の20倍は量を用意する必要があるだろう。
そんなエヴァンの背後にあと一人、悪漢たちの中で最も大柄な鱗肌の男が立っている。
もちろんエヴァンはその存在を把握している。振り向きざま、固めた拳を猛然と彼に打ち付けた。が、男は揺るがない。
「効かねえなあ!!」
「あぁ……?」
エヴァンが不快げに鼻先にシワを寄せた。
男はいわゆるリザードマンの亜人種。その鱗肌は極めて強靭で、ナイフの刃やピストルの弾丸を通さない自慢の鎧だ。
彼はその硬質な肌を活かし、ラリアットめいてエヴァンへと腕を打ちつけてくる!
「オラ死ねクズが!! 粋がってんじゃねえ!!」
だが、エヴァンにとってその動きは遅すぎた。
死線を潜ると人は一皮剥けて成長することがあるが、人狼の血を引くエヴァンはその傾向が一際強い。
野生的な本能がそうさせるのか、死に瀕した時の学習能力が極めて高いのだ。
始まりの魔女とラナ・コルネットを相手取ったあの時のプレッシャーに比べれば、トカゲ男の振るう腕はさながらそよ風。
かいくぐり、踏み込み、鋭く突き上げるショートアッパー!
「っぐ!」
表皮が硬かろうがあくまで亜人、少なくとも脳はあるし神経もある。
顎を強く殴って頭を揺すり、怯ませてしまえば動きは止まる。
その一瞬に、エヴァンはまるで硬質なバネのように自らの上体を強く大きく捻り……殴る!!!
「食らえ!!!」
「ッッッがはあっ!!!」
トカゲ男の皮膚の硬さを知った上で、真っ向勝負とばかりに叩きつける人狼の拳。その威力はまるで大砲だ。
胸部がめこりと凹んで、勢いよく吹き飛んでいった男はフロア奥のDJブースに直撃して凄まじい音を響かせた。
音楽が止まり、トラブルに気付いていなかった客たちが騒ぎ始める。
「コンブ、無事か」
「う、うん。なんか強くなったね、お前」
「どうだかな。ニキの頭支えてろ、水飲ませるぞ」
「おう!」
カウンターに置いてあった水のピッチャーを手に取り、朦朧としている様子のニキへがぶがぶと水を飲ませる。
正しい対処法かは知らないが、大量に飲んだわけではないようだし水で薄めればなんとかなるだろうという判断だ。
ひとしきり水を飲ませたエヴァンは、顔を殴られてカウンターの中で転げている女の肩を足蹴にした。
「おい」
「ひいっ!?」
「こいつらにちょっかいかけたのは誰かの指示か?」
「そ、それは」
「嘘を吐くな。俺は人狼だ。嘘の匂いはわかる」
「っ〜……! お、オーナーです! オーナーが、入ってきた奴らを足止めしろって……!」
「オーナーってのは誰だ。名前は?」
「ウィンターズ! アラン・ウィンターズです!」
「この店の裏口は」
「そ、そっちに……」
「そうかよ」
鼻血を流している女にカウンター上の紙ナプキンを投げ渡して、エヴァンはニキを背負った。
「コンブ、行くぞ」
「あれ、ここはもういいの?」
「浮気相手のあの男がオーナーなんだろ。気付かれてたならもうこの店にはいねえよ。裏口辺りから逃げたんだろ」
「ふーん。ところでエヴァンって嘘がわかるんだね。すごいな」
「あれは嘘だぜ」
「あ、そうなの」
エヴァンは騒然としたフロアを横断して、女が指した方向にあった裏口の扉を蹴り開ける。
アルコールとタバコの臭気に塗れた空間を出ると、一気にエヴァンの鼻が鋭敏に働き始めた。
二人と一匹は追走を続ける。




