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166話 地下へ

「あの、もう少し近付かなくて大丈夫ですか?」


 ニキが不安そうに問う。

 彼がそう言うのも無理はない。エヴァンを先頭にリシェル・ランドール、そして浮気相手のアラン・ウィンターズを尾行しているのだが、エヴァンは普段の粗野な言動にそぐわないほど慎重に追跡対象の二人から距離を開けている。

 お互いの姿が丸見えな閑散とした場所なら距離を開けるのは妥当かもしれないが、今ここは繁華街のど真ん中。

 あまり離れていると行き交う人波でリシェルたちを見失ってしまいそうだ。

 実際、ニキは何度もリシェルたちの背中を追えなくなっている。だがそのたびにエヴァンが「こっちだ」と先導し、それが合っていてどうにか追い続けられているという状況。

 生真面目なニキはその綱渡りがどうにも不安で、返事をせずに歩き続けるエヴァンへともう一度問いかける。


「あのエヴァンさん。もっとスピードを上げて近付いてもいいんじゃ」

「黙ってろ」

「す、すみません。けど……」

「いいから黙ってろ。集中してんだ」

「集中?」


 首を傾げたニキの脚に、猫のコンブが軽く体当たりして注意を引く。

 なんだろうと彼が視線を落とすと、コンブが訳知り顔で口を開いた。


「大丈夫だよ。そいつ犬の嗅覚で追ってるんだ」

「犬? あ、そうか。エヴァンさんは人狼……」

「聴覚も鋭けりゃ目もいいし、五感の鋭さは人間とは比べものになんないよ。オレらはこいつの後ろを適当についていけばいいってわけ」

「そうか……」


 ニキは少し納得したような顔をするが、すぐに疑問を抱き直してコンブへと問う。


「けどコンブくん、それにしたってもう少し近付いてもいいんじゃないかな? せっかく浮気の現場を押さえられるチャンスだし、万全を期した方がいい気がするんだけど」

「だから万全を期してるんでしょ、エヴァンは」

「え?」

「あのアランってやつ、お金持ちのボンボンなんだろ? 自分たちから離れた位置に護衛を潜ませてる可能性があるよね。エヴァンのやつは、それを索敵しながら進んでるんだよ」

「あ、なるほど……」


 エヴァンは多くを語らない。

 不良上がり……というか今も精神性は不良から足を洗い切れていない彼は、言葉少なな方が格好いいという価値観を持っている。

 不便なので無口を気取る気はないが、自分のやっていることを事細かに説明するのはダサいと考えているのだ。

 そんな彼は彼なりにきちんと考えて動いている。

 通り全体を俯瞰で見ることができ、嗅覚でリシェルとアランを追える範囲。それが今の距離感なのだ。

 と、その旨をコンブが代弁したことでようやくニキが得心した様子で頷いた。


「やっぱり凄いんだなあ、エヴァンさんは」

「やっぱり? あ、そういえばエヴァンのこと尊敬してるとか言ってたよね。あれって社交辞令じゃなかったの?」


 コンブから聞かれて、ニキは澄んだ目で頷いてみせる。


「もちろん! 学園でシエナさんに堂々と立ち向かえたのはエヴァンさんぐらいなんだからさ! リズムさんはいたけど、あの人は小細工タイプだったし裏切ったし」

「ふーん。強いからって偉いわけでもないだろ? オレにはよくわかんないな」

「偉いとかじゃなくて、かっこいいじゃないか。それにエヴァンさんは、イリスちゃんのお兄さんだし……」


 ニキが声のトーンを落として、少し照れたような声色でそう呟く。

 その様子に、コンブは(ははーん)と目を細める。

 こいつが不良のエヴァンなんかを慕う様子を見せるのは、その妹のイリスのことが好きだからかと。

 

(15歳で同い年だっけ? ふーん。ま、人間の恋だの愛だのなんて知ったこっちゃないけど、エヴァンは妹のこと溺愛してるもんなー)


 そんなことを考えつつ、コンブは一言だけニキへと助言を投げる。


「イリスのこと好きってエヴァンには言わない方がいいよそれ。ぶちのめされるから」

「え!? い、いや、別に好きとかそんなこと誰も言ってないよ!!? 全然、そんな、僕は!」

「静かにしろ」


 ニキが取り乱したのと同時、前の方を歩いていたエヴァンが足を止めて低い声を発した。

 今の会話が聞こえていて怒ったわけではない。リシェルとアランが店へと入っていったのだ。

 コンブが周囲を見回して呟く。


「なんだかいつの間にか治安の悪そうなエリアに来ちゃったね。さっきまでは普通の繁華街っぽかったのに」


 尾行中に角を数度曲がった際、裏路地へ、そのまた裏路地へと街の奥地へと入り込んでいた。

 壁に落書き、座り込んだガラの悪い男たち、道端に立つ娼婦、無造作に道の真ん中に置かれたドラム缶には暖を取るためか火が焚かれている。

 リシェルとアランはそんな裏通りの一角にある地下の店へと降りていった。

 古ぼけたネオンサインが明滅、まともな店にはあまり見えない。

 エヴァンは二人が入店するところを撮影した小型のカメラをニキへと手渡し、視線を鋭くしながら「入るぞ」と告げる。


「ここ、お酒飲むところですよね。僕が入っても大丈夫でしょうか」

「こんだけ治安悪けりゃ誰も気にしねえよ。行くぞ。コンブ、お前もだ」

「いいけど、猫が入るのは流石にまずいんじゃないの」

「カバンに入ってろ」

「はいはい」


 エヴァンに促され、コンブはニキが背負っているカバンの中へするりと入り込んだ。

 階段を降りていくと、扉の前に小窓があって入場料を徴収している。

 どうやら普通のバーなどではなくクラブのような形式の店らしく、腕にタトゥーの入った男がエヴァンたちをジロジロと睨めつけてきた。

 ニキは年齢の割には腕に覚えがある。学園で生活する上で多少なり荒事も経験してきた。

 だがこんなアウェーの空間に来るのは初めてで、思わず受付の男の視線から目を逸らしてしまう。

 すると、男が脅すような声を発してきた。

 

「……そこのガキ、お前も入る気か?」

「え? あ、はい、一応……」

「関係ねえだろ。ほらよ、料金二人分だ」

「……ま、構わんがね」


 エヴァンが金を渡すと、それ以上男は何も言わずに扉を開けた。

 その瞬間、ズン、ズン、ズンと重く低い音が微かに聞こえてきた。

 扉の内側はごく狭いエントランスのようなスペースになっていて、その奥にもう一枚防音用の鉄扉がある。エヴァンがその扉を引き開けると、耳をつんざく大音量とタバコとアルコールの臭気で満たされた空間がニキの目の前に現れた。


「——う、うるさい……!? なんだここ……!」

「こういうもんだ。でかい音と暗さに紛れてハメを外すための店だからな」

「な、なんのためにですか」

「さあな。馬鹿なんじゃねえか」


 冷めた調子でそう吐き捨てると、エヴァンは店内の様子に視線を巡らせた。

 だが表情が優れない。片眉をしかめて苦虫を噛み潰したような顔で鼻をひくつかせている。


「臭えなここは。匂いが追えなくなっちまった」

「タバコとお酒の匂いでですか……もしかしてあの人たち、それを狙ってこの店に来たとか」

「尾行に気付かれてたってことか? そんな素振りはなかったが……チッ」


 忌々しげに舌打ちを鳴らしたエヴァンは、ニキへとフロアの隅にあるカウンターを指差してみせる。


「あそこの椅子に座って出入り口を見ててくれ。ドアはあそこだけだ。そこを見てりゃ最悪見落とすことはねえ」

「わかりました! エヴァンさんはどうするんです?」

「歩いて探す」


 店内はかなり広い。照明で広いように見せている部分もあるかもしれないが、一ヶ所から全体を見渡すのは不可能なサイズ感だ。

 確かに分業が妥当だろうと思い、ニキは言われたままに大人しくカウンターの傍らへと足を運んだ。

 は、いいのだが、そこからの勝手がわからない。

 何も言わずにカウンターの椅子に座っていいものか悪いものか。何か注文しなくてはいけないのか? ノンアルコールの飲み物はあるんだろうか。

 そんなことを考えていると、カウンター越しに店員の女性が手招きをしてきた。


「ねえ君、ちょっと」

「え? あ、すみません! 邪魔ですよね!」

「違う違う。座りたいんでしょ? 好きに座っていいのよ」

「あっ、は、はい! ありがとうございます」


 腕にタトゥーの入った女は人当たりの良い笑みを浮かべて、着座したニキの前にグラスを置いた。

 そこには緑色をした液体が入っていて、ニキは恐る恐る彼女へと尋ねる。


「あの、これは?」

「サービスよ。君、緊張してるみたいだからアタシの奢り」

「でも僕は、ええと……酒が苦手で」

「酒? ああ、大丈夫。これはノンアルコールよ。飲んでみて?」

「そ、そうなんですか。それじゃあ……」


 女の親切な態度と緊張で喉が乾いていたのもあって、ニキは促されるままにグラスに口をつけた。

 甘い香りが鼻腔を満たした……その瞬間、ニキの視界がぐるりと暗転する。

 何が起きた? 何を飲まされた?

 そんな疑問を抱く間すらなく、ニキは卒倒してカウンターへと突っ伏していた。

 薄笑みを浮かべた女の隣に数人の男が集い、ニキの肩に手をかけようとした。

 瞬間、コンブがカバンから飛び出して女を睨みつつ声を上げる。


「何すんだお前ら!! すうっ……があっ!!」

「なんだ、この猫喋っ!? 火を吐きやがった!!」


 混沌としたクラブ内に、争いが巻き起こる。

 


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