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143話 自販機前にて

「む」

「おっ、姫様やん」


 早朝を大きく過ぎて午前9時、ホテルの廊下で鉢合わせたのはむすっと頰を膨らませたエクセリアと、眠そうな顔をした燃だ。

「姫様おはよ〜」と手をひらひら揺らす燃は出かけて帰ってきたところのようで、大きめのコンビニ袋を二つ手に下げている。

 彼女は長めのあくびをしつつ、コンビニの袋を「はい」とエクセリアに差し出した。


「こっちはおにぎりとかパンとか朝ごはん三人分。それとこっちの袋はアリヤくんゲボ吐いてたから着替えね。シャツと下着と靴下とか、サイズ微妙やったからMとL両方入ってるって伝えといてあげて。あと吐いたまま寝て胃酸で喉痛めてるかもしれへんから、食べ物の方の袋に喉飴とかうがい薬とか一緒に入れてあるから」


 ガムシロップとミルクを多めに入れたコンビニコーヒーを口に流し込みながらそう言う燃自身も既に、アリヤに汚されたシャツを新しいものに着替えている。

 手渡されたビニール袋の中身を改めながら、エクセリアは彼女へと尋ねかける。


「アリヤはどうしてる? あいつは眠れたのか?」

「燃さんの膝枕でぐっすりやったよ。まだ寝てるけど、私ちょっと用事あるから先に抜けさせてもらうわ。姫様そばにいてあげてな」

「むむ……人を代わりのように……」


 エクセリアは不服だ。とても不服だ。

 一緒に仕事をして、オフではいつも同じ部屋でダラダラする。そんな生活を送っている自分が公私ともにアリヤのパートナーのはずなのに、燃は自分ではどうにもならなかったアリヤのパニックをすっかり収めてしまった。

 しかも何故だろう。燃が「アリヤくん」と口にした時の声色と表情がいつもより心なしか優しかった。

 人生経験が乏しいエクセリアには燃の感情の機微を察することは難しいが、アリヤに対する慈愛のようなものをうっすら感じさせるその顔がなんだか気に食わない。

 なんだこいつめ、雑でガサツな適当女のくせに!


 燃からは石鹸と香水の匂いがする。シャワーを浴びて化粧も済ませているようで、腰には炎刀を差してそのまま出かける格好だ。

 エクセリアはもう一度彼女へ問いかける。


「用事ってなんだ?」

「お仕事お仕事。ほら、燃さんエリート社会人やからアリヤくんの寝顔をずっと眺めてるわけにもいかへんのよ」

「なんの仕事」

「なんのって、まあ普通の? 上から色々指示受けてるんよ」

「普通ってなんだ。普通じゃなにもわからないぞ」

「んー……? なんか今日姫様しつこいね? あ。もしかして嫉妬してるん? 一晩アリヤくん取られてたから? え、面白〜。可愛いとこあるやないの〜」

「や、やめろ! 頬を指で押すな!」


 うりうりと頬を押してくる燃の指を払って、エクセリアは過度に構われた野良猫のようにカーッと牙を剥く。

 それから斜め下に目線を落として、沈んだ調子で浅いため息を吐いた。

 エクセリアはわりと自信過剰なタイプだ。それがあからさまに落ち込んだ様子を見せるのは珍しい。一体どうしたものかと驚いた燃が続く言葉を待っていると、エクセリアはしょぼくれた顔をしてしずしずと口を開いた。


「燃、私はダメだ。役に立たないダメなやつだ……」

「急にどしたん姫様。情緒不安定?」

「そういうのじゃない……」


 とエクセリアは言うが、少女の顔は珍しく鬱々と沈んでいる。

 正直、燃は内心(うわ〜ガキが一人前に悩んでるやん。面白〜っ)と思っているのだが、彼女も鬼や悪魔ではないしそれなりに大人だ。

 しれっと真面目くさった表情を作り、手招きをしてホテル廊下の奥まった位置にある自販機スペースへとエクセリアを誘う。

 おもむろにオレンジジュースを一本買ってスツールに腰掛けたエクセリアに手渡すと、自分は壁に背をもたれさせた姿勢で「燃さんに聞かせてみ?」と一言。

 促されて、缶ジュースを両手で握ったエクセリアがおずおずと言葉を続ける。


「燃は大人だからわかるかもしれないが、アリヤってあんまり本音を出さないタイプだろう。弱音を吐かないというか……」

「わかるわかる。一人でなんとかしようとするタイプやね、アリヤくんは。大人ぶったフリしてるけどガキなんよね」

「……私は、アリヤにもっと頼ってほしい。心の弱い部分とかも素直に見せてくれたらいいのにって思ってた」

「ほーん、殊勝やん?」

「けど、いざアリヤが悩み苦しんだらこの有様だ。挙句、燃なんかに頼る始末……」

「あれ? 姫様、燃さんのことめっちゃコケにしてへん?」

「はあー……」


 燃の反応をスルーしてため息を吐くエクセリア。

 その様子に燃は「ふぅん?」と小さく相槌を打ってから、片眉を上げて掌を上に向けて、せせら笑うような表情で声をかける。


「まあアリヤくんはガキやけど姫様はもっとお子様やし。悩みとかトラウマをどうこうしようなんておこがましいんちゃう?」

「おこがましいだと……!? 私はアリヤのパートナーとしての役目を果たそうとだな!」

「いやいや、それはそうやろ。燃さんだって別に添い寝してから膝枕してあげただけでアリヤくんの悩み聞いてあげたりしたわけやないし。それどころか一っ言も交わしてへんからね?」

「それはそうかもしれないけど」

「言っとくけど燃さんはなーんも解決してへんよ。疲れてたところをよく眠れて良かったね〜ってだけ。そもそも姫様も私も精神科医でもなんでもないんやから、家族が殺されました〜なんて重めんどくさいトラウマを解決してあげられるわけがないんよ」

「む……」

「私は家族が健在やから本質的なところを共感してあげるのは無理やし、姫様なんて家族の記憶とか全然ないわけやからもっと無理やん? まあ仮にもっと似たような境遇の人がいたとしても家族との距離感とか死別の状況とか全然違うわけやし、そもそもアリヤくんは礎世界からこっちに来てる人やからまあまあ特殊やからね。理解してあげるんは無理やと思うわ」

「……」


 エクセリアには燃の言い分が正しいのかどうかはわからない。

 ただ、少なくとも燃は落ち着いている。アリヤに対して突き放したことを言っているようだが、その語り口に冷たさは感じない。

 開けていないオレンジジュースを手に握ったまま、少女は戸惑いを隠さず燃を見上げた。


「……じゃあ、どうすればいい。私にはわからない。でも何かしてやりたい。さっきのあいつは可哀想で見ていられなかった。あんなのが続いたらアリヤは壊れてしまうんじゃないか?」

「ん〜まあ、アリヤくんってなんだかんだでメンタル安定してる方やし、大丈夫やと思うけどねえ? 七面會(マスケラド)のドクロが死んだって言ってもそんなに深い交流があったわけじゃないし、一時的なショックやろ。何回か寝て起きれば普段通りになるんやない?」

「深い交流があったわけじゃないってなんでわかる」

「そりゃ私、お仕事でアリヤくんのこと監視してるもん」


 燃はそう言って、自分の片手へと前にアリヤの肩に刻んだのと同じ炎印を浮かべてみせる。

 そういえばそうだった。あの監視はまだ生きていたのかとエクセリアはちょっと不快になる。

 前々からあの炎印については、(なんだか自分のものに他人が名前を書いてきたみたいで気に食わない……)という煮え切らない感情がエクセリアの中に燻っている。

 そんなエクセリアの不機嫌な内心は、ムッと目元に浮かんだ険で誰の目にも明らかだ。そんな顔を面白がりながら、燃は自分の考えを口にする。


「私たちでアリヤくんの抱えてるトラウマを解決するのは無理無理。けど、緩和してあげることはできるんやないかなー」

「緩和ってどうやって? 燃、私は何をすればいい?」

「別になーんも。今のまま一緒に過ごしてればええんちゃう?」

「?」


 またこの女は適当なことを言って。とでも言いたげなエクセリアへ、燃はふざけず淡々とした口調で言葉を続ける。


「いや、これは冗談やなくて。アリヤくんの抱えてる精神的な問題は家族を失ったことで、それを根本的に癒してくれるのは時間だけやと思う。でも新しい家族を得られれば、代替ってわけやないけど喪失感が緩和はされると思うんよね。現状を客観的に見て、姫様はアリヤくんにとって妹みたいな存在になってる。それは以前の家族と同じものでは全然ないけど、まあ新しい生きがいにはなれるんやない?」

「新しい生きがい、か……でも一緒にいるだけって、そんなのでいいの?」

「十分十分。っていうかそれ以外できることなんてないよ〜。素人が人の心をどうこうしようなんてどだい無理な話なんやから」


 そう言うと燃は手を伸ばし、カコン! とエクセリアが持つジュース缶のプルタブを勝手に引いた。

 壁にもたれさせていた自分の背と腰を軽くはたいて、彼女はエレベーターの方向に向けて歩き出す。


「じゃ、アリヤくんによろしく言っといてな。愛しの燃さんが甲斐甲斐しくお世話してくれましたよーって」


 そう言い残して去ろうとする燃の背へとエクセリアが問いかける。


「私が妹なら……燃、お前はアリヤにとっての何だ?」

「ん? うーん、燃さんまだ母って歳やないし、気まぐれで時々優しい美人姉ってとこやろか。今はまだ」

「今は? おい、今はまだってなんだ。どういう意味だ? 待て! 燃ー!」


 敵対心を露わにしたエクセリアの声を背に聞きながら、燃はへらへらと笑みを浮かべてエレベーターに乗り込んだ。少年少女をからかうのは燃の趣味の一つ。健康にとても良い。

 さておき……燃はへらへらとした笑みを一瞬で収めて、表情を酷薄な笑みへと変化させた。

 アリヤやエクセリアと過ごす時間を燃は本心から好ましく思っているが、そこから即座に臨戦体制へと移れるのも彼女の長所の一つ。

 左の義手の指をコキ、ポキと二度鳴らすと、おもむろに誰もいないエレベーターの隅へと手を伸ばす。

 虚空に何かを掴む銀の指。指は赫赫と熱を発して炎を帯びて————瞬間、大音量の悲鳴を上げながら無から一人の男が姿を現した。


「ぎゃああああっ!!!! 首ィッ!? 首が焼ける!!」

「はーい初めましてェ。ちょっとお話聞かせてもらえますぅ〜?」


 いつの間にか、エレベーターの内部には燃の魔力文字で赤く緻密な陣が描かれている。

 狭い箱の中は燃の濃密な魔力で満たされていて、物理現象が歪められている。時間の進みが遅い。

 刺客の体感ではエレベーターは動いているのに、階数表示はいつまで経っても4階と3階の間のままだ。

 燃はニタニタと口元を笑ませながら、男の首を掴んだ義手の熱をじわじわと高めていく。


「私が上から言われてる仕事、“森羅の光”の調査なんよねー。乗ったはいいけど延々出られへんかったやろ? まあ大方アリヤくんたちを襲撃しようとか思ってたんやろうけど、させへんよ〜? 残念でした〜。いやあ、ちょうどいいとこにいてくれて助かったわ。助かる〜燃さん孝行やわ〜」


 底意地の悪い笑顔でそんな言葉をつらつらと並べながら、燃は腰から刀をズルリと抜き放つ。

 その切っ先を刺客の腹に1ミリ、2ミリとゆっくりめり込ませて、そこへ“痛”と刃文字を刻み付ける。

 妖狐の家系に伝わる呪詛だ。刺客の痛覚が倍増して、彼の悲鳴がひときわ大きなものへと変わった。だが正常な時空から隔絶されたエレベーターの絶叫は誰の耳にも届かない。

 燃は、悪性の笑みを満面に浮かべる。


「じっくりた〜っぷり、燃さんとお話ししよな?」

 

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