142話 亀裂と愛情
明け方の街をジャージ姿の青年が歩く。
この上なく不機嫌な面持ちで、世の中全てに怒りと絶望を抱いたような態度で自販機に横蹴りを入れる。
ガン! と大きく音が響いて、凹んで故障した自販機が「おはようございます! おはようございます!」と機械音声を連呼した。
早朝のランニング中の男性やゴミを掃除している老人がそんな青年へと遠巻きな嫌悪の目を向けて、その視線がまた彼の怒りに火を注いでいく。
「畜生!! どうしてだ!!」
どこに向ければいいかわからない怒りを夜明け空に吠えたのは、先程アリヤへとドクロの死を報せたシュラだ。
サイレンは裏切り者だった。ドクロが誰かに殺された。誰がやったかもわからない。まさか正体がバレて本性を露わにしたサイレンがやったのか? でもそれならまず俺を殺すんじゃないか?
そんな要領を得ない考えが真相から遠いところでグルグルと回っていて、彼は状況にも他人にも自分にも、全てに対して激憤を抱いている。
立ち止まり、見上げたのはパンドラで随一の巨大なビル。製薬会社ドミニオン・バイオファーマの本社ビルだ。
物々しい警備が二十四時間体制で敷かれたそのビルへと社員証なし、アポなしで入ろうとすれば、たとえ七面會であっても入り口で厳重なチェックを受けなくてはならない。
ましてや仮面を付けていない今の彼は、目付き鋭く怒り狂ったジャージ姿の若者だ。入りたいと言っても警備員たちはまともに取り合わないだろう。……が、シュラにとって警備なんて何の意味もない。
路上から音もなく姿を消した彼が次に現れたのは、警備員の待ち構えるゲートを潜り抜けた先にあるエントランスホールだ。
そこからさらに瞬間移動、瞬間移動、瞬間移動。息継ぎ程度の気軽さでテレポートを数度繰り返したシュラは、ほんの5秒ほどでビルの上層階にある一室へと到達した。
「やあ、シュラ」
部屋にシュラが降り立つやいなや、ほぼ間を開けずに室内にいたカラスが声をかけてきた。
この早朝の時間でも、カラスは個人の研究室に篭っている。
彼一人にも関わらず七面會の象徴である仮面、ペストマスクを被っている。
「下からの連絡もなくいきなり部屋に入ってくるのはお前ぐらいだ。まあ仲間同士だ。別に構わないけど、せめてテレポートは部屋の前までにしてドアをノックしてほしいよ。もし俺が女を連れ込んでたら気まずいじゃないか? ハハッ」
シュラの方には目を向けずに試験管を揺すりながら、カラスは軽い調子で喋る。
視線を向けないと言っても軽んじているというよりは、無警戒に背を見せ続けることを厭わない信頼の証といった色が強いだろうか。
だがシュラはその軽口に応じることなく、挨拶を返すこともなく無言のまま立ち尽くしている。
不思議に思ったのか、ようやくカラスが振り向いた。
「どうした? こんな早朝に」
「サイレンは星の意思だ」
「……なるほど。そういうこともあるだろうさ」
一秒足らずの沈黙を挟み、カラスは特に動じた様子もなく声を返す。
まるで知っていたかのような反応に、シュラは苛立たしげに奥歯を噛み締める。
「……賢い賢いカラス様がよ。自分は全部知ってましたってか? アァ?」
「どうしたシュラ、そんなに腹を立てて。サイレンの件は俺も初耳だよ。よく調べて対策を打たないとな」
白々しい。シュラは確信を抱く、こいつはサイレンが星の意思だと知っていたんだと。
知った上で利用しようとしていたのか共闘できると考えていたのか、そんな思惑はどうでもいい。知っている情報を仲間である自分たちと共有していなかったことに腹が立つ。七面會は対等な同志じゃなかったのか?
その苛立ちに任せて、シュラは腹いせのように言葉を継ぎ足す。
「だったらこいつも初耳か? ドクロが死んだ。カルナヴァルの屋上から突き落とされて殺されたんだ」
「………………なんだと?」
カラスの声が上ずる。
「何があった? 聞かせてくれ、シュラ」
「知るか。テメーで調べろ」
「ドクロが? まさか。そんなはずが……」
「フン……」
動揺を隠せないその声にわずかに溜飲を下げて、シュラは親指を下に向けつつ、吐き捨てるように口を開いた。
「研究にしか興味ねぇ最近のアンタにも、仲間が死にゃ驚く感情はあるんだな。……それともフリか?」
怒りから一転、冷淡にそう吐き捨るとシュラはカラスに背を向けた。
去ろうとする彼に、カラスが問う。
「どこへ行く?」
「ア? 言う義理ねーよ」
そう言い残して、シュラは瞬間移動でどこかへと姿を消した。
「……どうなってる?」
カラスの動揺はシュラの言うところの“フリ”ではない。本物だ。
サイレンの正体については知っていた。察した上で、秘密こそあれ協力的な存在だと認識していた。
だがドクロの死は知らない。聞かされていない。
「話が違う」
カラスは、ドクロに対して好感を持っていなかった。
異世界都市の蹂躙と支配、モラルを踏みにじって混沌を蔓延させ、魔素の深淵を追求する。
そんな七面會の理念と目的に比べて、随分と善性に寄った感覚の人間を引き込んでしまったな、というのがカラスからドクロに対しての感想だ。
別にドクロが超の付く善人だったわけではない。必要に応じた殺しは厭わないし、目的のためなら平気で他者を害する狡猾さも持っていた。
ただそれでも彼は基本的には争いを好まず、全てにおいて平和な解決手段があればそれを優先する男だった。
そんな彼と行動を共にしていると、自分の悪辣さが必要以上に浮き彫りにされるような気がしてあまりいい気がしなかった。
それを表に出したことは一度もないが、ドクロのことは嫌いだったと言ってもいい。
だが反面、コミュニケーションに長けた彼は七面會の人間関係の潤滑油になってくれていた。
例えば反骨心の強いシュラは、気安く明るく接してくれるドクロがいなければもっと早くに反抗を示していたかもしれない。
彼がいたからこそ七面會というクセの強い人間の寄せ集めが、曲がりなりにも集団の形を保てていたのだ。
カラスはそんなドクロのことを嫌っていたが、それ以上に尊敬もしていた。
それが死んだ。殺された?
「話が違う」
カラスは椅子から立ち上がると、身支度を整えて部屋を出た。
カラスの個人的な目的を果たすためには、七面會という枠組みはまだ必要だ。
それを保つために、あることを調べなければならない。
・
自分の膝の上で、一人の青年が無防備な寝顔を晒している。
藤間或也の寝顔を見つめながら、深谷燃はあまり味わったことのない感情を体感している。
(うーん、可哀想で可愛い)
それは愛情だ。燃はアリヤに対して深い愛情を抱き始めている。
と言っても、今感じているそれは抱きたい抱かれたいという異性愛とは少しベクトルが違う。
頼りなさげで存在が不確定でルーツが不明瞭で危うい。そんなアリヤに異性としての興味や面白みも感じてはいるが、今彼女が感じているのは憐憫だ。
ペットに向けるような、あるいは弱り切った野良の動物が助けを求めてすりよってきた時のような、胸の内から込み上げてくるような保護欲求。へとへとに弱りきって寝息を立てるアリヤを見ていると、その類の感情が沸いて仕方がない。
もう二時間近く膝枕のままでいる。
彼女は自分のことを気ままで利己的で自己中な性格だと認識しているが、そんな自分が膝枕で足が痺れてしまっているのを我慢できているのが不思議でならない。それも他人のために!
深い寝息を立てて寝ているアリヤの頬に指で触れてみる。つねってみる。
耳の形に指をそわせて、唇をめくって、いたずらに鼻の穴を塞いでみる。
「む、ぐ……」
「ふふっ、あはは! めっちゃ苦しそうな顔してるのに起きひんやん。もう、たった一日でどんだけ疲れてたんアリヤくん」
自然と笑ってしまったが、冷静になってみれば何が面白いのかよくわからない。けれどこうして青年の寝顔を眺めていると、不思議と心が満たされるのだ。
あるいは憐憫だけでなく、母性でも抱いているのだろうか。
「母性? 私が? フッ、アハハハ! 待って待って、ありえへんって」
自分の思考に自分でツッコミを入れつつ、燃はアリヤの寝汗を袖で拭う。
際限なく込み上げてくる愛しさをどうにも扱い辛く感じながら、燃は天井を見上げて悩ましげに呟く。
「うーん……今のままでいいんやろか、私」
彼女には秘密がある。
彼女自身の秘密というより、アリヤたちに開かせない立場上の秘密を抱えている。
今後、どう身を振っていくべきか。七面會の一角が欠けたことを契機に、燃もまた揺れている。




