141話 炎の温もり
……暗い。
暗く重く、息苦しい闇がアリヤの意識に帳を下ろしている。
曖昧で散漫な思考の中に、刺し殺された父、トラックに叩き潰された母、車に轢き殺された姉、大切な家族の死に様が松明のように灯されていく。
首を撥ねられる父、階段を頭から転げ落ちる母、池で溺れる姉。
(……違う、みんなはそんな死に方はしていない)
死病でのたうちまわる父、窒息で顔を紫に染めた母、強毒を浴びて粘膜から血を流す姉。瓦礫の下敷きになった父、炎に巻かれた母、首を吊られた姉。
そんな事実はないのに、アリヤの大事な家族たちが順に何度も無惨な死に様を晒していく。
(や、やめろ……!)
こんな光景見たくない。気が狂ってしまいそうだ。
これは一体なんだろう。誰かがアリヤの精神に干渉してきている?
いや違う。アリヤ自身の脳が生み出している悪夢。限界を超えたストレスによる経験と記憶の決壊だ。
この世界で多くの死を目の当たりにし、自分の手でいくつかの死を積み重ねてきた。
その異様な体験は知らず知らずのうちに、彼の精神に多大なストレスを蓄積させていた。
最初こそエクセリアを守るための専守防衛だったが、流れに身を任せて道を選んでいく上で、ついには自発的にマダム紅を手に掛けた。
自分とエクセリアの身を守るためだ。
先に仕掛けてきたのは向こうだ。
相手は悪人だ。
これは仕方のないことだ。
そんな言い訳を並べて死と殺人から目を背けていたが、心に沈めておける違和感や疑問の容量にはどうしたって限界がある。
事務所の開業、慣れない仕事、新たな仲間を迎えた不慣れな環境もストレスを加速させる。
知らず知らず、彼の心は表面張力で盛り上がったコップの水のような状態だった。
そこに自分のことを友人だと呼んで憚らなかったドクロ、京野慎吾の死を聞かされたことで、アリヤの心の底に巣食っていた家族の死というトラウマが、あたかも活火山のように噴出したのだ。
(やめてくれ……!)
アリヤは眠ってはいない。眠れない。
完全に意識が落ちていればまだいいものの、彼の脳は半覚醒のまま延々と悪夢めいた情景を投影して精神を苛んでくる。
かといって自律して思考できるほど覚めている状態でもない。
眠っているのと身体的にはほとんど変わらない状態で、浅く重く限りのない悪夢を強制的に鑑賞させられ続けているのだ。
人の心には限界がある。このままでは壊れてしまう。
……
……
…………温かい。
連綿と並ぶ無数の死、その底冷えする低温に晒され続けて半狂乱に陥りかけていたアリヤの体を、不意に柔らかな温もりが包み込んだ。
賑やかで力強く、陽々と燃える燈のような温かさ。
早鐘を打つアリヤの心臓に合わせて熱と魔力が一、二、一、二と脈打ち、徐々に、徐々に……アリヤは自分の拍動が落ち着いていくのを自覚する。
灯された悪夢が一つ、一つとその明かりを消して、全身を苛んでいた恐るべき苦痛が緩和されて、曖昧に混ざり合っていた夢と現実の境界がはっきりと分たれていく。
(……温かい。子供の頃、母さんが干してくれてた布団に包まれた時みたいな。その中で思いっきり深呼吸するのが好きだったっけ)
そんな感慨に浸りながら、アリヤはゆっくり深々と鼻から息を吸い込んだ。
瞬間、むせ返るような臭気! 口から反射的に「うっ」と声が漏れて、アリヤは景気付けにハリセンではたかれたかのように目を見開いた。
「酒臭っ!!」
「は? なんなん!?」
「うっ!?」
何が起きているのかもわからないうちに、腹部へ深々と拳がめり込む。
腰の入った重い一打を浴びて、アリヤは「ぐうっ」とうめきながら身をよじらせる。
だがおかげで目が覚めた。アリヤはさっきまでと同じホテルのベッドの上に身を横たえていて、同じベッドの上には燃さんがいた。
わりとひどめのアルコール臭を漂わせた彼女は、ぴったりと体を寄り添わせてアリヤの体に腕を回してきている。
「え? 燃さん? なんでここに」
「いやいや「なんで」やないやろ。美人の燃さんが一緒にベッドの中にいるんやからもっとこう「うわぁ!?」とか顔真っ赤にするとかラブコメ主人公みたいな反応してくれへん? しかも起きぬけの第一声が「酒臭っ」ってなんなん。燃さんがこうして優しぃ〜く冴えへん倒れ方したアリヤくんをぎゅうっと抱きしめてあげてたのにそれに報いる言葉がそれ? え? アカンやろ。もう一発殴るわ」
「ふぐうっ??!」
わからない。わかったことは殴ってきたのは燃さんだったということだけ。
二発目の殴打に目を白黒させているうちに、意識がより明瞭に冴えてきた。
燃さんがいる。どうやら幻覚や悪夢じゃなくて本物だ。
仕事帰りのようなワイシャツ姿のまま隣に寝ている彼女の姿はなんだか異様にいかがわしい光景に見えてしまって、アリヤは今になって照れてしまって視線を逸らす。
「ど、どうしてここに?」
「いや〜大変やったんよ。燃さんってエリートやから昼間はめっちゃ忙しくしてるわけやん? あくせく働いてようやく仕事終わって、色々疲れてたからせめてもの癒しに宅飲みしてたんよ。まあ疲れてない日も飲むんやけど。で着替えもせずに飲んでたらそのまま寝ちゃって、床で爆睡してたらいきなりスマホがめっちゃ鳴ってな? 早朝4時よ早朝4時! めぇっちゃイラッときて無視しようかと思ったんやけど、まあよくよく考えたらなんかヤバい報せかもと思って……ほら、家族になんか悪いことがあったとか? そういうのやったらアカンな〜って思い直してビクビクしながら電話に出たんよ。そしたらアリヤくんがブッ倒れたって姫様が言うもんやからビックリして出てきたわけ。着替えもせずに! え、ヤバない? 燃さんめっちゃ健気やない!? それを何アリヤくん。「酒臭っ」て! 仕方ないやんちょっと前まで飲んでたんやから! なんなん? 腹立つわ〜」
「長いですよ説明が……」
燃さんが相変わらずの調子でベラベラと喋り倒しているうちに、状況が把握できてきた。
どうやら自分は悪夢に苛まれている間に相当ひどい状態だったようで、自分が吐いたらしい吐瀉物が燃さんの服やベッドに付着している。
それどころか暴れて掻き毟ったようで、燃さんの首筋には赤い傷が残っていた。
だが彼女は腹を立てたそぶりを見せつつも、そのことについては特に触れてこない。迷惑をかけてしまったんだなと気落ちしつつ「すみませんでした、色々」と謝ると、彼女は片眉を上げて手をひらひらと揺らした。
「ま、私のことは気にせんといて。それより後で姫様に謝ってあげた方がええよ」
「姫様って、エクセリアに? エクセリアがどうかしたんですか? そういえば部屋にもいないみたいだし……」
「そ。アリヤくんが昏倒した後しばらく落ち着かせようと色々やってみたけどどうにもならなかったみたいで、泣きじゃくりながら私に電話してきたんよ。「アリヤを抱いてくれ」って」
「だ、抱いてくれ……? なんですかそれ」
「いや私も最初驚いたんよ。アリヤくんついに姫様介して私にエロい頼み事してきたんかと思って。えっ何の性癖? なんでそれを姫様に伝言役させてるん? 性癖こじらせすぎちゃう? アリヤくんきっしょ! ってドン引きしたわ心底。でもまあ姫様の声の様子がただ事じゃなさそうやったから急いで来てみて聞いたらアリヤくんがウーウーうめきながら転げ回るわゲーゲー吐くわの惨状やったわけ。で、姫様曰くアリヤくんがうわ言で家族のことを呟いてるから、お母さんかお姉さんの代わりになれるような大人の女性に頼みたかったって。自分が抱きしめたり宥めたりしてもどうにもならへんかったって言うんよ。だから私が引き受けたわけやけど……ほんと、色々ショックやったみたいよ。姫様」
「……そうだったんですか。申し訳ないことしちゃったな、エクセリアに」
エクセリアは部屋にいない。
燃さんが隣にもう一部屋借りてくれたようで、パニックに陥り憔悴していたエクセリアは雷と二人でそっちに移っている。
あとで謝ってお礼を言わないとな、と考えていると、燃さんが「はーそれにしても」と口を開く。
「ほんっとアリヤくんのうわ言ひどかったわ。父さんだの母さんだの姉さんだの泣いたり吐いたり歯軋りしたり叫んだりして。なんなん? 家族愛に飢えてるん? ファザコンとかマザコンとかシスコンとか全部ひっくるめてファミコンやろファミコン。ファミリーコンプレックス」
「す、すいません」
「トラウマ持ちのファミコンって地雷物件すぎひん? ほんとアリヤくんってアレやわ、ダメ男。はーほんま駄目。アカン。どうせ自分では結婚できひんわアリヤくんは」
そんな罵り言葉をいやに楽しげに述べながら、燃さんはベッドの上に脚を崩して座ると自分の膝をポンポンと叩く。
なんだろうとアリヤが怪訝に思っていると、彼女は片手でくいくいと手招きをしてきた。
「まあそれはそれとして、あんまりにアリヤくんがアレすぎてなんかめっちゃ可哀想になったわ。ほら、燃さんって母性の塊みたいなとこあるやん? だから膝枕なんてしてあげちゃうんよ。えっ優しすぎひん? 聖母?」
「母性の塊……」
炎を帯びた刀を振り回して、自爆するゾンビを魔法で使役して、運転がやたら荒くて、浴びるように酒を飲んで、掃除炊事洗濯の家事全般まるでダメ。そんな彼女に母性の要素があるだろうか?
と、そんな反論は今回ばかりは飲み込んでおく。軽口を叩くには迷惑をかけすぎた。
黙ったまま困惑していると、燃さんはポンポンと自分の膝をもう一度叩く。
「はい、アリヤくん。おいで」
「……し、失礼します」
断るのも角が立つしと、アリヤは戸惑いながら身を横たえて、彼女の膝に頭を乗せた。
人から膝枕をされるのは初めてだ。何気にされる側にもコツがいるものなのか、首の角度がうまく定まらない。
……だが、気持ちが落ち着く。
酒を飲んでいるからか、炎の魔素を宿した人だからか、燃さんは体温が温かめだ。
その体温と肌の柔らかさに心地良さを感じていると、彼女が上から、いつもよりも優しげな目で見下ろしてきた。
タガが外れたように喋るいつもとは違い、彼女は静かにゆっくりとアリヤの頭を撫でてくれる。
「まだ疲れてるやろ。もうしばらくおやすみ」
彼女の声は子守唄のように優しく、昨晩と比べて回復するどころか、寝る前よりもより疲労を積み重ねてしまったアリヤの脳に染み込んでいく。
考えなくちゃいけないことは色々あるが……少しなら休んでもいいか。
全身から力を抜いて、温もりに深く身を委ねて、アリヤはそのままゆっくりと意識を閉ざした。




