133話 黒猫の意地
コンブは猫だ。
気位は高く誇りを胸に、人に虐げられることには我慢ならない。
だが今自分を踏みつけにしているのは人じゃないから良しとしよう。っていうかなんだ魔女って。こんなの勝てるワケない。
コンブは猫だ。
品種はバーミーズ。穏やかで人懐っこい猫種。毛並みは黒。暗闇にまぎれて敵から逃げられる黒猫は遺伝的に穏やかな気質を持っている。
だなんて、種類や毛の色で特徴を勝手に決めつけられても困る。人種ならぬ猫種で傾向を語られたんじゃたまらない。人と同じで傾向からはみ出した個体だっている。
コンブは自分のことを穏やかで心優しい猫だとは思っていない。人間だってあまり好きじゃない。
エクセリアのことは恩義もあるし可愛がってくれるしで気に入っているが、人間そのものが好きなわけではまったくないのだ。特にアリヤはなんか嫌い。
オーウェン兄妹なんて犬っぽい気配がするし猫を敬わないしガサツだしで全然ダメだ。仲良くしてやろうって気にならない。
……ただまあ、ほんの半日だけど一緒に行動したからカケラほどの情がないってわけでもない。兄妹揃って瀕死なのは可哀想だ。
傷だらけで倒れたエヴァンも、激痛に絶叫していたイリスもこんな目に遭うべきだとは思わない。
(だけどオレに何ができる? できやしないよ。シエナとかが奮戦してるけど、さっきから真下にいるからわかる。魔女には敵いっこない。なんだかエクセリアと匂いが似てるんだ。逆らう気にならないっていうか。なんで匂いが似てるんだろう……?)
そんな疑問をぼんやりと抱いているうちに、状況が突如として一変した。
とんでもないなあ。
始まりの魔女から折れない程度に背中を踏みつけにされながら、コンブは地下道の戦況を見つめている。
なぜだか喋れる能力を手にして以来、コンブは人間よりも鋭敏に魔力を感じ取ることができる。
シエナの使役する空の教理は空間を清く膨大な魔力で満たしていてざわざわするし、突然現れた仮面の男、サイレンとか呼ばれてるフルフェイスのメットを着けた方が一斉に解き放った大量の小さなドローンにはぎっしりと魔力が詰まっていて気持ち悪い。
そのドローン群はUFOめいて右へ左へと不規則な軌道を描きながら、サイレンが手にした細身の剣に指揮されるように始まりの魔女へと殺到する。
数機のドローンの間にパチチと魔力が行き交い伝播し、サイレンが剣の切っ先をくるりと回したのを合図にその数機が小さな爆発を起こした。
「わっ!」とも「にゃっ!」とも付かないどっちつかずな声をコンブは上げるが、直に爆発に晒された魔女はその熱や風の影響を受けない。
だがその爆発には特殊な作用があったようで、魔女は忌々しげに鼻先にシワを寄せた。
「フン、小細工を」
直後、背後へとテレポートしてきたシュラの銃撃を魔女は魔力で発生させた障壁で受けた。
透過させて無視するのではなく、自力で防いだのだ。直に受けざるを得ない変化が魔女に起きている。
三、四、五発とオートマチックの拳銃を連射するシュラへ、魔女は舌打ちを一つして掌を向ける。
音もなくバスケットボール大の黒点が生じてそれを中心に空間が抉れるが、シュラは素早くテレポートを駆使して魔女から距離を置いた。
「サイレン、効いてるぜ!」
「そのまま攻める。シュラ、援護してくれ」
七面會の二人はそう言い交わし、果敢に魔女へと攻勢を掛けていく。
……が、コンブにしてみればただただ迷惑なだけだ。頭上でドンパチを繰り広げないでほしい。魔力に敏感なコンブにとっては居心地が悪いことこの上ない。
全身がざわざわと総毛立って、動物としての勘が危険信号を発し続けているのだ。
(居心地が悪いといえば……)
気持ち悪い魔力を発しているのはラナ・コルネットもだ。
天使の輪をひっさげて死の淵から蘇生してきた彼女は、口元に含み笑いを浮かべながらシエナとの再戦を繰り広げている。
砂礫を虫に、石を脊椎に。術式を駆使して攻めているが、シエナの空の教理はまだ発動したまま。あらゆる物理法則がシエナの有利に傾いていている。
だが天使の本性を表したラナも不可思議な力で異様な耐久性を手にしていて、お互いが千日手の状態に陥っている。
(あ、違う)
戦いの最中、シエナは集中力を欠いたかのように視線を泳がせている。
その目と目を合わせた瞬間に、コンブは彼女の意図を理解した。
(勝てないわけじゃないんだ)
きっとシエナが全力を注いで渾身の勢いで攻め立てれば、ラナを凌駕してすり潰してしまうこともできる。
だがラナの耐久力を削り切るためにどれだけ時間がかかるかわからない。削り切れたとしても、魔力を浪費して使い切ってしまうかもしれない。時間をかけている間にオーウェン兄妹の命が尽きてしまうかもしれない。
シエナが狙っているのはこの場での勝利よりも全員での生還だ。そしてその生還の算段には、しっかりコンブも含まれているらしい。
彼女の懸命な瞳は、どうやってラナを抑えて、魔女の足元から黒猫を助けて、魔女の傍らで倒れているイリスを拾って、エヴァンを抱えて、魔女をやり過ごして、七面會が掌を返して攻撃を仕掛けてくる可能性に対処する余力も残した上でこの場を切り抜けるかの段取りをひたすらにシミュレートし続けている。
(やること多っ! せめてオレは切り捨てなよ! 魔女に踏んづけられてるけど、猫だから見逃してれるかもしれないじゃん! 猫ぐらい捨ててけってー!)
だけど、シエナはきっとそれができないタイプなのだ。
コンブは人間のことが別に好きじゃないけど、特別嫌いなわけでもない。
やりたいこととやれることの区別を付けられない非合理的なところは、わりと面白いなと思う。
コンブの目から見て、シエナがやろうとしていることは無理筋だ。魔女は七面會の二人を相手取りながらもシエナに牽制の目を向けていて、まだ余裕を残している。その壁があまりにも高い。
シエナが迂闊に突っ込めば、彼女がやられてあえなく全滅だ。
だが魔女に隙さえ生まれれば、シエナの能力ならなんとかなるかもしれない。
だったらどうする?
(オレがやるしかないかぁ……)
コンブは内心で長い長いため息を吐いて、それと反してゆっくりゆっくり、魔女に気取られないように深く息を吸い込む。
喋れるようになって以来、魔力を感じられるようになった。だったら魔素を扱うことだってできるはずだ。
人間たちみたいに複雑なイメージだなんだを組み立てるのはちょっと無理だけど、すごく単純なやつなら。
魔女の視線と意識がサイレンの斬撃に向けられたタイミングで、コンブは魔女の足めがけて溜め込んだ息を思いっきり吐き出す。
「はーっ!!」
「!? あっっつ!!!」
コンブの口から吐き出されたのは火。
エクセリアが見ていたアニメに出てきたドラゴンよろしく、コンブは体内で魔素を燃焼させて火のブレスを吐いた!
決して大規模な火炎じゃないが、食材を炙るバーナーよりは強めの火だ。
さすがの魔女もまさか猫が火を吐くとは思っていなかったのか、コンブを踏んでいた足を退けて悲鳴を上げた。
今しかない!
コンブは足の下から脱兎のように飛び出して、倒れているイリスの背中と床の隙間に体を潜らせるようにして少女を持ち上げた。猫の体には人間は重すぎるが、魔素を用いた身体強化で強引に運ぶ。
イリスを引きずりながら、シエナの方へと猛スピードで駆けるコンブ。しかしその背へ、魔女の射殺すような視線が向けられる。
「火を吐く猫ぉ……? 笑えないのよこのクソ猫。あの子の成果として生かしてやろうかと思ったけど、靴下焦がされて見逃してやるほど優しくないのよね」
「やば……!」
魔女の指先がコンブの尾を指して、その位置に黒点が生じた。
ごく小規模、けれどすべてを喰らう擬似ブラックホールだ。恐るべき暗黒空間を背に、コンブは尾の先への痛みと、そこから順に全身を引き裂かれていく予感と怖気を覚える。
(いた、痛い! 痛い怖い痛い怖い! え、うわ、失敗した! し、死ぬ……死ぬの!?)
死にたくない。
それはあらゆる動物に備わった根源的な本能だ。
背後に迫る死が自分の体を既に捉えてしまった感覚。魂に響くような恐怖の痛み。動物はいよいよ死に瀕したとき、思考を放棄して意識を断つことで死の痛みを少しでも和らげようとすることがある。
だが、コンブの脳はその期に及んでも思考を止めてはくれなかった。
(怖い、怖い、怖い、怖い!! だけど……このままただ死んだんじゃ犬死にだ。猫が犬死に? 冗談じゃないよ!!)
「ううう……! にぁああっ!!」と唸りながら、コンブは全身の筋力すべてを使って自分の背からイリスを跳ね上げた。
暗黒空間に巻き込ませない。せっかく助けようとしたんだ、せめてこいつだけでも生き延びさせたい!
そんな非動物的な自己犠牲精神が猫の中に芽生えた瞬間、コンブの体がふわりと浮いた。
暗黒空間に引きずり込まれた?
新たな力が目覚めた?
人間に変身する?
いや違う。シエナが投げた大剣が、死の空間に捉われていた尾だけを真ん中で断ち切ったのだ。
「痛ああああっ!!!!?!?!!」
ブラックホールめいた魔術の引き込みから突如解放されたことで、コンブの体は勢いよく宙に放り上げられる。
そんな彼の体をがっしりと掴み、シエナが力強く猫の全身を抱き抱えた。
「偉かった! 頑張ったね、コンブ!」
「お、オレの尻尾が!! なにすんだよ!!」
「半分残したからそれで許してよ。おかげでイリスとエヴァンも回収できた。撤退するよ!」
シエナの剣とマントはいつの間にか姿を消していて、代わりに赤黒く巨大な四つ脚の召喚獣が隣に侍り、エヴァンとイリスを背に乗せている。
シエナの背後では、斬撃を浴びて血塗れのラナが杖を地面に突いている。だが彼女の薄笑いはまだ健在で、追撃をしてくる気で満々だ。
前門の魔女と七面會、後門のラナ。
苦境を突破するべく、ここでシエナは大勝負に出る。




