129話 魔女が囁く
シエナがラナ・コルネットを追ったのは、子供の頃に護衛をしてくれていた昔馴染みだから、かつて憧れていた人だからというだけの浮ついた理由ではない。
(ラナは危ないんだ……私はあの人に憧れながら、あの人のことを危惧してる)
誰にでも親切で気安くて飄々としていて、楽しいことが大好きでいつだって気ままな彼女は、それでいて物事の善悪にひどく無頓着だ。
ラナがシエナの護衛を降りたのはシエナが学園に入学して寮住まいになったからで、その別れ際はさっぱりとしつつも明るく楽しいものだった。
「ま、今生の別れってわけでもないよ。そうだ、シエナが大人になったら一緒にお酒を飲もう。お酒はいいよ〜? 約束ね」
そう言ってラナはにこやかに手を振って去っていった。
まだラナ自身も酒を飲める年齢に達していないのにその口ぶりということは、彼女は当時とっくに飲酒を嗜んでいたのだろう。
明確な法律の存在しないパンドラでは未成年の飲酒は別に珍しくもないが、それにしたって彼女は明るく落ち着きがありながらも、どこか反社会的な傾向も持ち合わせた人だった。当時のシエナには、そのちょっとした悪さが魅力的に見えていた。
だが、それから数年。
シエナが学園自治連合のリーダーとして、ラナが学園と敵対する群狼団の傭兵の一員として戦場で顔を合わせた時、ラナは何の躊躇もなくシエナを殺そうとしてきた。
私のことを忘れてる? 実は私を恨んでた? シエナは戸惑いを覚えたが、学園がどうにか攻撃を退け群狼団が撤退していく際、ラナはさっぱりとした笑みを浮かべながらシエナへ手を振った。
「お酒の約束、忘れないようにねー」と。
それから学園と群狼団は幾度かの戦闘を繰り返し、ラナは毎度その帰り際にはシエナへと好意的に笑いかけてくる。学園の生徒を大勢傷付け、何人かは命を落としたのにだ。
死んだ殺したは戦場だから仕方がないとしても、敵対しながら笑顔を浮かべ続けられる神経がわからない。
シエナはラナを調べた。
情報屋のバーガンディや独自のツテを使って、彼女の出自や経歴を徹底的に調べ上げた。
ラナ・コルネットは幼い頃に親と死に分かれて、それからずっと個人で傭兵家業を営んでいる。
誰にでも優しく誰とでも親しくなり、契約が切れるか興味をなくせばすぐに別の雇用主へと乗り換える。
そして立場を違えれば、以前親しくしていた相手を殺めることに何のためらいも抱かない。
行動原理は即物的な興味と気まぐれな好奇心。面白さで指針を決めて、それが善だろうと悪だろうと一切の頓着がない。
(危険だと思った。ラナは群狼団では本気を出してない。昔護衛をしてもらってた私は知ってる。本気になったあの人はもっと強かった。多分、群狼団での仕事に気持ちが乗り切ってないんだ。良くも悪くも面白いかどうかで物事を決める彼女なら、うまく興味を惹ければ引き抜いたり、彼女をツテに群狼団と交渉することだってできる。……そう思ってたんだけど)
血の門の後ろ盾をなくした群狼団は、他組織との軋轢で勝手に潰れてしまった。
ラナがフリーになっているなら引き込めるはず。他の悪意ある誰かと組んでしまう前に引き抜きたい……そう考えていたからこそ、シエナは今日ラナを見かけて必死に追いかけたのだ。
だが、ラナは既に手を組んでしまっていた。悪意を煮詰めたような笑みを浮かべる“始まりの魔女”と。
————束の間の回顧と思考から、シエナは現実へと意識を戻す。
コンクリート塊に拘束されたままの彼女はエヴァンと対峙したラナの笑みと、彼女のY字型の杖の輝きを見て声を上げた。
「エヴァン気を付けて! ラナが唱えた『詞握は魔法の詠唱を短縮する効果だ! ラナは大地に干渉できる術師で、ぐうっ……!?」
「こらこらシエナ、ネタバレはなしだよ」
ラナがシエナへの拘束を強めた。
彼女を捕らえているコンクリート塊がきつく締め上げられていて、腹部を強く圧迫されたシエナは浅く呼吸をするのが精一杯で声が出せない。
「詠唱を短縮? そう言われても魔法は専門外だからピンとこねえ!」
シエナからの助言に眉をしかめるエヴァンへ、ラナは藍色の髪を靡かせながら杖を振るった。
「見ればわかるよ。“薄荷の鬼角”。“凛々の紋様”。“大旗下す百の戒め”。“ひたびたと這え真黒の百足”」
「なんだ……?」
エヴァンは魔法を使えないが、他人が魔法を使うのを見た経験は何度もある。
彼が今までに聞いたことのある魔法の詠唱と比べて、ラナのそれはどこかブツ切れなリズムの印象だ。短縮されているのかはいまいちわからない。
ただ不穏な雰囲気だけを感じ取って、人狼の身体能力を全開にしつつ彼は後方へと飛び下がった——刹那、ラナの口が言葉を紡ぐ。
『悲忌大勒御杖』
床一面に立てられたラナの杖と同じ杖が共鳴して輝きを帯び始める。
飛び退いたエヴァンが備えて魔法の発動に身構えるよりも早く、ラナの口がさらに魔法を口ずさむ。
『大恩伽』
その言葉を起動の合図に、床一面の杖の周囲で強烈な力場が渦を巻き始める。
杖のそばに立っているとまずい。動物的本能でそう断じたエヴァンが真横に飛んだ瞬間、地面の無数の杖をそれぞれ中心点に、床のコンクリートがねじれてめくれて円錐状に膨れ上がった。
(これがシエナを捕らえた魔法か!)
至る所で巨大なコンクリート塊が膨れていくのから逃れながら、エヴァンは息を深く吸ってタイミングを見計らう。
(問題ねえ! うぜえ魔法だが俺なら避けられる! 隙をついて突っ込んであの女の喉笛を噛みちぎってやる!)
大技の直後には隙が生まれる。そこを突いて相手を仕留めるのはエヴァンの常套戦術なのだ。
コンクリートの屹立には前兆がある。微かな揺れ、巻き上がる砂埃の香り、微細な地擦れの音……人間離れした視、聴、嗅覚を持つ人狼のエヴァンは、最適解とも呼べるわずかな空白を見事に見出した。
ナイフを携えショットガンを提げ、そこへ迷いなく飛び込む!
だが、ラナはそんな考えを見透かしていたかのように笑う。
手にした杖の先をゆらゆら揺すりながら、ゆったりとした動きで杖を振り上げつつ、彼女の口はさらに続けて言葉を浮かべた。
『堂曼寂骨』
「なっ、まだ魔法だァ!!?」
突進の勢いは易々とは止まらない。驚きに目を剥いたエヴァンめがけて、カウンターじみたタイミングでラナの足元から石の骨が生えた。
床材を練り固めて形成された10本もの歪な脊椎は、刺々しい形状でおぞましく軋る音を響かせながらエヴァンへと殺到する。
縦に振るわれたそれを避ける。叩きつけられた床にヒビが走る。横薙ぎのそれを跳ねて避け、斜めに振り上げられたものは中空で体を捻って辛うじて避けた。
だがそこまでだ。続けて振るわれた後続が、エヴァンを掠め、ひっかけ、打ち据えて絡めて引き回す。
巻きついた一本が高々とエヴァンを持ち上げると、目にも留まらない速度で彼を硬い床へと痛烈に叩きつけた!!
「ッッッ゛がはあっ!!!」
「おっといけない、やりすぎた。……いや、まだ大丈夫そうかな? 右半身の骨が踏まれたクッキーみたいになってるだろうにまだまだ元気だ。さっすが人狼だねえ」
「く、ッソが……! 殺してやる……!」
「ね、やめておこうよ。私は未成年はあんまり殺したくないんだってば」
「どの口が言いやがる!! 群狼団にいたテメェは学園の生徒を何人も殺してるだろうが!!」
「戦争と私闘じゃまるで違うよ。ねえ、降参しない? しないか。しないよねえ、困った困った。じゃ、『済済慈芥』」
「また魔法……!?」
ラナの魔法は大技の部類だ。小規模な魔法なら詠唱を省いて使う術師もいるが、大規模なものは基本的に詠唱をトリガーとする必要がある。
一度大技を使った直後ならチャンスがある。そんなエヴァンの想定は、前提から間違っていた。
ラナの魔法『詞握』は、シエナが言ったように詠唱の短縮を可能とする。
ラナが唱えた四節の詠唱は、それぞれ独立した四つの魔法の詠唱だった。
『悲忌大勒御杖』は床に立てていた杖の総触媒化。全ての杖がラナの手にしているものと同じく魔法の起点となる。
『大恩伽』は超大規模なコンクリート操作、『堂曼寂骨』は石骨の生成とそれを操る強力な物理攻撃。
そして四つ目、『済済慈芥』。
ラナから半径2メートル範囲の床に亀裂が走り、大量の小石が宙へと浮かんだ。かと思えば、その小石全てが黒い羽虫へと見る間に変貌していく。
ウンウンとけたたましく羽音を響かせながら滞空する石虫は、「うーん」と薄っぺらなためらいを鼻先に浮かべたラナが杖を振るうと同時、生きた弾丸と化した羽虫の群れがエヴァンへと一斉に襲いかかる!!!
「お兄様ぁっ!!!!」
イリスはたまらず悲鳴を上げた。エヴァンがやられる。大好きな兄が死んでしまう。
彼女は兄の強さを心の底から信じ切っているが、それでも絶体絶命に思えてしまうほどに『済済慈芥』が描く光景は凄惨だ。
あんなものに人間が巻き込まれれば一瞬で蜂の巣になる。桁外れな耐久性を誇る人狼のエヴァンでも、果たしてどれだけ耐えられるだろう。
どうすれば、どうすれば、どうすれば!!
悲嘆と焦燥に苛まれる少女の肩に、始まりの魔女が掌を添える。
「ねえ、ワンちゃん。あなた……力が欲しくない?」
「ち、力……?」
悪辣な魔女の囁きが、少女へと忍び寄る。




