117話 事務所開業
「……わかった。君を事務所に迎え入れるよ、雷」
少しの沈黙と迷いの末に判断を下したアリヤは、他のメンバーたちにも言い含めるようにはっきりとそう口にした。
「いいのかい? 嬉しいなあ」と返した雷と握手を交わすアリヤの姿に、「はー!!? こいつマ〜ジで言ってますの!!?」と拒否反応を示したのはイリスだ。
雷に苦手意識を持っている彼女からすれば、正気とは思えない判断だったらしい。そんな妹に続いて、エヴァンが疑わしげに眉をしかめながらアリヤに問う。
「大丈夫なのかよ。信用できる要素がまるでねえぞ、そいつ」
「もちろん仮だよ仮。常に警戒しとくし、怪しい動きがあれば出て行ってもらうさ」
「仮なあ。ハンパなことすると良いことないぜ。変な匂いするしな、カビ臭え」
「ですわですわ!」
兄の言葉にうなずくイリス。対照的に、アリヤとエクセリアは首を傾げる。
「そうか? 香水みたいな匂いしかしないけどな」
「私もわからん。怯えているせいで嗅覚がおかしくなってるんじゃないか? 特にイリス、お前はビビりすぎだ!」
「そーんなことありませんわ!? これだから嗅覚のクッソ鈍い連中はお話になりませんわね!」
不本意さを剥き出しにして吠えるイリス。そんな彼女へ、パチ、パチ、パチとゆったりした拍手が向けられた。
音の出所は雷だ。少年っぽさのあるマニッシュな女性服に袖を通した女装青年……性別がどうにもわかりにくい彼は、性別不詳に艶のある笑みを浮かべて、鼻先で指をくるくると二度回した。
「さすがワンちゃん兄妹は鼻が利くね。ボクは体の中でたくさんの真菌を飼ってるんだ。カビとかキノコとか」
「おい、犬じゃねえ。人狼だ」
「ハハハ、一緒でしょ。で、もしボクが死んだら真菌が大暴走するから……取り扱いにはくれぐれも注意してよね?」
細めた視線を向けられて、アリヤが問い返す。
「大暴走って、具体的にはどうなる?」
「そうだね……半径3キロくらいがカビとキノコに覆われて、息を吸えば肺がグズグズに壊されちゃう空間のできあがり。ボクの飼ってる真菌は特殊だから、鉄やステンレス、コンクリートなんかも全部ダメにしちゃうんだ。建物の中にも逃げられやしないし地下もダメ。誰一人生き残れない。こんなところかな?」
「だ、大惨事じゃないか……」
アリヤは思わずうろたえてしまう。
どうにもハッタリを言っているような口調ではない。体内に真菌を飼っているなんて話は普通なら信じられないが、人間ではなく星の意思だから与太話と切って捨てられない。
なにせ、つい先日マダム紅の怪物性を目の当たりにしたばかりなのだ。ひどく説得力がある。
アリヤはあやふやな記憶から東京の人口密度を思い起こして、雷が街中で死んだ場合の被害を想像する。
(ええと、たしか東京の人口は1㎢辺り1万人いかないぐらいだ。パンドラの人の多さも大方似たようなもんだから……少なく見積もっても5万人は死ぬ? マジか?)
「おい、初日からこんな爆弾抱え込んでいいのかよ。お前が所長だってんだから方針には従うが、先行き不安にも程があるぜ」
エヴァンの言い分を聞いて、アリヤはうっと返事に詰まる。
だがすぐに頭を振って、呻くように言葉を返した。
「い……いや、今の話を聞くと放置するのは余計まずい。他の星の意思に狙われてるわけだからどこで死ぬかもわからないし、もし彼が死んだ時に自分たちが半径3キロに入ってたら終わりだ。それよりは手元にいてもらって守る方がまだいい」
「……言われてみりゃ、そうか」
ウーッと喉を潰したように唸りつつ、エヴァンが苦渋の声色で相槌を打った。
兄が同意するならとイリスもまた同意するが、どうしても雷が怖いようで彼の方をチラチラと見ている。
そこで、この件についてはあまり触れないスタンスを取っていたエクセリアが椅子から立ち上がった。
「決まったか? 決まったな。フン、加わりたいなら加わらせてやれば良かろ。どーせ吸血鬼だの人狼だのばかりの事務所だ、人外が一人加わろうが大して変わらんわ。さ、アリヤ。そいつらに契約書を書かせるのだ!」
「なんですのコイツ、妙にテンション高いですわね。テメー何か企んでやがりません?」
「嫌なら嫌でいいのだぞイリス。家をなくして路頭に迷ってしまうがいい」
「チッ、嫌な女ですわねえ!」
そんな言い合いをするエクセリアとイリスの横をすり抜けて、雷が俺に手を伸ばして書類を要求してきた。
パンドラは法律よりも暴力が優先される世界だ。労働者を守るような気の利いたルールはないが、最低限の社会規範や不文律は存在している。
その手の決まりや契約上の約束事やらをまとめた雇用契約書を手渡すと、雷は上から下へスラスラと目を通してから横線で給与の欄を潰し、名前を記して判子を押した。
「言った通り、ボクは給料はいらないからね。居させてくれればそれでいいよ」
続けてエヴァン、イリスが契約書に名前を記し、アリヤがそれを受け取ることでようやく事務所の体制が整った。
エクセリアはアリヤの手元にある三枚の書類を順に眺めて、満足げにうんうんと頷いてから笑みを浮かべた。
「やったなアリヤ! お互い色々とままならん状況で苦労したが、私たちもこれで晴れてようやく下僕を手に入れたわけだ!」
キャッキャと喜びながらエクセリアが口にした言葉を、イリスは耳聡く聞き逃さなかった。
「お待ちなさいな! 下僕ってなんですの下僕って! わたくしとお兄様は確かにここで働きますけれど、テメーらの下僕に成り下がった気は一切ありませんわよ!」
「似たようなものだろう、6号」
「違いますわよ!! え、なんで6号ですの? 藤間或也、エクセリア、お兄様と来てわたくしが4号じゃありませんの?」
怒りよりも疑問を優先させたように真顔で首を傾げるイリスへ、エクセリアは契約書類をつまんでこれ見よがしにひらひらと揺らす。
「お前たち兄妹より雷のやつが先に書類を提出したからな。フフン、何事も早い者勝ちだぞ。これを機に社会の厳しさを思い知るが良い」
「はぁ〜? なんですのテメー。自分も世間知らずのくせして偉そうに。いやそれでもおかしいですわ。そこのキノコ男が番号が早いのも気に食わねーけど、だとしても5番のはずですわよねえ。なんでわたくしの番号がさらに繰り下がってますの?」
不思議そうに首を傾げながら食い下がるイリス。エクセリアの言った番号に特に意味はないが、序列みたいに思えて気になって仕方ないらしい。
そんな彼女へ、我関せずとばかりに窓際で陽光に当たっていたコンブがあくびをしてから視線を向ける。
「3番はオレだけど」
「は???」
そんなやりとりを横目で見ながら、エヴァンもまた驚きで目を剥いている。まさかただの猫が喋るとは思わなかったらしい。
雷も興味深げにそれを見ながら、アリヤへと軽く笑いかけた。
「退屈しなさそうでいいねえ、ここは」
「とりあえず寂しくはないよ。あとは仕事が来るといいんだけど……」
……と、鳴り響く着信。
そう繁忙になるかと疑わしく思いながらも二台引いておいた電話の両方が鳴っている。
同時に依頼が二件も? そんなはずはと訝しみつつ、アリヤは片方の受話器に手をかけた。
他のメンバーでスムーズに電話を受けられそうなのは誰だろう?
エクセリアにはどう考えても不向きだ。イリスのあの口調じゃ胡散臭いにも程があるし、エヴァンの不良じみた声色もどう考えても適さない。
アリヤが迷っていると、雷がもう片方の受話器に手を伸ばした。
「ボクが出てもいいかな? ちゃんと応対するよ」
「あー……助かるよ、本当に」
胡散臭い男だけど、なんとなく他の面子よりはまともそうだ。彼がいてよかった。
そんな前言撤回じみたことを早速考えつつ、アリヤは姿勢を正して通話口へと声を発する。
「お電話ありがとうございます。藤間総合エージェンシーです」




