★116話 雷春燕
臭い。
エヴァンの鋭敏な嗅覚は、雷からほんの微かに漂うカビ臭い臭気を嗅ぎ取っている。
菌糸類の匂いだ。雷は「ボクをここで雇ってよ」なんてことを言いながら、人間をキノコ化させるお得意の魔法をいつでも撃てるように準備をしている。言葉とは裏腹の臨戦態勢だ。
(単身で敵地に乗り込んでくる自信家なだけあるぜ、変態女装野郎)
頭にキノコを植え付けられた上に散々追い立てられた経験のせいで、イリスはすっかりこの男に対して苦手意識を持ってしまっている。
自分の背に隠れる立ち位置で怯えている妹を意識して庇うように立ちながら、エヴァンは雷を挟んで部屋の奥にいるアリヤに目配せを送った。
(戦るなら言えよ。俺から仕掛けてもいいぜ)
そんなメッセージを伝えようとしたのだが、アリヤは首を横に振って、わざわざ声に出してエヴァンを制止する。
「いい、エヴァン。そのままで。出来れば戦いは避けたいんだ」
「なんだアリヤ、テメェ舐められたままでいいのかよ。仮にも事務所開けて初日だろうが。このままコイツにうだうだ居座られたんじゃあ商売にならないぜ。ビビんなよ! やっちまえばいいんだ!」
威勢の良いエヴァンの咆哮を聞いて、雷はニマッとその口を笑ませた。
シナを作るように小首を傾げて、「だ、そうだけど?」とアリヤへ問う。
だがアリヤは狼狽した様子で視線を泳がせ、うろたえもあらわにエヴァンを止める。
「た、頼む。頼むから余計なことはしないでくれ、エヴァン」
「ンだよ……情けねえ。確かにコイツは強かったけど前後挟んで四人でやりゃなんとかなんだろ」
そのエヴァンの言葉に反応したのはアリヤではなく雷だ。
紅血楼で見かけた時の女性モノのドレスではなく活動的でボーイッシュな印象の服を身につけた彼は、腰のベルトに提げた鞘を撫でながらウンウンとうなずく。
「確かにねえ! キミたちは強いよ。ボクだって強いけど……一斉に来られたら死んでしまうかもしれないね。でもボクだって喧嘩をしに来たわけじゃないのに殺されるのは不本意だ。精一杯嫌がらせはさせてもらうよ……?」
「嫌がらせだァ?」
「ボクのキノコの魔法は知ってるよね? あれで一人か二人キノコに変えてやるのも悪くないけど、それよりかこの事務所の中をキノコまみれにしてやる方が面白いかなぁ。壁や天井、水回りにびっしりとこびりついたキノコとその香りを想像してみて? 古い木の洞みたいなカビの香りで満たされた事務所! 誰も寄り付きやしないかもしれないね!」
「や、やめてくれ、頼むから!」
その脅し文句を聞いて、エヴァンはようやくアリヤの弱腰を理解する。
雷の言う通りにされてしまったら、事務所を再び使えるように掃除するには専門業者に高い金を払わなくてはいけない。そもそももう使えなくなってしまうかもしれない。
火事やら破壊活動に遭ったならともかくキノコまみれに保険が下りるのかもよくわからないし、うかつなことをすればアリヤは破産待ったなしだ。独立初日で!
「あー、状況わかったわ。焦らせて悪かったな、アリヤ」
「いや、理解してくれたならいいんだ。そのまま、そのままで頼む……」
人質ならぬ事務所質を取られて状況を掌握した雷。
そんな彼へ、不機嫌に腕組みしていたエクセリアがまなざし鋭く問いかける。
「で? 貴様の目的はなんだ。まさかバイトをしなきゃ生活できない身分でもなかろう」
「そんなことないよ? キミたちのせいで潰れちゃったじゃないか、血の門は」
イリスが恐る恐る口を挟む。
「潰れただなんて、よくもいけしゃあしゃあと白々しいこと言えたもんですわ……お外に待機させてたじゃありませんの。血の門の下っ端を」
「なにそれ? 知らないなあ。あ、これはシラを切ってるわけじゃなくて本当に。だってボク、かわいげのない人間の部下なんて自前では使わないしね。そういえばイリス、キミも体感したよねえ?」
「ひっ! あ、頭にキノコは二度とゴメンですわ……!」
怯えたイリスが一歩退いたのと入れ替わりに、再びエクセリアが詰問の口を開く。
「イリスの言う下っ端がお前と関係ないにせよ、血の門がなくなったわけじゃないのは事実だ。チマチマ小銭を稼ぎに来る理由にはならん。それにアイドルもやってるんじゃなかったのか貴様」
「アイドルは趣味だよ。仕事じゃない。せっかく可愛く着飾ったんだから、たくさんの人に見せたいのは当然だよね?」
「趣味でやるようなものなのか……?」
「そんなものだよ。肩肘張ってやらなくたって顔が良くてサービス精神があればどうとでもなっちゃうんだ。エクセリア姫、キミもやってみるかい?」
「な、なんだと」
と、会話のペースを握られつつあるのを見てアリヤがエクセリアの肩をトントンと叩いた。
目を合わせて、交渉役は不向きだと無言で諭されたエクセリアがムッとした顔で一歩下がる。代わりに、アリヤが雷へと問いかける。
「雷、君が今すぐに俺たちとやり合う意図がないのは理解した。けど、それにしたってただ働きたいなんて言われても敵陣に探りを入れる意図としか思えないよ」
「そんなことないんだけどなぁ?」
「だったら理由を聞かせてくれ。なんとなく、はNGだ。少しくらいは動機があるだろ?」
「動機……うーんそうだなぁ。強いて言うとすれば、ボクが星の意思だからかな?」
「……なんだって?」
アリヤは目の前の女装青年に訝しむ目を向ける。今コイツなんて言った?
血の門を牛耳っていたマダム紅の正体、地球を支配して牛耳りこの異世界にまで進出してきた人とは異なる生命体、星の意思。
自分もその一員だと、雷春燕はそう言ったのか?
アリヤだけでなく他の三人も色めき立つ。無言で息を呑んで身構えるが、当の雷だけは悠々とした態度を崩さずに言葉を続ける。
「星の意思がこの都市に複数侵入しているのは知ってるよね? ボクもその一人。だけどボクは星の意思全体の方針と少し考え方が違う。従わずに疎まれて、マダムの死をきっかけに処分されそうになったから彼らと距離を置いた。だからキミたちの事務所に身を置いて、他の星の意思から守って欲しいっていうのが動機だよ。説明、これでいいかな?」
一息にセリフを並べた雷に、アリヤはギリギリ理解を追いつかせる。
いきなり星の意思の一人が顔を出してくる状況がまずイレギュラーなのに、そこに内部事情を交えられたのでは混乱寸前だ。
辛うじて噛み砕き、頭をそらしてクルクルと回るシーリングファンを見上げて、それからアリヤは言葉を継いだ。
「ええと……動機は分かった。けど説明はまだ足りてない。君が星の意思だって証明は?」
「証明? 証明できるものじゃないなあ。血が緑なわけでもないしね」
「うーん……なら、他の星の意思の名前と居場所を教えてくれないか。知ってる範囲でいい」
「答えられない。したくないじゃなくて機能的に不可能だよ。ロックが掛かってるんだ」
「……じゃ、名前じゃなくていい。星の意思全体の方針ってどういうものなんだ」
「それも答えられないなあ、不可能って意味で。ボクとしてはこんな答えじゃ立場が悪くなるのはわかりきってるし、ぺらぺら洗いざらい答えちゃいたいんだけどね。残念」
「……だったらここに置くことはできないぞ」
「そう? ま、ボクは言うべきことは言った。別に嫌がらせに来たわけじゃないからねえ、ダメと言うなら出ていくよ。もし置いてくれるなら、所員の一人として使ってくれて構わないからね」
そう言って彼はひらひらと手を揺らす。
彼、と言ってもその外見はほとんど少女だ。
顔立ちは女性として見てかなり可愛らしい部類だと思うし、全身の骨格が少女と呼ぶには少しいかついのも服装選びと着こなしで絶妙に隠している。
実年齢は知らないが、外見年齢だけ見るなら二十歳のアリヤよりは下に見える。
そんな相手が少なくとも敵対の姿勢は見せていないのによってたかってボコボコにするというのもなぁ……と、アリヤの内心ではそんな逡巡がグルグルと回っている。
わからない。アリヤはすっかり対処に困ってしまう。
答えられない答えられないの連呼、そんな彼の返事はほぼ論外なのだが……安易に出ていけと言ってしまっていいんだろうかと引っかかりも感じる。
そんな俺の迷いに呼応するようにアリヤの頭の中で————鐘が鳴った。
『運命分岐点』
【①. 話の内容がどれだけ本当かもわからないし、リスクが大きい。出て行ってもらう】
【②.嘘か本当かはわからないが、警戒はしたままひとまず事務所で雇ってみる】
【③.一人では決められない。多数決を取ってみる】
こんなところか。
①と②はイエスとノー、単純な二択だ。
③で仲間の意見を聞くって手もあるが……どうだろう。
ルート投票は明後日の正午までで締め切りとします。
同票数の場合は最初に書き込まれたルートを採用して進行する予定です。




