103話 2000万の使い道
シエナ曰く、ランドール家の浮気調査は目下迷走中だ。
シエナ、ユーリカ、ミトマの三人に加えて学園の人員を数人割いて探りを入れているが、はっきりした進展はまだないと。
「まだ手応え得られてない調査に付き合わせるのも悪いからさ、アリヤは少しの間ゆっくりしてなよ。血の門の件は大変だっただろうし」
「そうそう。アリヤくん、この街に来てから自由に過ごした期間ってあんまりないでしょ?」
「自由ねえ……」
シエナとユーリカはそう言ってくれるが、俺は少し困ってしまう。
これまでの人生で経験がないぐらい忙しくしていたので、余暇の過ごし方をすっかり忘れてしまっている。
シエナたちと別れて、さて何をしたもんか。
シエナに持ちかけられた独立の話が頭にあったからか、何をするでもなくフラフラと街を歩いていた俺は不動産屋の店先へと目を向けていた。
「2000万、2000万かあ。パンドラの物件の値段は……」
店先に貼られた物件の月々の値段を眺めてくと、まあ当然だが場所ごとに賃料はまちまちらしい。
パンドラの通貨クレジットと日本円は数字的な感覚はちょうど同じぐらいだが、家賃は俺の住んでいた街よりは高めだろうか。
たぶん普通の家よりは事務所用の物件がいいだろう。エヴァンたちや他にも人を雇うことも考えるとあまり手狭でもいけない。
交通の利便や諸々の条件を併せて考えて、それでも月々20万は見ておけば余裕がありそうだ。
まずはオーウェン兄妹、それにあと少しの人員を雇ったとしても、給料や諸経費あわせて当面の費用は賄えそうな気もする。
2000万ってでかいな、やっぱり。
「家具類は学園から融通してくれるって言ってたし、やろうと思えばやれるよな……どうするかな……」
ぶつぶつ独り言をつぶやきながら、俺は不動産屋の前を離れて街を歩く。
シエナたちはカフェで昼食を食べていたけど、先に店に入っていた俺は飲み物しか頼んでいなかった。
小腹が空いて、ちょうど通りがかったアーケード街の店先を眺めていく。
アーケード街と言っても日本のそれとは趣が違う。店先にドラム缶のような大鍋を置いて目が痛くなるほど辛そうな料理が煮込まれていたり、よくわからない金物をくわんくわんとけたたましく叩き合わせて客呼びをしている若者がいたりと雑然ぶりが凄まじい。
得体の知れないモツと豆の煮物、かき氷シロップのブルーハワイみたいな液体が絡めてある餅菓子、発酵したような匂いのする魚の干物、衛生状態が心配になる店先に常温で放置された生牡蠣。
どうも今日は食指が動く食べ物に出会わない。パンドラの食事情はかなりしっかりしているが、それでも不味そうなものはいくらでもあるし牡蠣は怖い。
たまにはチェーンの牛丼とかハンバーガーで無難に済ませるかなと思っていると、後ろからトントンと肩を叩かれた。
なんだろうと振り向くと、浅黒く日焼けした見知らぬ男がニヤついた顔で俺を見ていた。
「お兄ちゃんお兄ちゃん、可愛い子揃ってるよ。サービスたっぷり。遊んでかない?」
「あ、ああ……」
客引きかあと俺は納得する。
俺はこの歳になるまで繁華街を歩く経験が少なかったので、こういうのは何気に初めての経験だ。
キャバクラ? それとも風俗? それって昼から空いてるもんなのか? 最近はエクセリアに燃さんにシエナやら女の子と話す機会がやたら多いが、俺は元々異性と話すような生活をしてこなかった。
それをキャバクラだの風俗なんて言われても。一瞬頭の中に想像力を働かせてしまった俺は、髪をガシガシと掻いてそれを振り払おうとする。
「ええと、キャバクラの客引き?」
「イヤイヤもっといいとこ、お風呂お風呂。わかるでしょお兄ちゃん」
「ふ、風呂? ああ、ソープとかいう……よくわからないんだけど、昼からやってるもんなの?」
「朝から夜までやってるよ。お兄ちゃん初心者? うちの女の子はみ〜んな優しいから安心安心」
「いや、俺は……」
「いやもだってもないでしょ何カマトトぶってんの。お兄ちゃんだって女の子好きでしょ? こんなとこウロウロしてんだから」
「こんなとこ? ここはただのアーケード街じゃ」
「とぼけちゃって。あっちが桜花街なんだから、ここを昼からウロウロしてる男はみ〜んな女の子目当てに決まってる!」
「桜花街?」
どこかで聞いた名前だ。あやふやな記憶をたぐった俺は、そういえば燃さんからその名前を聞いたなと思い出す。
パンドラ最大の歓楽街で、凄まじい数の飲み屋や風俗店が密集しているらしい。
燃さん曰く、「桜花街は美味しいお店も多いから今度連れてったげる。でも桜花街はエッチいお店も多いんよね〜、アリヤくん連れてったら過度に意識して不自然に目を背けまくりそうやわ。面白っ」と雑なからかいを受けたのを覚えている。
それと、七面會の一人が統治している場所だとも聞いた。アブラやドクロとは少し交友ができたが、組織としての七面會や企業連との関係が良くなったわけじゃない。無警戒に近付ける場所じゃないな。
そんなことを思い起こしている俺の手を掴んで、客引きの男は強引に手を引いてきた。
「はいウブなお兄ちゃんご案内ィ〜!」
客引きの男がニカッと笑うと、色黒な肌の中に真っ白な歯が剥き出しになる。
ゴツゴツとした手の甲、指の付け根の関節が硬くふしくれだっている。拳ダコとか殴りダコとかいうやつだ。ボクサー崩れ? 日常的に人を殴ってる?
なんにしても穏健な男には見えない。そもそも風俗に行くなんて俺は一言も言ってない。
俺は引かれる力よりも強めに客引きの手を振り払う。
「行かないよ、悪いけど。お腹減ってて昼飯食べたいんだ」
「は? いやいや、大丈夫大丈夫。桜花街の方にも美味しい店いっぱいあるから。いったんそっち行こうか。美味しい店紹介してあげるから」
「いや、いいって……他の客探してくれよ、いっぱいいるだろ」
「いいから来いって、ケチケチしてんじゃねえよ。金持ってんだろうが」
「持ってないって」
「嘘ついてんじゃねえよ」
「嘘じゃないって、財布には1万ちょいしか入ってないし」
「だったらATMでもなんでも行きゃいいだろうが!」
「……」
おかしいぞ、ここまで粘る必要あるか?
俺はまだ20歳だし私服は安物だし、どこからどう見ても金を持っていそうには見えないはずだ。2000万も銀行に預けてあるから本当に手持ちは少ない。
俺の何かがカンに障って絡まれているとかならまだ理解できるが、この男はただひたすら俺の金に狙いを定めている。
そこで俺は、一つの可能性に思い至る。
「もしかしてアンタ、俺のこと知ってるのか?」
「ああ知ってるぜぇ血の門潰し。2000万持ってんだろうが! 来やがれ!」
なるほどヤバい。思ったより顔が売れてるみたいだ。こんなチンピラみたいなのにまで知られてるなんて。
適当な勧誘じゃなくて、俺が金を持っているのを知ってるからここまで必死に勧誘してきたわけだ。
風俗にもぼったくりみたいなやつってあるんだろうか。変な因縁でも付けて金をむしり取る気だったのか?
手口はわからないが、敵なのは間違いない。俺が素直に従わないと見るや、客引きの男は懐から取り出したメリケンサックを拳に装着した。
血の門潰しって名前を知っててなおこの態度、かなり腕に自信のあるタイプなんだろう。いや、何も考えてないのか?
だけど真昼から街中で喧嘩ってのも嫌だし……と、不意に、俺の目の前で鈍い銀光が閃いた。
ガツンと硬いものと硬いものがぶつかった音がして、客引きの男の手首がぽとりと地面に落ちる。
「は? な、ぎゃあああっ!!! 腕ぇ!? 俺の腕がっっ!!?」
「うおっ……」
突然の出来事に俺は身構えるが、男の脇に立っている人影を見て俺は驚きながら声を上げた。
「キョウノ!」
「ようアリヤ、久しぶり」
京野慎吾。七面會のドクロだ。
彼は肉切り包丁を器用にくるくると回しながら、一振りして厚刃から血を払う。
彼の一撃で手首を落とされた男は泣きそうな顔で激怒しながら、苦痛に顔を歪めて呻き声まじりに叫ぶ。
「てめぇっ!! 俺の、俺の腕をどうしてくれんだよクソ野郎が……!!」
「んなこと言われても知らねって。桜花街の外で客引きすんのはあそこのルール違反だろ? そっちが悪りぃよ」
「舐めたこと言ってんじゃねえぞ!! ウチの店のバックを誰だと思ってんだ……!!」
「いやいや、俺七面會だかんね」
「は……」
キョウノが骸骨のマスクを被ってみせると、客引きの男はヒュッと息を飲んで表情を硬くした。
騙りじゃない。一瞬でそう感じさせるナチュラルな殺気がキョウノにはある。
「あんたの店のバックが誰だとか知らねーけどよ、桜花街全体をシメてるミヤビは俺のダチなわけ。チクっちゃってもいいんだぜ〜? へっへへ」
「ひ、ひっ……申し訳……!」
「あ、手首拾っときなよ。俺の包丁は切れ味いいからよ、多分すぐ病院行きゃくっつくぜ」
「ひいっ……」
血の気の引いた顔をして、客引きの男はふらふらとどこかへ去っていく。
その背を見送りながら、キョウノはマスクを取って改めて俺に手を上げてきた。
「よっ」
「キョウノ。ええと……何しに来たんだ?」
「いや、別に何ってねえけど。お前と昼飯でも食おうと思って来たんだよ」
「なんで俺の居場所知ってるんだよ」
「そりゃお前には監視ついてるから」
「……」
目に見える形で2000万を狙われて、俺は少し疑心暗鬼になっている。
普通このタイミングで都合よく現れるか? 金を奪おうとするような意図があるんじゃないのか?
「あ、アリヤお前大金持ってビビってんだろ。今狙われたしな!」
「それは……うん」
「だったら俺なんて一番信用できるタイプじゃん。だってアブラのやつと同じ七面會だぜ? 2000万とか端金だっての!」
「……た、確かに」
なるほど、金は信用だ。
大企業を統べてる男からすれば大した額でもないだろうし、狙う価値は皆無だろう。
少し安堵した俺を見て、キョウノはへらっと笑いながら歩き始めた。
「この辺には美味い店わりと多いからさ、なんか食おうぜ。あ、ワリカンな」




