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第二話

 草履越しに伝わる生温かい土の感触を感じながら、雁来は夜の笹林を歩き続けた。夜になっても昼間とさほど変わらない蒸し暑さに、青年の顔には既に幾筋もの汗の跡が浮き上がっている。暑さで如何にかなってしまいそうだ――そんな事をぼんやりと考えながら、彼の視界は眼前を歩く紅染の後姿に注がれていた。提灯に照らされる僅かな光の中でも、彼女の線の細い身体はくっきりと見て取れた。揺れる黒髪の間から覗く白い(うなじ)に、雁来は思わず口内の唾を嚥下する。

「着きましたよ、お侍さん」

 紅染が後方にいる雁来へと振り返り、にこりと笑んで見せる。雁来は、彼女の後ろにある庵をしげしげと眺めた。そこには、ぼんやりとした明かり越しでも分かるほどあちこちに穴が開き、藁葺の屋根も古い物なのか所々が茶褐色に変色していた。

 立ち竦む雁来をよそに、紅染は軽い足取りで庵へと入っていく。雁来もまた、少女の後に続いて庵へと足を踏み入れる。雁来は草履を脱ぐと、木の床へ思い切り腰を下ろした。疲労困憊する中で見つけた安堵の場で、青年は長い溜息を吐く。そんな彼の様子を尻目に、紅染は行灯に火をかけながら高い声で彼に告げる。

「何か作りますから、少しだけ待っていて下さいね」

 紅染の声に適当に相槌を打つと、雁来は背を床に着けた。行灯に照らされた狭い庵の中を何となく見渡す。そこには、必要な生活用具を除けば何も置いていなかった。やがて、雁来の元へ紅染が歩み寄って来た。三、四個ほどの握り飯を乗せた小皿を手にした彼女の顔を前に、雁来は改めてその美しさに見惚れる。

「お待たせしました。とりあえず、これで良ければ」

 紅染が笑顔で口にする。雁来は、何も言わずに両手を吐き出すと、彼女が持った皿の上の握り飯を思い切り掴んだ。そのまま口いっぱいに頬張り、何度か噛んだ後一気に飲み込む。皿に乗っていた握り飯は見る間に雁来の腹へ収まり、彼は満足気に笑んだ。

「美味かったぞ。御馳走さん」

 雁来がそう言って、紅染を見る。彼女もまた口元に笑みを浮かべながら、どういたしまして、と返す。雁来はきょろきょろと辺りを見回した後、紅染へと顔を向ける。

「何か礼でもしたいところだが、生憎持ち合わせが無くてな。すまない」

「いいえ、気になさらないで下さいまし」

「ところで……此処には、一人で住んでいるのか」

 雁来が何気なく尋ねた質問に、紅染は少し考える。しばし静寂が流れた後、紅染は小さく頷き、ゆっくりと唇を動かした。

「はい。母は、私が幼い時分に死にました。父も、最近ですが亡くなって」

「そうだったのか。すまなかったな、変な事を聞いて」

「お侍さんに、斬り殺されたんです」

 紅染の言葉に、雁来は一瞬身を強張らせた。不意に、中年の侍を斬り殺した時の記憶が鮮明に蘇る。心臓の鼓動が激しく揺れる感覚を覚えた雁来は、それを紛らわす為に会話を続ける。

「何と、殺されたと」

「はい。街で、侍に斬られて。それはもう、惨い死に方でした。誰に殺されたかは分かりませぬが、詮索したとて私が一人になってしまったのは変わりません。一人の暮らしも随分慣れましたが、何でしょうね。誰かと一緒に居ると、死んだ筈の父を思い出してしまいます」

 頬を染めながらそう言うと、紅染は自らの左手を目元に寄せた。軽く目元を擦る彼女を前に、雁来は昼間の出来事の罪悪感を痛感した。自分の行いもまた、目の前にいる紅染のごとき乙女に悲しみを与えていたのかもしれない。

 そう思うと、自分はどれほど愚かな事をしたのだろう。そんな考えに囚われた雁来は、堪らず紅染の華奢な身体を抱きしめた。紅染は、そんな雁来を拒むでもなく、落ち着いた口調で告げる。

「お侍さん、どうされたのです」

「すまない。お前の話を聞いていたら、思い出してしまったんだ」

「それは一体、何でしょう」

 紅染が、青年の肩に両手をかけると同時に、青年の顔を見上げた。雁来もまた、腕の中にいる少女の顔を見つめ返した。その瞬間、彼の鼻腔は彼女から漂う独特の香りで満たされていった。

「いつかきっと話そう。だが今は、それを忘れさせて欲しい。お前の悲しみも、そして、俺も――」

 言いながら、雁来は紅染との距離を縮めていく。二人の唇が重なると共に、雁来は紅染の身体を静かに押し倒し、着物の帯をゆっくりと解き始めた。



―――――



 木漏れ日が庵の中に入り込むと同時に、雁来は目を覚ました。褌以外に何も身に着けないまま、彼はゆっくりと上体を起こし、辺りを見回す。すぐ隣に聞こえる寝息に顔を向けると、紅染が静かに眠っていた。布団を被ってこそいるが、肩と素足を露出させたその姿から、何も身に纏っていない事は明白だった。

 雁来は、紅染の顔を見つめながら、昨夜の情事をゆっくりと思い出す。その一方で、雁来の脳裏で、ある猜疑心が過る。紅染がいずれ俺が侍を殺した事を知った時、誰かに口外しないだろうか。此処は笹林の奥深くであるが、追手の追及もそう遠い出来事の話ではない。

 顔を覚えられた以上、この女の口を塞がねば、仕方あるまい。意を決した雁来は、木の床に置かれていた自分の刀を静かに掴んだ。柄を握り、鞘を抜く。刹那、刀身に陽光が反射し、庵の中を微かに照らし出した。雁来は紅染が目を覚まさないかと動揺したが、彼女が相変わらず眠っているのを前に、小さく安堵の溜息を漏らした。

 雁来は刀を構えたまま、紅染の元へにじり寄った。うつ伏せの状態で、その上に布団を被ったまま寝息を立てている少女を前に、雁来は思わず喉を鳴らした。眠っている女の姿が、初めて美しいと思ったのだ。そんな迷いを断ち切るように、雁来は唇を強く噛んだ。紅染(こいつ)を生かしておけば、自分の身が危ないのだ。何度も自身に言い聞かせたところで、雁来は刃先を少女へ向けると、両手で刀の柄を握った。

「悪く、思うなよっ」

 そう叫ぶと同時に、白い刀身が紅染の背に深く沈み込んだ。目を大きく見開いた紅染が、低く短い悲鳴を上げる。布団を赤黒い血が濡らしていくのを前に、雁来は更に刃を深く押し込んだ。恐らくもう、刃は心臓に達しているだろう。全身に薄らと汗を浮かべながら、雁来は心の内で予感する。

 程なくして、刃を動かす度に小さく痙攣していた紅染の身体が、完全に動かなくなった。布団は完全に血の色で染まり、苦悶の表情を浮かべた彼女の口からは、蛙の如く舌が突き出されている。

 これでいい。息を荒げつつそう呟くと、雁来は紅染の身体から刀をゆっくりと抜き去った。着ていた衣を身に纏い、更に庵に残されていた僅かな米と野菜、金を懐に仕舞う。そして、青年はそのまま庵を後にした。

 そんな彼の後姿を、既に事切れた少女の赤い目が、静かに見つめていた。

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