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第一話

 生温い風を受け、笹の葉が揺れる。青葉が擦れ合う微かな音が、夜闇に包まれた笹林で幾重にも響いた。

 ふと、音が自分の傍まで近づいたと思った青年――雁来(かりき)は、その場で立ち止まる。刹那、手に持った提灯の明かりが左右に揺れた。彼が四方を忙しなく見渡した瞬間、葉が擦れる音はゆっくりと遠ざかり、代わって静寂が辺りを包み込む。

 何だよ、脅かしやがって。心の中でそう洩らし、雁来は再び笹林の中を走り出す。腐葉土を踏みしめる度に響く乾いた音を聞きながら、雁来は自分がこうして林を歩いている理由を思い返した。

 それは、陽が暮れる間際の事だった。小さな商人町に居た雁来は、薬屋の主人が中年の侍から薬を渡すよう迫られる場面に遭遇した。侍は町一帯に響く程の声で、黙って薬を渡すよう迫る。対して主人は、その薬は南蛮産の希少な物であり、侍が持っていた金だけでは足りない、と返す。同じ押し問答を続けたところで、不意に侍が激昂し、刀を抜いたかと思うと、薬屋の主人を斬って捨てた。その場で前のめりに倒れる主人の姿を前に、雁来は侍の振る舞いに激しい怒りを覚えた。同じ侍として、何て低俗な輩であろうか。そう思った雁来は、薬屋へ上がり込む侍へと歩み寄った。初めのうちは激しい口調で喧嘩をしていたが、やがて互いに刀を抜き、気付けば侍は全身血に塗れて死んでいた。

 赤黒く染まった羽織に縫われた家紋から、雁来が手に掛けた侍は、藩政に関わる程の有力な武士だと判明した。それを見て取った雁来は、その場から逃げた。道中、商人の男が持っていた提灯を奪い取りつつ、町の外れにある笹林へ、目いっぱい走った。そして、どれ程の時が経ったか。雁来の足は悲鳴を上げ、提灯の明かりも既に消えている。完全な暗闇の中、雁来は息を荒げながら、舌打ち交じりに呟く。

「くそっ、どうして俺がこんな目に」

 あの時、侍の所業を黙って見過ごしていれば良かったのだろうか。だが、何度後悔しても最早後の祭りだった。今頃、町やその周辺では自分を探しているに違いない。もし捕まれば、良くて切腹か、或いは打首だ。冗談じゃない。そう思った雁来は、その場で腐葉土の地面を何度も強く踏み付けた。

 こんなことで死なねばならないとは、堪ったものではない。そもそも、俺は悪くないんだ――自分にそう言い聞かせる雁来の腹が、小さく震えた。思えば、あれから何も口にしていない。空腹である事を自覚した瞬間、雁来の脳は忽ち食糧の事で満たされていった。せめて何か食べなければ、夜のうちに林を越えて藩を抜けることが難しくなる。食欲に飢えた男の額から、とめどなく汗が溢れ出る。

「どうされたのですか、お侍さん」

 雁来の背後で、まるで鈴のようにか細い声が響く。それと同時に、辺りがぼんやりと橙色に輝き、雁来の影が薄らと地面に現れる。驚いた雁来が後ろを振り返ると、そこには線の細い娘がぽつんと立っていた。自分とさほど歳が変わらないであろう娘は、右手に小さな提灯を持ったまま、雁来を見下ろしている。彼女の大きな黒い瞳に吸い込まれそうな感覚を覚えながらも、雁来は娘の顔を見上げた。提灯の僅かな明かりの中でも、娘の整った容貌ははっきりと見て取れた。

「お前は、誰だ。何故、こんな所に居る」

 未だ息を整えられないまま、雁来が低い声で尋ねる。対する娘は、口元に小さく笑みを浮かべたかと思うと、左手ですぐさま薄い桃色の唇を隠した。水色の生地に金魚をあしらった振袖が、小さく揺れる。

「そんな、怖い顔をされなくても。訳がお有りのようですし、良ければ私の家まで案内しますよ」

「質問に答えろ。よもや、物の怪の類ではあるまいな」

 雁来が苛立ち気味に告げる。対して、娘はまあ、と素っ頓狂な声を上げると、小さくかぶりを振ってみせた。それでも、娘は口元に浮かべた笑みを崩そうとはしない。

「私は、紅染(べにそめ)と申します。遠慮なさらずとも、私一人ですから。お侍さん」

 そう言って娘――紅染は踵を返し、笹林の来た道を戻って行く。歩く度に揺れる彼女の長い黒髪を見詰めながら、雁来は一瞬呆気に取られる。一体何なんだ、この娘は。紅染という人物の事について思考するも、腹から鳴り響く雑音によって、雁来の頭の中は食欲を満たす事だけで埋め尽くされる。それと同時に、眼前を歩く娘がくすくすと笑い声を漏らす。

「わ、笑うなっ」

「まあまあ、お侍さん。家に戻れば、何かご用意しますよ」

 紅染は、青年をちらと振り返ったかと思うと、また再び歩き出した。雁来もまた、ゆっくりと紅染の後を歩き出す。

 とりあえず今は、腹を満たすのが先だ。空腹のまま捕り方に捕縛されるよりは、初めて会った娘の口車に乗る方がまだましだ。そう自分に言い聞かせながら、雁来は腐葉土に覆われた地面を踏みしめていった。

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