09 侯爵家狂乱の日
ガタガタと揺れる馬車の中で、腕に閉じ込めた少女の顔を見つめる。
執務室にてアリアードの件を報告し終わってもなお、ミティリアが目覚めることはなかった。
あの宝石のように美しい緑色の瞳を随分目にしていない気がして、寂しさを覚えてしまうのは贅沢なことだろうか。
「早く目を覚ましてくれ、ミティリア……」
滑らかな頬をするりと手の甲で撫でると、そのままキラキラと輝く金色の髪に触れる。
物心つく前から、心ない人間達に暗く湿った地下室に閉じ込められてきたミティリア。
辛い思いを散々してきたであろう、腕の中の存在を真綿で包み込むように優しく守りたい。
だがこの少女は見る者の心を奪ってしまう容姿と、自分を閉じ込めていた人間さえ許してしまうような聖人のごとき美しい心を持つ稀有な存在だ。
ミティリアを知れば、誰もがこの存在を求めてしまうだろう。
そうなる前に、自分の物だと縛り付けたい。
ジークフリートが言っていたように、ミティリアが例え身元不明の平民だとしても、アイゼンバーグ侯爵家と関わりのある貴族の養子にすれば娶ることは可能だろう。
その考えが頭の隅から離れないことも事実だ。
両親も兄も、顔を合わせるたびに、早く結婚しろとぼやいていたのだから、なんだかんだ言いつつも協力してくれるはずだ。
だが、それでは言葉が分からないミティリアの気持ちを全く無視してしまうことになる。
無理矢理自らの物にするのではなく、ミティリアからもライオネルを求めて欲しいだなんて若干夢見がちな乙女思考のおかげで、ミティリアの強制嫁入りは回避されたのだった。
大きな門を馬車のままくぐり、広大な敷地を進むと、アリアードの領主館など馬小屋かと錯覚してしまいそうなほど豪勢な屋敷の玄関前で停止した。
「ジョセフ、御苦労だったな」
馬車の御者を務める使用人に声をかけ、ミティリアを腕に抱いたまま、危なげなく馬車を降りる。
近年は騎士に与えられる独身寮に寝泊まりしていたため、久方ぶりの帰宅である。
玄関先には先触れでライオネルの帰宅を知らされていた使用人達が迎えに出ていた。
「お帰りなさい……ませ?」
出迎えた使用人達の顔色が一様に悪い。
迎えの言葉も中途半端に止まってしまった。
その場にいた誰もが、我らが坊ちゃまはついにやってしまったのかと青ざめた。
かろうじてそれを口にすることがなかったのは、さすがエルディード帝国内有数の高位貴族であるアイゼンバーグ侯爵家に仕える使用人といったところだろう。
しかしながら、迎えに出た勤続35年の筆頭執事ダニエルやメイド達からの尊敬を一身に集めるメイド長イリーナでさえ顔色を悪くしていたのだから、使用人達に走った衝撃はかなりのものだった。
ライオネルがその腕の中に、大変美しい、言葉で言い表すことに限界を感じるほど美しい、自らの語彙力の無さを責めてしまうほどに筆舌に尽くしがたい程に美しい少女を抱いている。これは事件だろうか。
使用人達に走った疑念や衝撃を払拭したのは、アイゼンバーグ侯爵家の美しき女主人だった。
社交界の華ともてはやされた美貌は年齢を重ねた今も健在で、息子であるライオネルと同じ艶やかな黒髪がなんとも美しい。
軽やかな足取りで、階段を下りてきたアイゼンバーグ侯爵夫人アリーシャは、弾むような声を上げた。
「ライオネル!その子が先触れで連絡のあったミティリアちゃんね?」
「母上、ただいま戻りました。こちらの少女がミティリアです。本日から宜しくお願いします」
腕の中に抱き上げている少女の顔を母親に見せると、ライオネルが小さく頭を下げた。
すると、アリーシャはその白い肌をバラ色に染め上げて、興奮したように息子が抱く少女へと駆け寄る。
「まあ、まあ、まあ!なんて可愛らしいのかしら!ついに、ついに、あなたのお嫁さんが我が家に!」
「いや、ミティリアはそのような……」
親子の会話に全くついていけなかった使用人たちだが、聞き捨てならない言葉を奥方様が発したことに驚きが広がる。
ライオネルがもごもごと小さな声で何かを言っているが、そのような些細なことなどどうでもいいほど喜ばしい言葉が聞こえてきたではないか。
「ライオネル様のお嫁様でございますか!」
「いや、それは母上の勘違いだ。ミティリアは事情があり当家で保護することになった。詳しいことは後ほどお前たちにも話すが、大変な目に遭ってきた子だ。優しくしてやってくれ」
執事のダニエルが思わず発した言葉を、ライオネルは即座に否定する。
だが、生まれた時からライオネルを知っているダニエルの目は誤魔化せない。
そして、恋愛に関する匂いを決して逃さない恋バナ大好き女性陣の目も誤魔化せない。
嫁だと言われてライオネルは照れている。
堪え切れない喜びのようなものが溢れたのだろう、口元がニヤリと引き上げられている様は、赤の他人が見れば凶悪犯のたくらみ顔にしか見えない。
だが間違いなく照れている。長い付き合いである使用人だからこそ分かる些細な機微だ。
ライオネルのそんな嬉しそうな照れたような顔を初めて見た使用人達は、ライオネルがこの儚げな美少女に並々ならぬ好意を抱いているということにばっちりはっきり気付いてしまった。
その時、使用人達の心は一致団結した。
顔の造りは極上にも関わらず照れた顔さえ恐ろしいというどこまでも不憫なライオネルの為に、初恋さえまだなのではと噂される程浮いた噂一つないライオネルの為に、最上級の心配りでこの美しいお嬢様をおもてなしして、どんな手を使ってでもこの家から逃がさないようにしなければ、と。
「……りゃい?」
一種の興奮状態に陥っていたアイゼンバーグ侯爵家の玄関ホールに、甘く柔らかな声が小さく響く。
その声の主は、ライオネルの腕に抱かれた少女で、宝石のような緑の瞳がパチリと開いている。
「ミティリア!目が覚めたのか?」
アリーシャにとっては可愛い息子でも、筋金入りの凶悪顔のせいで人から避けられることが多かった息子。そんな愛しくも悲しい息子が、こんなにも嬉しそうに笑う姿など赤ん坊の頃以来ではないだろうか。
息子が少女を見つめながら浮かべる幸せそうな頬笑みに、抑えることなど到底できない程の喜びが込み上げてくるのを感じていた。
少女の身元や事情などについてはこれからの調べで分かってくるだろうが、アリーシャが信頼する息子が心を寄せる少女が悪い人間のはずがない。
例えどんな複雑な事情や問題を抱えていたとしても、この少女を愛しい息子の嫁にするために、侯爵家の権力とコネを使い全力でもみ消してみせる。
ニヤリと笑ったその顔は、ライオネルに非常に良く似た悪役顔だった。
そんな凶悪な笑顔を偶然、現状把握のためにきょろきょろと辺りを見渡していたせいで、本当に偶然見てしまったミティリアはあまりの恐ろしさにカタカタと全身が小刻みに震えだした。
(やばいやばいやばい……何か魔王様に良く似たおっかない顔の女の人がいるよ!え、え、絶対この二人血繋がってるよね?魔王様より年上っぽいし、お姉さんとか?まさか魔王りゃい様は魔王様じゃなくて、この女王様っぽい雰囲気バンバン醸し出してるお姉さんが本物の魔王様ってオチか!やばいやばいやばい……りゃい様にさえ歯が立たなかったのに、それより上っぽい本物の魔王様に勝てるはずなんてないよー無理ーまじ無理ー。ボス倒したと思ったら実はその後に裏ボスが出てくるって、ある意味王道だけどさーよく勇者たちは絶望しないよなあれ。俺には無理だよ……)
ミティリアの体が小さく震えていることに、抱き上げているライオネルが気付かないはずがない。
「どうした、ミティリア?」
腰に響くバリトンボイスを耳元に流し込まれたミティリアは小動物よろしくぴゃっと竦み上がり、きょろきょろとせわしなく周囲を窺う。
ミティリアの小動物じみた可愛らしい反応に、ライオネルはもちろんのこと、アリーシャや使用人達もその場にいた全ての人間が心臓を打ち抜かれ、自然と笑顔が浮かぶ。
しかし、そんな周囲の笑顔は、思わぬ裏ボスの登場に怯えていたミティリアにとっては、追い打ちをかける恐ろしいものでしかなかった。
(ここは地獄だ。いや、すごく大きな建物みたいだからここは魔王城か。敵の本拠地にレベル1で足を踏み入れた勇者は俺が初めてだろうな……それにしてもすごい綺麗な人だなー俺、この女王様に引き渡されるために連れてこられたのかな……なんか若い乙女の生き血って美容に良いってどこかで聞いたことあるもんなー世界三大美女のクレオパトラとかも若い女の人の血を飲んで美しさと若さを保ってたらしいし。そうかそうか、俺は生き血要員だったからすぐには殺されなかったんだ。生き血なら生きてなきゃ意味ないしね…………って怖っ!生きながら血吸われるの?ずっと?そんでもって若くなくなったら殺されるの?無理無理無理無理無理)
「馬車の移動で疲れたのか?母上、ミティリアの部屋をご用意頂けますか?」
「ええ。あなたの部屋の隣が客間ですから、とりあえあずそこをミティリアちゃんのお部屋にしましょう。内装や調度品はミティリアちゃんに相応しいものに追々整えていきましょうね」
ミティリアへの優しさに満ち溢れている二人の会話も、自らを生き血要員だと確信したミティリアからすると、『女王様、ご所望の品をお持ちしました』『ご苦労だったわね、褒めて遣わすわ。早速おやつにでも頂こうかしら』といった、極悪人達による人身売買的取引現場にしか見えなかった。
「りゃ、りゃい」
「ん?」
(安定の恐ろしい顔!でも少なくともりゃい様は美容に心血注いでいるようには全然見えない!むしろ人類を侵略することに心血注いでるって感じだ。ということは、生きながら血を吸う女王様よりましだ……よな?俺だってやられるなら一発で仕留めて欲しい。じわじわ殺されるなんて、そんな拷問みたいなことぜったいぜったいお断りだ!女王様に引き渡されないように、何としても、りゃい様から離れる訳にはいかない)
その瞬間を、ライオネルは一生忘れることは無いだろう。
ただ抱きしめられているだけだったミティリアが、その小さな白い手で、ライオネルの胸元をきゅっと握ったのだ。
それはまるで離れたくないと言わんばかりの、健気な仕草。
「りゃい……」
極めつけは涙を讃えた潤んだ瞳での上目遣いだ。
「ミ、ミティリア、どうした?何か心配ごとでもあるのか?お前を傷つける者はここにはいない。もし誰かがお前を傷つけようとしても俺が必ず守る」
動揺のあまり、母親の前だとか、昔から顔見知りの使用人たちの前だとか、そんなことは頭から全て吹き飛び、愛を乞う舞台役者も真っ青の甘いセリフを口にしていた。
この空間にいるミティリア以外の全ての者がライオネルの愛の告白もかくやという言葉を生温かい目で眺めている。
だが、大変不幸なことに肝心の伝わって欲しい相手だけは、きょとんとした顔で首を傾げており、その言葉の意味を全く理解していなかった。
ミティリアが落ち着いたら、まずは言葉を教えようとライオネルが誓ったかどうかは置いておいて、ミティリアはこうしてアイゼンバーグ侯爵家へと迎え入れられた。
青年の純情を壊滅的な語彙力によって踏みにじったミティリアは、拷問か即死かというある意味デッドオアデッドというギリギリな選択の末に、苦しまない方を選びとった。
生き血要員回避のために、少しでもライオネルがミティリアの側を離れようとすると、きゅっとその服の端を握りしめては、ライオネルを悶えさせた。
さらには、ライオネルが移動する度にとてとてと後ろを付いて回るその姿は、まるでひな鳥のように可憐で。
ここまで一身にライオネルを慕っている愛らしい姿を見て、心を打ち抜かれるなという方が無理な話だ。
それは侯爵家当主であり、大変厳しく気難しい人間だと評判のライオネルの父、ディートハルト・アイゼンバーグ侯爵ももちろん例外ではなかった。