05 目は口ほどに物を言う
背中がぽかぽかと暖かい。
だけどその感触は柔らかさの欠片も無いもので、例えるなら堅く分厚い鉄の板だろうか。
「ん……」
閉じた瞼の向こうがひどく明るい。
意識をぼんやりと取り戻したミティリアは、生まれてこの方感じたことのない光の量に、なかなか目を開けることができずにいた。
ミティリアをがっしりと後ろから抱きしめていた男がその身じろいだ様子に気付かないはずはなく。
「気が付いたか?」
耳元でささやかれた重低音は、ミティリアの体をふるりと震わせた。
どこか聞き覚えのあるこの低く腰に響くバリトンの美声は……。
(いやいやいや、さっきレベル1で魔王とエンカウントしたのは、夢だよね。うん。こんな周りが明るいのも……夢だよね。生まれて初めて外の空気吸ってるみたいな気がするけど…………夢ですよね。)
先程まで開けることをためらっていたことなど微塵も感じさせない勢いで瞳を開くと、恐る恐る後ろを振り返る。
そこにいるのは、やはり先程ミティリアの要塞へと侵入してきた魔王その人だった。
(夢じゃ無かったー!!てか俺思いっきり拉致されてんじゃん!え、つーかなんで俺殺されずに拉致されてんの?)
「あ……う……」
心の中でいくら叫ぼうとも、喉を震わすのはそんな意味のない単語のみ。
「やはり言葉は分からぬか。だが耳は聞こえているとあの侍女が言っていたな。ミティリア、俺はライオネル・アイゼンバーグだ」
(何か俺に言ってるよ!だけど自慢じゃないけどさっぱり分かんねーよ!何だよその舌がもつれて絡んで回転してるような発音は!これを理解しろって方が無理あるよ。とりあえず愛想笑いだ。何でか分かんないけど、まだ殺されてはないから、命を少しでも先延ばしにするために、ただひたすら笑え俺!たとえ目の前に何人か殺してること間違いない凶悪面の魔王様がいようとも、ご機嫌取りのためにひたすら人畜無害な雰囲気で笑うんだ!)
首をちょこんと傾げ、ふんわりと控えめな笑みを浮かべるミティリアはそれはそれは可憐だった。
それを至近距離で目撃してしまったライオネルは、ミティリアのお腹を支えるように回していた腕に無意識のうちに力が入る。
やっぱりこの少女は自分を怖がりもせず笑いかけてくれるのだ。
(ぐふっ……謙虚にほほ笑んだ俺の腹を締め上げにかかってきやがった。やっぱり殺す気だな。しかもひと思いじゃなくじわじわとやる気だこの魔王様は。怖い怖い怖い……)
「ミティリア……なんと可憐な……俺はライオネルだ。ライオネルと名前を呼んではくれないだろうか?」
ライオネルが発する声がとろりと甘さを含んだものになる。
普段は凶暴な光を讃える眼差しも柔らかく緩み、元々の造形の良さがにじみ出ている。
いつもはライオネルを怖がり全力で避ける令嬢たちも、この姿を見れば間違いなく一目で恋に落ちるだろう。
しかし命を取られる瀬戸際にいると思い込んでいるミティリアにとっては、残念なことにその優し気な様子さえ恐怖を感じさせるものでしかない。
(笑ってらっしゃる。笑っていらっしゃるー!!!一体何がそんなに楽しいんですか。あ、俺を殺すことですか。やめてくださいーまだ1度も魔法に成功したことのない雑魚なんですー。あなたの脅威になるものじゃないんですー。見逃してください。お願いします。……てか魔王様がさっきから繰り返し言ってる単語ってなんだろう)
「ミティリア……ライオネル」
ミティリアを指差し名前を呼び、自らを指差し同じく名前を呼ぶ。
(もしかして、この魔王様の名前かな?「ミティリア」って呼びながら俺のこと指さしてくるし。殺してしまう人間に自己紹介するなんて、どういうつもりだろう……さっぱり分かんないけど、これちゃんと呼ばなきゃご機嫌崩しちゃうかもしれないな……)
「りゃぃ……ねう?」
その舌足らずな、それでいて甘やかな声に、ライオネルは体を硬直させた。
なんと可愛い生き物なのだろう。
長いまつげを震わせながら、美しい緑の瞳をこれで合っているのだろうかと不安気に揺らしながら見つめてくるその様に、ライオネル・アイゼンバーグは生まれてこの方一度も経験したことのない、感覚が体を駆け巡るのを感じた。
心臓が強く握りしめられたようにギュッと痛み、頭に血が上る感覚がしたかと思うと、目眩のように目の前がクラりと揺れる。
「ライオネル」
「……りゃぁーねう」
「ライオネル」
「……りゃいねーう?」
永遠にこのやり取りを続けたい。
そんな誘惑に心が負けかけたなど誰にも言えないと、なんとか冷静さを取り戻すと、名前をきちんと呼ばせるのはどうやらまだ難しそうだと判断する。
「ライ」
「りゃい」
まさか誰かに名前を愛称で呼ばせる日が来るなど思いもしなかった。
家族や友人にさえ許していないそれが、この少女の口から発せられると、とても特別ですばらしいものになることが分かった。
合格だと言わんばかりにミティリアに向かって一つ頷いてみると、ぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべて、何度も小さな声で「りゃい、りゃい」と繰り返している。
天使がいた。
腕の中に天使が。
これは馬で移動するための不可抗力なのだとその腕の中の柔らかさを堪能しながら、生まれて初めて味わう種類の幸せに浸っているライオネルを現実に引き戻したのは、ミティリアとは似ても似つかない低く掠れた男の声。
「あのー師団長。幸せ噛みしめてるところ申し訳ないんですけど、そろそろ夜営の場所に向かいましょう。もうすぐ日が暮れますよ」
全員からの無言の圧力に負けたジェイドが、長い付き合いの中でも初めて見る上司の幸せそうな様子に申し訳ないと思いつつ割って入ると、射殺さんばかりの眼差しで睨みつけられ、あまりの理不尽さに少し涙を浮かべたのはほんの蛇足である。