16 異世界画師の画力は高かった
「ライオネル。あなた自分が何をしたか分かっているの?」
登城の準備をするために、ミティリアの部屋を後にすると、廊下に立ってこちらをギロリと睨みつけているアリーシャと目が合う。
見るからに怒りで震えているらしい母親に、ライオネルは嫌な予感がした。
「ミティリアちゃんはまだあなたの婚約者でもなんでもないの。いくらミティリアちゃんがあなたのことを大好きで、好意を前面に出してくれているからって、簡単に手を出していいわけないでしょう!結婚前に婚約者じゃない男とそんなことをしたら、男のあなたじゃなくて、ミティリアちゃんの方が困るの。この屋敷の人間は外に漏らすようなことはしないと思うけど、それも絶対じゃないわ。もしこれが他の貴族の耳にでも入ったら、ミティリアちゃんは身持ちが悪い女だって、これから先ずっと後ろ指を指され続けることになるの。ミティリアちゃんが将来あなたと結婚したら、社交界や夫人同士のお付き合いは避けて通れない。あなたは後継ぎじゃないから、そこまで社交に力を入れなくてもいいけど、全くゼロってわけにはいかない。その時にミティリアちゃんがとても苦労することになるの。そういうことを分かっているのあなたは」
立て板に水のように高速で話し続ける母親に、気圧される。
それでもアリーシャが抱いている多大なる誤解については、ミティリアの名誉のためにも説明しなければと口を開いた。
「ミティリアとはそういう関係ではありません」
「確かに、シーザーの子供達は領地にいるから、滅多に会えないし、私だってあなたの子供を見たいわ。だけどねライオネル、物事には順序ってものが…………あなた、今何て言ったの?」
熱弁を奮っていたアリーシャの動きがピタリと止まる。
「確かに同じ寝台で寝ましたが、一切手は出していません」
だからそんなに怒る必要はないと続けようとしたのだが、それよりも早くアリーシャの顔がさらなる怒りに歪んだ。
「あっ、あなた、それでも男なの!?あんなにかわいくて綺麗で柔らかいミティリアちゃんと同じ寝台で寝ておいて、一切手を出していないですって?信じられない。無駄に男くさい顔してるくせに、あなた一体何考えているのよ!」
なぜか先ほどよりも怒りが大きい気がする。
手を出したと怒られていたかと思えば、手を出さなかったと分かるとその何倍も激怒された。
我が母親ながら本当に難解な人物だとライオネルは首を傾げる。
息子であるライオネルだからこそ、この程度の感想しか抱かないが、怒りに震えているアリーシャの姿は傍目にも大変恐ろしいものだった。
夫であるディートハルトがこの姿を目撃すれば、何もやましいことを抱えていなくても、すぐに踵を返して逃げ出したことだろう。
「あなたがもう手を出しちゃったのなら、すぐにでも色んなところに手を回してあなたとミティリアちゃんを結婚させようと思ってたのに……どこの家の養子にするべきかあの人と話してたのに……結婚式はどんなドレスがいいかしらってことまで考えていたのに、ひどいわ!ミティリアちゃんの部屋を何のためにあなたの隣の部屋にしたと思ってるの!さっさと既成事実を作るために決まってるでしょう!?……だいたい大の大人の男が小首傾げても、可愛くともなんともないから止めてちょうだい。やっぱり娘が、ミティリアちゃんが娘に早く欲しい!」
どうやら最初にライオネルへとぶつけた貴族として常識的な言葉の数々は完全なる建前だったらしい。
本音は早くミティリアを娘にしたいという言葉に全て集約されている。
既成事実を作らせるために息子の隣に部屋を用意させただなんて、侯爵夫人としてあるまじきとんでもない言葉も聞こえてきた気がするが、ライオネルは聞き間違いだと己に言い聞かせる。
散々まくしたてるアリーシャの理不尽極まりない言葉を、話半分に聞いていたライオネルだが、その中の一つの単語に反応する。
結婚。
確かに公的にミティリアをライオネルの妻にしてしまえば、もしミティリアに奇跡を引き起こす何かがあったとしても、ジークフリートも物理的にそう容易く差し出せなどと言えないだろう。
現在のミティリアの立ち位置が、ただアイゼンバーグ侯爵家で保護している少女というものだからいけないのだ。
完全にアイゼンバーグ侯爵家の人間にしてしまえば、国はもちろんのこと、もしミティリアを監禁されていたサロメ王国の人間が何らかの行動を起こしてきたとしても、対処が容易になる。
ミティリアときちんと心を通わせて、段階を踏んで結婚をしたいだなんて悠長なことを言っている場合ではないことは確かだ。
ライオネルの懸念が当たっているとすれば、ミティリアを屋敷に迎え入れた時とは、事情が変わってしまったのだから。
だが、それでもやはり結婚は最終手段だとライオネルは考える。
ミティリアは、言葉はもちろんのことだが、心だってまだ十分見た目通りに育っているとは思えない。
長年監禁されていたにも関わらず、ミティリアの目は全く曇っておらず、知性を宿している。
しかし、ライオネルの姿が見えないと不安になる様子などは、成人したと推察される見た目の年齢を裏切る幼げなものだった。
確かに、ライオネルはミティリアに惹かれているし、ミティリアもライオネルに好意を向けてくれているかもしれないが、ただ好意を向けられているからといって、そんな様子のミティリアを安易に自分の物にすることは、ライオネルの真面目すぎる騎士としての性分がどうしても許さなかった。
「母上」
「もう、何よ!」
怒りが収まらないらしいアリーシャは、目を吊り上げてライオネルを睨みつける。
「ミティリアにたくさん話をしてやってくれませんか?言葉が分からなくてもいいんです。それにどんな話でもいい。父上との馴れ初め話でも、庭に飛んでくる鳥の話でも。とにかく色んな話をしてあげて欲しいんです。ああ、そうだ……小さな頃に母上が俺に読んでくれた絵本を読み聞かせるのもいいな」
「……あなたに読んであげた絵本をミティリアちゃんに?」
唐突に思わぬ話をされたアリーシャは、先程までの怒りを削がれてしまう。
「ええ。ミティリアは多くの者が幼い頃から経験しているはずの様々なものを、理不尽に与えられませんでした。食事を与えるメイドはいても、愛情を与える家族はいなかった。結婚とかそういうことの前に、まずは家族からの無償の愛情というものを与えてあげたいんです。母上がミティリアを娘にと望んでくれているのであれば、絵本は言葉を学ぶのにも相応しいですし、どうかお願いできませんか。もちろん、俺もミティリアに言葉を教えたり、外に連れ出して色々な経験をさせたいとは思っているのですが、どうもしばらく仕事が立て込みそうで」
ライオネルの真摯なお願いに、アリーシャは気が抜けたような顔でぽつりとつぶやく。
「ライオネル…………あなた、本当にミティリアちゃんのことが好きなのね」
「急に何ですか」
一人の少女の為に、真摯な態度で母親にお願い事をする息子の姿など、今まで想像もしなかった。
きっと本心では、すぐにでも自分のものにしてしまいたいだろうに、自らの感情よりも、少女のことを優先する姿は、我が息子ながら誇らしいほどの高潔さだった。
「ううん。……確かに、私も少し急ぎ過ぎてたわね。あなたが女の子を、それもあんなに可愛くてあなたのことを大好きでいてくれる子を連れて帰ってきたものだから、つい嬉しくて。これを逃したら、あなたの結婚がいつになるかって考えたら、ミティリアちゃんのこれまでの環境とかについてあまり深く考えずに先走っていたわ……」
ライオネル自身は結婚できないのではなく、結婚しないのだと考えていただけに、そこまで母親に自らの結婚について不安視されていたかと思うと少し、ほんの少しだけ傷ついた。
「イリーナとエイダには今朝のことは絶対に誰にも言わないように口止めしとくから、今後はミティリアちゃんの部屋で寝るなんてことしないようにね」
既成事実を作らせるために部屋を隣にしたという先程の言葉など、まるで無かったかのように釘を差すアリーシャ。
それが建前なのか本音なのかは、息子のライオネルにも分からなかった。
「…………分かり、ました」
昨夜のように、ミティリアに手を握られてしまえば、また同じことをしてしまう確信があったため、ライオネルの返事はどこか言葉を濁したような決まりの悪いものになってしまう。
そんなライオネルの微妙な返事を全く気にすることなく、アリーシャは息子の願いを叶えるために、何より可愛い未来の娘のために、早速絵本を探しにいくことにした。
ミティリアは自分が置かれた状況を全く理解できなかった。
今朝の目が覚めたらりゃい様らしきイケメンがいました事件から数刻。
今度は大量の本らしきものを抱えた女王様が、部屋を襲撃してきたかと思うと、ミティリアの横に腰掛けて、ずっと何かを話し続けている。
「しょうじょのねがいをきいたバルドラドは、いそいでむらへとかけつけました。しかしすでにそこには…………」
(何なんだ一体。抑揚をつけた感じで、一心に俺に向かって話し続けている女王様…………手には魔導書みたいなもの…………呪いか、もしかして呪いをかけられてるのか俺?りゃい様とかゴリラっていう盾が近くにいない今、俺防御力ゼロだよ?というか、女王様が手に持っている魔導書らしきものに、なんかすげー怖そうな怪物みたいな絵が描いてあるんだけど。…………もしかして俺を呪いであんな化け物にでも変えるつもり、とか……?)
騎士を目指す幼い男の子が喜ぶ絵本など、大抵は冒険物や英雄物だと相場が決まっている。
子宝には恵まれたが、生まれた子供が二人とも男の子であったアイゼンバーグ侯爵家には、かわいらしい挿絵のある絵本など一冊も無かった。
現在アリーシャが読み聞かせているのは、『英雄バルドラドの冒険』というエルディーダ帝国において男の子が一度は必ず読む通過儀礼のような冒険活劇だ。
ミティリアが目にした一場面は、英雄バルドラドが辺境の村を襲う悪い魔物を退治する一幕。
挿絵として採用されていたのは、才能ある画師により、非常に写実的に描かれた醜い魔物の姿だった。
(俺何か気に食わないことしましたか、女王様。こんな醜い化け物は嫌です、人間のままがいいです。生き血吸うのだって、人間体のままの方がやりやすいって!こんな黒くてドロドロで臭そうな奴の血なんて飲んでも、絶対その美貌保てないよ!むしろすげー体に悪そうだから!や、やめて、呪いの言葉なんてこれ以上聞きたくない!)
ライオネルの愛情と、アリーシャの善意による絵本の読み聞かせは、異世界画師の圧倒的画力のおかげで、ミティリアに新たなる恐怖を植え付けることとなった。




