14 少女の謎と騎士の苦悩
「確かに実をつけているな」
メイファージュの木を見上げながら、ディートハルトは信じられないものを見たとばかりに瞠目する。
それは確かに幼い頃から慣れ親しんだはずの、あの真っ赤な果実だった。
「信じがたいな……アイゼンバーグ領のメイファージュはあれから一度も実っていないというのに、まさかこの木に……」
「もうメイファージュの実が生ることはないと諦めていましたから、上を見上げることさえ忘れていましたわ」
感極まったように込み上げる涙を必死に堪えるアリーシャを、ディートハルトが抱き寄せる。
「もしかしたら、私たちは諦めなくてもいいのかしら。このメイファージュのように、この世界に奇跡は起こると信じていてもいいのかしら」
「この赤い実を再び見ることを誰もが諦めていた……」
干上がった川に水が戻ることも、枯れた森が再びその姿を取り戻すことも、どうにかしなければとあがく一方で、どこかで諦めの気持ちが滲んではいなかっただろうか。
「だが、諦めるには早かったようだ。我々の生きる世界は、まだ死んではいない」
「あなた……」
夫の肩に頭を預ける妻。
体を寄せ合う夫婦を暖かく見守るダニエルの横で、ミティリアはポカンと開いた口を閉じることが出来ない。
(……なんか急にゴリラと女王様のメロドラマが始まってるっぽいんだけど、どういうことよ?ゴリラはペットじゃないの?何か雰囲気があまあま……これって、一部の人に需要過多な異類婚姻譚ってやつ?『女王様はゴリラがお好き』とかそんなラノベ俺なら絶対読まないけど……)
ミティリアがアイゼンバーグ侯爵夫妻の関係に初めて疑問を覚えた瞬間だった。
(いや、女王様とゴリラの恋の行方はとりあえず置いておいて、今はあのリンゴだ!あんな高いところにあるのどうやって取ればいいんだろう……俺のこと裏切ったんだから、じーちゃん、リンゴくらいとってくれないかな)
ミティリアは裏切り者であるダニエルを見ると、メイファージュの実を指さしながら、視線で訴えかける。
「どうされました、ミティリアお嬢様?」
「ん……っん!」
必死に何かを訴えかけているということだけは伝わってくる。
しかし、まさか人類にとって希望とも言うべき実をもぎ取って来いと無謀なことを命令されているなんて、誰も思わないだろう。
(リンゴ!リンゴ!……伝わんないなー、使えないなー、じーちゃん)
「どうしたの、ミティリアちゃん。まだ何かあるの?」
ミティリアとダニエルのやり取りに気付いたアリーシャが、不思議そうに問いかける。
すると、ミティリアの指さす方向へ視線を向けたディートハルトが、何かに気付いたように、息を呑む。
「……あちらの方に、花が咲いている。……他にも実が生るということか……」
赤い実にばかり視線が向いていたが、少し離れた所に、白く小さな花が咲いていた。
この花が散れば、やがて実をつけるだろう。
「これは当家のメイファージュのみで起こっているのか、それとも他の所でも同じように何らかの変化があるのか調べる必要があるな。だが、いらぬ混乱や過剰な期待を招かない為にも、なるべく外に漏れないよう内密に進めた方がいい。シーザーに連絡を入れて、アイゼンバーグ領のメイファージュの木を調べさせるか」
あまりにも急な変化。
だが言葉では言い表せぬほどの喜ばしい変化。
「ダニエル、シーザーの元へ早馬を出せるか?」
「すぐに手配して参ります」
アイゼンバーグ領は広大だ。
一口にメイファージュの木を調査するとは言っても、調査に数日は要するだろう。
さらに、領地まで馬車で3日はかかる。つまり往復移動だけで6日ということだ。
結果が分かるまで最低でも10日は必要だろう。
こんなにも高揚する気持ちをどう抑えれば良いのか悩むところだ。
屋敷で結果を待たずに、いっそのことディートハルト自身が赴くべきかと思案する。
(あ、じーちゃんどっか行っちゃった……俺のリンゴ……アップルパイ……)
喜びに沸く人々を尻目に、ミティリアは未練がましくいつまでもメイファージュの艶々した真っ赤な実を眺めていた。
その日ライオネルが侯爵家へと帰ることが出来たのは、どっぷりと陽が沈んだ夜更けのことだった。
「お帰りなさいませ、ライオネル様」
「ああ、ただいまダニエル。ミティリアは?」
騎士服の上着を出迎えたダニエルに預けながら、ライオネルにとっての最優先事項を尋ねる。
「既にお休みになられてます」
「そうか……」
せめて顔だけでも見に行くかというライオネルの心の声は、ダニエルに筒抜けだった。
「うら若き乙女の寝室にこんな時間に入るなど言語道断ですぞ」
「……何も言っていないだろう。それに俺の部屋の隣だぞ?せめて顔くらい……」
「そんな子供のような我儘はおやめ下さい。それよりもライオネル様、旦那様がお待ちです」
ミティリアはもちろんのこと、両親も既に床についているだろうと考えていたため、ダニエルの言葉に訝しげな目を向けてしまう。
「父上がこんな時間まで俺を待っていたのか?……一体何の用だ」
「……大変、喜ばしいお話であることは間違いないかと」
どこか浮き立った様子のダニエルに追い立てられ、深夜に訪れたディートハルトの私室。
そこでライオネルは、信じがたい報告を父から受けることとなる。
「庭のメイファージュの木が実をつけた」
端的な言葉。しかしながらその意味は大変重いものだった。
「……本当ですか?」
「お前に嘘を言ってどうする。アイゼンバーグ領のメイファージュも調査するよう、既にシーザーへと早馬を出している。本当は私が赴きたかったが、折角シーザーが上手く領地経営をやっているところに土足で踏み入る訳にもいかないだろう」
市場に並ばなくなって久しい赤い実。
メイファージュが実らなくなると、帝国内のメイファージュ農家は全て、他の農作物の栽培へ移行を余儀なくされた。
その際に実が生らぬ木など邪魔だと、伐採されてしまったものも少なくないが、アイゼンバーグ領のように広大な領地であれば、まだいくらか残っているだろう。
もう、あのとろけるような甘さを味わうことはない。そう誰もが諦めた果実が、家の庭に実ったという。
「……庭を見てきます」
「おい、気持ちは分かるが、もう暗くてよく見えない。明日でも構わないだろう。明るい日差しの中で見る赤い実の方が、感動するぞ」
幼いころから厳しいばかりだった父が、いたずらっ子のようにそう言うのだから、よほど浮かれているらしい。
「分かりました。明日確認しましょう」
「…………あまり驚いていないな」
想定していたよりも、落ち着いた様子のライオネルを不思議に思ったのだろう。
少し冷静になったディートハルトが、訝し気に問いかける。
「それは、もちろん驚いています……ただ」
アリアードの件。
野営地の湖の件。
ライオネルは既に2つの奇跡を知っている。
たとえ、もう実ることのないメイファージュの実が生ったとしても、もはやそれは必然なのではないかとさえ思えてならないのだ。
「……ただ、実感がないだけです」
「まあ、そういうことにしておこう。お前にだって色々立場があるだろうしな」
ディートハルト自身、かつては軍部のトップにまで上り詰めた男だ。
家族へも漏らせない機密事項など腐るほど抱えていた。
もし、息子がメイファージュの件に絡んで何らかの情報を持っていたとしても、追求するつもりはない。
焦らずとも、必要なことは、必要な時に、おのずと分かるものだ。
難しい顔をして黙り込んだライオネル。
別に親に全てを話せないことに罪悪感など感じずとも良いのに、息子ながら真面目な男だなと呆れる。
何か話題を変えようと思案すると、メイファージュの実が見つかった時の話が思い浮かんだ。
「ああ、メイファージュの実を見つけたのは、あの娘だ」
「……ミティリアですか?」
ミティリアが、メイファージュの実を見つけた。
その事実に感じる僅かな違和感。
「アリーシャを探して庭に出たらしいが、急に木の周囲をぐるぐると回り出したかと思えば、上を見上げて泣きだしそうになっていたそうだ。まるで必死にメイファージュの実を探そうとしていたようだったとアリーシャが言っていたよ。そして、結果としてあの娘が誰も気付かなかった実に気付いたという訳だ」
3度目。
ミティリアがいることで奇跡が起こるのはこれで3度目だ。
ミティリアが閉じ込められていたアリアードの町は、自然の荒廃など欠片も見られず、水や緑に溢れていた。
ミティリアと共に訪れた湖は、その日を境に豊かな水量を取り戻した。
農民や国がどれだけ手を尽くそうとも、二度と実ることのなかったメイファージュの実が、ミティリアを屋敷に引き取って僅かもしないうちに実った。
これは偶然なのか?
ただの幸運だと断じるには、少し偶然が重なり過ぎているように思えてならなかった。
そして、背筋に冷やりとしたものが走る。
ミティリアは、一体何者なのか。
もし、この奇跡にミティリアが何かしら関与しているのだとしたら、あの愛しい少女は一体どうなってしまうのか。
ジークフリートの耳にメイファージュの件が入れば、あの聡い主君のことだ、すぐにミティリアとこの奇跡の数々の奇妙な関連性に目を向けるだろう。
今は、ただ隣国の田舎町に監禁されていた不幸な少女を、幼馴染が勝手に連れて帰ってきただけだと認識しているはず。
ジークフリートにとってのミティリアはそれ以上でもそれ以下でもない。
だが、3つの奇跡の現場全てに、ミティリアの存在があったと知れば、そうも言っていられない。
もちろん、これはミティリアに全く関係のないところで、起こっていることかもしれない。
現在、エルディーダ帝国内外の調査を、再度注力して行う準備を進めている。
その結果、アリアードや野営地の湖と同じような例が他にも報告されれば、何の問題もない。
だが、調査の結果、この奇跡のような変化が今現在判明しているこの3つの出来事だけであれば。
ジークフリートはどんなことをしてでも、その奇跡を起こす理由を解明しようと、ミティリアを調べつくすだろう。
国と一人の少女では、その重さは比べるまでもないと、国に己を捧げた王は決断するだろう。
そんなことになれば、ミティリアは、あのどこもかしこも華奢で柔らかい心の優しい少女は、一体どうなってしまうのか。
「……父上、メイファージュの件は、また明日詳しくお話しましょう。少々疲れたので、今日はもう休むことにします」
ディートハルトに声をかけると、返事も待たずに踵を返す。
「ああ、ゆっくり休め」
父親の息子を労わる言葉は、全く耳に入ってこなかった。
師団長という国の要職に就く人間としては、とても喜ばしいことが起きているはずなのに、ライオネルは少しも高揚していない自分に気付く。
一人でずっと辛い思いをしてきたミティリアに、溢れるほどの幸せを与えたかった。
辛い思いを二度とさせるつもりなどなかった。
果たして己はあの愛しい少女を守り抜くことが出来るのだろうか。




